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いつもお世話になっています。

1,http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1169970

の質問と回答を読んでいて、疑問に思ったのですが(む、難しい)、とりあえず現行の玄奘訳以外の般若心経(および類本)がいくつかありますので、ネットで調べてみました。

訳者のよった経本にバリエーションもあるのでしょう。クマラジュウのように、大まかには同じものもあれば、結構文言が違うものもあります。大本・小本とかいう分類もあったかもしれませんが、それは専門外の私には分かりませんので、とりあえず置いておいて、とにかく字句のかなり違うものと、少しだけ違うものとあると確認いたしました。ところが、「咒」の当該の部分は、どれも(例外を除いて、また付加されいるものも)ほとんど同じです。これはどういうことなのですか? いくら何でも、さきに咒が出来たわけではないですよね? 咒にも、バリエーションがあるかと思いきや、大方は聴衆の説明・空の説明の方にのみ、バリエーションがあります。訳者の訳の問題で説明のつく話ですか? 何か成立と関わりますか?

2,くまらじゅう訳は、題名を般若心経とは言わず、摩訶般若波羅蜜大明呪経と言います。心経と訳した訳者とは、何か意図の違いがあるのですか?  なぜ玄奘などは、心経と訳しているのでしょうか?意図はありますか?

A 回答 (2件)

1,般若波羅蜜多の咒(ギャテイ)に対する信仰がまず成立し、それが空観思想と結びつき、現在の心経へと発展してきました。

現存する最古の梵本はである法隆寺貝葉本には「般若波羅蜜多心」(原文は当然にサンスクリットです)で締めくくられていて、「経」とは書かれていません。これは心経が本来は「経」でなく「心(咒)」として信仰されていたからでしょう。
 また最古の経典目録である梁代(五〇二~五五七)の僧祐撰『出三蔵記集』巻第四に「摩訶般若波羅蜜神呪一卷」「般若波羅蜜神呪(異本)」とあり、当時も経でなく咒であったのでしょう。
 つまり「ギャテイ…」が「般若波羅蜜多」の「咒」として信仰されていたので、諸本の心経で咒が必ず説かれるのも、この咒がなければ心経たり得ないからです。
 ちなみに義浄訳『仏説般若波羅蜜多心経』には
「此ノ経ヲ誦セバ、十悪五逆九十五種ノ邪道ヲ破ス。若シ十方ノ諸仏ヲ供養シ、十方ノ諸仏ノ恩ヲ報ゼムト欲セバ、当ニ観世音ノ般若(注・「ギャテイの咒」のこと)ヲ誦スルコト百遍、千遍ニスベシ。無間ノ昼夜ニ、常ニ此ノ経誦セバ、願ヒトシテ果サ不トイフコト無シ」
と心経読誦の功徳が説かれています。ちなみに玄奘もインドに行く道中で「但觀音菩薩及ビ般若心經ヲ念ズルノミ」とあり、そして「心経」によって諸々の災いから逃れたと『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に記されています。(福井説ではこの心経は羅汁訳の「咒」の部分ではないかとしています)
 現代人は心経を哲学書のように理解することが“正しい読み方”であるように思いがちですが、本来は「咒を念誦する」という古代インドの信仰から理解すべきでしょう。

2.ちなみに私は現行の『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』は羅汁訳である(それも経題は漢文でなくサンスクリットであった)という村岡説にたっていますので、その前提で答えます。
 玄奘訳は「大唐三蔵聖教序」碑が底本となっています。しかしこれは経題が『般若波羅蜜多心経』で尾題は「般若多心経」と括られています。この「大唐三蔵聖教序」碑は玄奘訳そのままでなく、皇帝の命によりウシネイによって潤色(編集)されています。そして現行の心経と異なり「五蘊等皆空」となっています。
 「フリダヤ」を旧訳の心経では「明呪」・「神呪」と訳していたのを「心」と訳したのも、支那でも「心臓」という言葉があるように、臓器としての「心臓」に神聖を見ていたからでないでしょうか。道教の儀式でも呪文を「心」と表現していたそうです。また咒という言葉だと世間的な呪文と混同されることを嫌って、直訳に近い「心」と表記したかもしれません。(ちなみに玄奘は密教に関しては興味がなかったようです)
「多心経」としたのも密教的な「心(フリダヤ)」でなく、精神的なココロ(チッタ<質多>)を示唆しているようにも思えます。
 羅汁訳『ブッダ・ヴァーシャ・マハー・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム』(漢題『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』)を元にして、玄奘がし、さらにそれが潤色されて玄奘訳『摩訶般若波羅蜜多心経』が世に顕されたと考えます。(残念ながら羅汁訳が現存していないので、<焚書されたか?>推測の域ですが)

