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韓国の友達は日本へ来れば日本の性文化があまり開放的だ
と感じると言います。韓国はすぐ側国なので似ているのが
多いが性文化に対してはあまりにも違って私も分かりたい
ですよ。韓国は儒教の影響で性に関したことは隠すと言い
ますが同じく儒教の影響を受けた日本は韓国とは違う性文
化です。
私の分かりたいことは日本は周辺国とは違うようにどう
して成文化が開放的になったし。伝統的に日本の性文化は
開放的だったのか分かりたいです。

A 回答 (5件)

1. 現代についていえば、日本が性に開放的な原因は、宗教が強くないことが大きいと思います。

宗教が今も社会に影響力の強いイスラム世界は、性に対して閉鎖的・抑圧的な社会ですし、欧米文化でもカトリックの強いラテン系の諸国は意外に保守的なモラルが生きていたりします。

2. 伝統的にも、時代を古く遡れば、日本はもともと性におおらかな文化でした。外来宗教である仏教(禁欲を重視)や儒教(性に閉鎖的)が来る前の日本は、性にひじょうにオープンだったようです。古事記などを見れば、かなりそれが感じられますし、平安朝になっても文学は大半が男女関係がテーマですよね。日本で恋愛が不自由だったのは、禁欲しなければならない僧侶や修行者と、江戸時代の武士階級、明治~昭和の中流~上流階級に限った現象ではないでしょうか。江戸時代だって、人口の大半を占める農民その他庶民は、武士階級と違って結構奔放だったようです。

3.韓国との比較は……韓国のことに詳しくないので自信ありませんが、儒教の影響といっても、日本と韓国ではその度合いがかなり違うのではないですか?日本で儒教の影響を受けたのは、江戸時代の武士階級だけではないかと思います。それは全人口の中では小さい部分でした。
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ついでに言うと、ネットのエロサイトは韓国が日本を凌駕しています。

人口は1/3なのにね。
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この回答へのお礼

韓国のTVや新聞は性慾をけしかける淫乱物が満たされているが性慾を解決した方法はないです。 韓国大人男の半分ほどがSEX初相対者が結婚した女です。 軍隊にある 2年の間は女性は見られない統制された住んでお休みを出ると性暴行が頻繁に発生します。韓国は男性の住むに値する国にならないと思います。
韓国は女性が住むのに楽な国で政府でも女性に有利な法律を制定するのに先に立っています。

お礼日時:2005/01/12 01:40

韓国の場合、性売買特別法が制定された途端、違憲であるとの訴訟が起こされてます。



性文化とは違いますが、韓国での強姦は日本の8.4倍以上です。
しかも表面に出てきた物だけの比較です。アメリカ大使館のサイトで
強姦に注意するように警告されているのは韓国だけです。

参考URL:http://japanese.joins.com/html/2004/1118/2004111 …
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この回答へのお礼

何回返事をしてありがとうございます。韓国に関してたくさん分かっている方ですね。

お礼日時:2005/01/12 01:05

 こんばんは。



○ まずは、平安時代の通い婚から始めましょうか。ご存知かもしれませんが、平安時代は、高貴な方は、男女が一緒に家庭を持つことはありませんでした。つまり、男性が、女性の家に通うわけですね、「光源氏」は、いろいろな女性に通っていましたね。文学は、往々にして、その時代の風俗を反映しますから、その頃の高貴な方の普通の行動だったのでしょうね。

○ 次に、日本の性の文化といえば、男色ですね。
 キリスト教圏における男色というのは、過去において、あきらかに悪であり罪であり、近代にいたっても、変態性欲、つまり病気だと評価されて来ましたが、ほんの百数十年前までの日本では、男色はけっして日陰の存在ではなく、きっちり、社会制度に組み込まれた行為だっそうです。

 過去の男色は、現代のホモやゲイとは、少々、ちがうもので、一番ちがうのは、大方、バイセクシャルだということです。女がだめで、あるいは女がいやで男相手、というわけではないのです。

