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下記の続きです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12636477.html

「前問」(と呼びます)では回答が見事なぐらいバラバラいなりました。
 質問者は「自然な日本語です」を支持したようです。
 そうなのでしょうか。
 辞書をひきます。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%8B%E3%8 …
===========引用開始
出典:デジタル大辞泉(小学館)

か‐の【▽彼の】 の解説
[連体]《の一語化》話し手と聞き手双方の既知の事物をさす。あの。例の。「―有名な物語」「―地」
[連語]《代名詞「か」+格助詞「の」》
1 前に述べた事物をさす。あの。その。
「めなもみといふ草あり。蝮 (くちばみ) に刺されたる人、―草を揉みて付けぬれば」〈徒然・九六〉
2 《近世語》人や事物を暗示的に示す。例の物・事・人。
「そりゃあさうと、―に極めたか」〈滑・浮世風呂・三〉 
===========引用終了

〈[連体]《の一語化》話し手と聞き手双方の既知の事物をさす。あの。例の。「―有名な物語」「―地」〉でしょう。
「かの『徒然草』には……」「かの聖徳太子は……」のように使う言葉だと思います。
 
「過ぎ去った日々」を「かの日々」というのでしょか。

A 回答 (6件)

「か」は指示語(「彼の」は指示連体詞で、「あの」に近い)本人にしかわからない内容です。

だから、『徒然草』や『聖徳太子』があって、他人にも分かると思います。文脈に説明がなければ、単なる一人言です。「過ぎ去りし彼の日々(よ)」と言ってみても、変わりはありません。しかし、誰にもある子供の時代を想像する事はできるかも知れません。文脈の中にもう少し具体的な説明が入らないと、「彼の日々」が、どんな日々なのか、具体的には、わからない。童謡の「故郷」にしても、「兎追いし彼の山」と具体的な内容に触れていて、「彼の山」が実体が見えてきます。ただ、この作詞者はほんとに山で兎を追いかけたのかという疑問は残ります。「家」で飼われる白ウサギは、山にいる「山兎」(野ウサギか)は動きが素早く、通る道は灌木の茂みにあり、子供が簡単に追いかけられるものではありません。殆ど絶滅状態にあるので殆ど見かけません。
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この回答へのお礼

〈「彼の日々」が、どんな日々なのか、具体的には、わからない。〉……そのとおりでしょう。

〈子供が簡単に追いかけられるものではありません〉……これもそのとおりでしょう(笑)。兎が大怪我をしていたのかも。
「兎美味し」と思っていた人もいるとか。古い唱歌の言葉遣いに対する現代人の意識はそんなものでしょう。

お礼日時:2021/11/08 18:14

まだ続いているようなので。



1.
「かの日々」は「あの日々」で、「話し手からも聞き手からも(空間的、時間的などに)離れた時点にある日々」という意味なのだから、それが「過ぎ去った日々」を表わすことができるのは当然のことではないかな。

2.
次にだが、むろん、この場合も「話し手と聞き手双方の既知の事物(日々)」が前提となるのは当然だ。

《「過ぎ去った日々」を「かの日々」にしては、「話し手と聞き手双方の既知の事物」ではなくなる》と言ってるようだが、何の脈絡もなく、いきなり「かの日々」という表現が表れる場合は稀だろう。
「話し手と聞き手双方の既知の事物(日々)」が示されている、あるいは暗示されているような文脈で「かの日々」という表現が使われるはずで、それについて特に問題があるとは思えんのだが、どうかね?
これを否定するなら、「過ぎ去った日々」を「あの日々」と呼ぶこともできないということになるが、そういうことなのかな?
この辺を整理して考えてみるとよいだろう。

因みに、たとえば「彼の日々を夢見る」といった小説のタイトルが何の脈絡もなく、いきなり示されるとしても、その作品の中で「彼の日々」の内容が読者と共有されることになるはずだ。(万が一、それが示されていなければ、それこそ誤用ということになる)
なので、短絡的に《「過ぎ去った日々」を「かの日々」にしては、「話し手と聞き手双方の既知の事物」ではなくなる》と決めつけてはいかん、ということ。

3.
さて、もう少し補足しておこう。
「過ぎ去った日々」を「かの日々」と言う場合、「話し手と聞き手双方の既知の事物」が前提となるのは当然のこと。
ただ、その前提がどのように示されるか、あるいは暗示されるのか、ということも考える必要がある。

「兎おいしかの山」がわかりやすいだろう。
気づいているかどうかわからんが、この歌は聞き手の故郷に山が無い場合だって多いのだから、すべての聞き手にとって山が既知の事実とは言えない。
たしかに「山のある聞き手」に対して語りかけている歌であることに違いはないが、この「山」は都会と田舎の対比の象徴として提示されている。
その意味で、山は「山の無い聞き手」にとっても「話し手と聞き手双方の既知の事物」になっているわけだ。(だから山が無かったり、兎がいなかったりする聞き手にとっても違和感は生じない、ということ)

4.
> でも、古い唱歌に出てくる「かの山」「かの川」が現代のフツーの表現とは思えません。
 辞書のなかには、「文語的」「雅語的」としているものもあるようです。

先述したように、
「かの山」=過ぎ去った日々の記憶に残るあの山
という意味で極めて「フツー」の表現だろう。
自分で認めているように、「文語的」「雅語的」な表現としてね。
つまり詠嘆表現なわけだ。
それとも、詠嘆表現を君は認めない、とでも言いたいのかな?