参考
福井文雅『般若心経の総合的研究』(春秋社)
村岡 空『般若心経秘鍵入門』(大覚寺出版部)

この回答への補足

2の方についですが・・。ごめんなさい、私は基本的なことを知らないかもしれません。

>残念ながら羅汁訳が現存していないので

http://w3.cbeta.org/result/normal/T08/0250_001.htm

ここにある羅什訳として伝わっているものは、誤って、そう伝えられているのでしょうか? 羅汁は、羅什のことですよね?

そこが分からない為に、いささか混乱しております。もしよろしければ補足を入れていただけないでしょうか・・。よろしくお願いいたします。

補足日時:2005/01/23 10:24
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。マニアックな質問のため、お呼び立てするようで申し訳ないです(あちらで続けるのはできないそうです)。
1については、よく理解できました。神呪に対する信仰ですね。中国人の呪術的な信仰としてもよく分かることです。「般若心」のことも一応知ってはおります。ただ、どうして「呪」として置いておかないのか等、まだ疑問がありましたので失礼しました。このあたりは、2に示唆されているように、道教信仰との区別を計ったとも考えられなくもないとは思います。推測になることなのですが・・。
現代人にとっては、般若心経を理解するときに、思想としての空と呪文に対する信仰とは、もう一緒に理解するのは難しいかなぁという気がしています。空や般若経の話になると様々解説が出ますが、仏教の呪力が期待された一方で、知識人たちは玄学を用いて般若思想を理解したのと似た状況に見えます。一般に入門に使われることも多い般若心経ですが、入門書に般若心経を推薦するのは、無理があると個人的には思いますし、いたずらに知的に疲労したり、無茶なことを言うだけのことになりかねませんので、仏伝と法句経くらいから入るのが順当ではないかなぁと私は見ています。2については、補足の欄で。

お礼日時:2005/01/23 10:09

 確かに混乱をきたす回答であったかもしれません。

羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明呪経』とは別に、『ブッダ・ヴァーシャ・マハー・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム(仏説摩訶般若波羅蜜多心経)』、つまり現在一般に読誦され、通称“玄奘訳”とされている「般若心経」です。
 ただし現行のものと多少異なり、経題は梵字で、本文は通行の心経と同様、そして梵字で咒を記した後に、「此ノ経ヲ誦セバ…願ヒトシテ果サ不トイフコト無シ」と功徳文が書かれていたと考えられます。理由として、玄奘訳は経題が『摩訶般若波羅蜜多心経』で、本文も「五蘊等皆空」です(この詳細については『般若心経秘鍵入門』<村岡 空・大覚寺出版部>に書かれています)。
 つまり羅什訳の心経はすでに流通していたなかで、新たに玄奘が新訳を著したが、皇帝に命によりウシネイが羅什訳の心経を元に潤色<編集>し(潤色されたことは、「聖教序」に書かれています)、中華思想のもとに玄奘の偉業を称えたのではないかと考えられます(羅什はインド人)。
 弘法大師が『般若心経秘鍵』を開題するに当たって、“羅什訳(つまり通称の“玄奘訳”)を底本とし、遍覚三蔵(玄奘の諡)訳ではない(その理由は経題、本文が異なる、功徳文がない)”と記すの意義深いことです。

参考URL:http://www.sagagoryu.gr.jp/jpn/shop/hiken01.html

この回答への補足

両方の回答にポイントをお入れしたいのですが、同じ人の回答に入れることは出来ないようです。片方だけのポイントで失礼します。

補足日時:2005/01/23 23:26
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この回答へのお礼

再回答をお願いしてしまいまして、申し訳ありませんでした。大変、入り組んで難しい(であろうと思われる)問題を簡単に説明させるようなことをしてしまったことだと思います。

最後に弘法大師の『秘鍵』のことが出て参ります。過去の回答履歴もいくつかは拝見させていただいておりますので、真言宗のご僧侶であることも存じております。おそらく『秘鍵』が羅什訳に依ると言いつつ、その経文についていろいろ検討すべき点があることを、踏まえてのご回答であろうということは、だいたいの見当はつけておりました。混乱もひとまず解け、まだ少し理解が及ばない点もありますが、お説の流れも、だいたいの把握はいたしました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/23 23:24

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