 現に、武田信玄が男に書いたラブレターも発見されていますし、中世から戦国時代、江戸時代初期くらいまでの男色は、やたらに目立ちます。
 来日したイエズス会の宣教師が、それを嘆いたりしますが、もちろん、それ以前からも、日本列島では男色が盛んでして、一般にあまり知られていないのですが、院政期の男色は、唖然とさせられるほどのものです。

 日本で男色が華々しく流行りはじめたのは、72代白河帝のころからです。この時代の左大臣、藤原頼長というお公家さんが、「台記」という、今読んでみますと、すさまじいばかりの男色日記を残していますが、別に頼長は、男色日記のつもりではなかったわけでして、そもそも上流貴族の公卿日記といいますのは、子供や孫に、宮廷行事や人間関係、政界遊泳の参考資料となるよう、書き残すものなのです。
 つまり頼長は、乱脈な男色行為を、少しも恥とは思っていなかったわけでして、恥どころか、そこに政治的行為である側面を意識していればこそ、子孫のために書き残したのでしょう。
 
 なにしろ、帝をはじめとして、上皇、摂政関白、大臣、ほとんどすべての貴族がバイセクシャルでして、しかもたっぷりと私情をまじえて、えこひいきの人事を行いますから、当然といえば当然のことなのです。「夜の関白」とか「男のおぼえ」とか「君臣の交わり」とか、やっかみとともに、皮肉がとびかったりもします。
 
 ところで、一般に、貴族と武士は対立しているもの、というイメージがあると思うのですが、武士の中でも、源平の中心にいる武家の頭領は、いわゆる受領層、つまり中下級の貴族なのです。
 それで、つまるところは、上流貴族のお相手を務めておりまして、木曽義仲のお父さんが左大臣頼長と関係しましたことは、はっきり日記に出てきますし、源頼朝も少年のころ、後白河帝(崇徳帝の弟)の相手をした可能性が高いそうです。
 
 後白河帝が、またこれ、すさまじいお方で、平治の乱の原因には、このお方の度を超えた男色がからんでいるそうです。男色が原因で内乱が起こるなんて、今では信じられない話ですね(笑)
 
 武士といえば、源氏の頼朝だけではなく、平家の方も、平重盛とその子息の資盛、親子どんぶりで後白河院の愛人だったといわれています。
 そもそも平清盛のお父さんは、白河帝に体を差し出し、平家興隆のきっかけをつくったようですし、院政期における武家の台頭は、一面、男色にささえられています。
 
 男色の歴史を見ていきますと、武の時代といいますか、争乱が多くなると同時に、男色も華々しくなってくるような気がします。院政期もそうですし、中世から戦国にかけては、まさに男色の花盛り。江戸時代、元禄すぎて次第に下火になった男色が、幕末でまた盛り上がる、というのもありますが、これはまた、薩摩や土佐という、男色最盛地帯の下級武士が活躍したという、特殊事情もあるかもしれません。

 これだけ歴史家の研究で明らかになっているということは、男色は近世までの日本の文化の一部と言わざるを得ないですね。

○ 最後に、江戸時代ですと銭湯ですね。
 寛政の改革後は男女別湯になったにもかかわらず、浴槽だけが男女別で、脱衣所、洗い場は男女の境がなく、ほとんど混浴同然だったそうです。
 ちょっとタイムスリップして行って見たい気が……

 下記のサイト、なかなかマニアックです。

http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya1.html

参考URL:http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya1.html
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この回答へのお礼

詳しい返事をしてくださってありがとうございます。
日本は歴史的に男色の性文化だったですね。新しい事実が分かるようになりましたね。

お礼日時:2005/01/14 16:24

昔(江戸時代以前?)の民衆の絵にも大胆な性描写はありますよ。


性器がすごく大きくかかれていたり。
平安時代は身分の高い男性が女性の寝ているところに忍び込むという習慣もあったので、ある意味開放的といえるかもしれないです。
お金を払って女性を買うというお店(遊郭)も江戸時代あたりからありましたよ。

ただグラビアやビデオなどに見られるような、現在の日本における性文化は外国からの影響が強いのではないでしょうか。


遊郭に関するサイトを見つけたので貼っておきますね。
左下の「年表」でその歴史も見られます。

参考URL:http://www.din.or.jp/~sigma/yosiwara/yosiwara.html
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