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戊辰戦争後、元会津藩士の生活は苦しくなったと聞きますが、会津藩士の中でも地位の高かった人たち(大身とか)の生活も、貧しかったのでしょうか。それとも、一般の平民と比べたらマシだったのでしょうか。

A 回答 (5件)

地域柄もあるでしょうが、東北地方の方は我慢強いし、他の地域の方々のように不満を口に出しませんよね。


今の世の中を見てくださいよ。声が大きい者が得をする世の中です。
日本人は東北の方々を少しは見習うべきです。
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藩主松平容保は、赦されたあと他の藩主と同じく華族に列せられた。


家老以下の平藩士は、青森下北半島に斗南藩の再興を許された。

しかし旧会津藩が28万石なのに対し斗南藩は3万石。
藩の稼ぎが一気に1割程度に減ってしまったということである。
しかも下北半島は物成りのよくない地域。
実質は1割以下だったろう。

この貧困は下は中間足軽から上は家老まで直撃した。
下に辛い思いをさせて自分はのうのうとでは、日本の指導者は務まらない。
生活は困窮を極め餓死者も続出した。

貧困から抜け出すために、いろいろな産業を試みることになる。
リンゴの栽培もその一つである。
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寒冷地の斗南に移住しての生活は”苦しかった”とは想像しますが”貧しかった”かと聞かれれば武士の貧しいのは元々で、江戸時代末期には上から下まで貧しく、家計が火の車の武士も多かったようです。

武士は面目を重んじましたので交際費の出費が大きく、物を換金しての生活はどこでも見られたそうです。地位が高ければ高いだけ交際費も高くつくのでそれほど余裕も無かったはずです。商人などは地位は低かったですが一番力がありました。金を持っていたからです。ということで地位が高くても一般の平民の内の商人などには及びませんでした。特に豪商と言われる商人には大名ですら頭が上がりませんでした。
なおどっちにしろ明治4年には廃藩置県で他の藩の武士も同じ道を辿るわけで、武士の困窮に拍車がかかるのは遅いか早いかの違いにすぎないのではないでしょうか?むしろ会津藩を含む全ての旧藩で明治新政府に任官した人間とそうでない人間の違いの方が大きいでしょうね。
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戊辰戦争で取りつぶされた会津藩は、今で言う青森県北部などに明治2年に「斗南藩」として再興を許されたのですが、分かりやすく言うと会津を「追放された」ということです。

もともと武士は「領地」は持っておらず、「藩」からの「扶持米」で暮らしていたのですから、藩主ともども「新しい土地」に移動させられ「藩の収入が激減」したので、生活は過酷であったようです。しかも、多くの藩士が藩主とともに移住したので、収入もなく開墾による生活を余儀なくされました。さらに会津は県庁所在地から外され「福島」という小さな町に地域の中心は移されました。その上会津に残った藩士に教育をつけさせたくない明治政府は、「公立大学」すら認めませんでした。やっと最近「会津大学」ができて、世界を見据えた大学となっています。
このように、会津藩は新政府から迫害を受けました。従って「山口や鹿児島嫌い」の会津人は今もいます。ところで一般平民はと言うと「新政府軍」に協力的だった人も多くいたと記録されており、会津の町全体が「反明治政府」ではなかったようです。ただし、それはどこの地域でも同じで「藩士」と「一般庶民」の意識の間に溝があったわけで、多くの一般平民は「年貢」をどこにどれだけ払うのかということだけを考えていたようです。
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新政府に対する旧勢力の反逆ですからね。

見せしめの意味で彼らへの処遇は苛烈を極めたことは容易に想像できます。
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