5.
> たとえば同窓会で昔話で盛り上がったとします。
「あの頃はさぁ」ならフツーでしょう。「話し手と聞き手双方の既知の事物」ですから。

ここにも君の短絡さが端的に現れているようだね。
つまり、同級生に対してでなくとも、たとえばブログなどで読者に向けて、「あの頃はさぁ」と記述したって別におかしくはないだろ?
同窓会が行われたという事実さえ示していればよいのだよ。
これで、「あの頃」は「話し手と聞き手双方の既知の事物(日々)」になるわけだから。
この辺の論理わかるかね?
ここを理解すれば、大分前進できるのじゃないか。
「あの頃はさぁ」同窓生の間でしか通用しない表現というのは、いかにも短絡の極みと言わざるを得ませんな。

アスナロ坊主が

〈話し手と聞き手双方の既知〉か否かは話者の判断で、それ自体が問題ではありません。

と言ってるのは、おそらくこういうことだろう。
ぶつ切りにした箇所では、このように、たまに正しいことも言うのだが、論理的脈絡というものを構築できないので全体的には、とんでも理論をわめきちらすだけになってしまうのが残念なところではある。

6.
>日常語で「かの日々」と使うのはどうかと思います。

前質問者は、日常語で使うことができるでしょうか?と尋ねていたのか?
なぜ、君にそういうことがわかるのかね?
そういう勝手な憶測で
《本題に関しては「間違いではないがかなり不自然」が回答になるのでは。》
と断定するのは、極めて無責任と言えるのではないかな?

まったく《かなりビミューな話で、こんなことを断言する勇気はありません。》などと、どの口が言っているのか。
いかにも玉無しの面目躍如といったところだな。(笑)

因みに「なるのでは」と疑問形にしているから断定ではない、などとボンクラ政治家のような言い訳だけは勘弁してくれよ?(笑)
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>>「かの昭和20年の敗戦で、日本人の価値観は大きく変わった」


 は「誤り」ですか。

「か」は「昭和20年の敗戦」という「物事」との関係の認識表現で正しい表現です。

>>問題は〈話し手と聞き手双方の既知〉か否かなのでは。

〈話し手と聞き手双方の既知〉か否かは話者の判断で、それ自体が問題ではありません。

「日々」は時点という抽象的な時間性のため不適切と感じることになります。

この句では、「過ぎ去った」と言っているので、「かの」は既知云々ではなく、「かつての」という過去の関係認識の意義になり、その対象が「日々」と具体性を持たないために不明瞭な意味となり不適切になります。

過ぎ去ったかの日々よ!

の場合は、「日々」そのものを実体的に捉え直し、回想、追憶しているので適切になります。

言語は話者の認識の表現であり、単なる結果の解釈ではなく、その表現の過程的構造を正しく捉えることが重要です。■
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この回答へのお礼

ああそうか。
 例文が不適切でしたね。
 下記ならどうでしょう。
「戦争に負けたかの昭和20年に、日本人の価値観は大きく変わった」

 これなら時点でしょう。
 別に時点でも構わないのでは。
 問題なのは〈話し手と聞き手双方の既知〉か否かでしょう。
 これは辞書の記述です。
「それ自体が問題ではありません」と主張するなら、それなりの根拠をお願いします。

 ちなみに前問では
===========引用開始
おかしいですね。

「かつての日々」です。
===========引用終了
 と書いてますよね。意味がわかりません。
〈「日々」は「事物」ではなく時点なので誤り〉なんですよね。

 今回は
===========引用開始
「日々」は時点という抽象的な時間性のため不適切と感じることになります。

この句では、「過ぎ去った」と言っているので、「かの」は既知云々ではなく、「かつての」という過去の関係認識の意義になり、その対象が「日々」と具体性を持たないために不明瞭な意味となり不適切になります。
===========引用終了

 整合性があるのかないのかさえ不明です。
 意味のわかる回答をお願いします。


>言語は話者の認識の表現であり、単なる結果の解釈ではなく、その表現の過程的構造を正しく捉えることが重要です。
 こういう不要の「お念仏」を書くならご退場いただきます。ご了承ください。

お礼日時:2021/11/09 21:30

[連体]《の一語化》話し手と聞き手双方の既知の事物をさす。



とある通りで、「日々」は「事物」ではなく時点なので誤りで、当然ながら不自然になります。■
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

 珍しく意味がわかるコメントで驚いています。
 ただ、〈日々」は「事物」ではなく時点なので誤り〉なのでしょうか。

「かの昭和20年の敗戦で、日本人の価値観は大きく変わった」
 は「誤り」ですか。
 もちろん、〈「かの」は「あの」でもいい〉〈「かの」はなくてもいい〉という考え方もあるでしょう。
 問題は〈話し手と聞き手双方の既知〉か否かなのでは。

お礼日時:2021/11/08 18:09

一度、答えましたが「過ぎ去った、彼の日々(よ)」と云えば素直な表現。

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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
 かなりビミューな話で、こんなことを断言する勇気はありません。おそらく、考えなければならにことが2点あって……。

1)「かの」は「話し手と聞き手双方の既知の事物をさす」こと
 たしかに、「過ぎ去った、彼の日々(よ)」ならアリの気もします。かなり古い感じで「過ぎ去りし、彼の日々(よ)」にしたくなります。書き言葉限定では。本題に戻って、「過ぎ去った日々」を「かの日々」にしては、「話し手と聞き手双方の既知の事物」ではなくなると思います。

2)「かの」の印象
「かの『徒然草』には……」「かの聖徳太子は……」あたりは現在でも使う気がします。
 でも、古い唱歌に出てくる「かの山」「かの川」が現代のフツーの表現とは思えません。
 辞書のなかには、「文語的」「雅語的」としているものもあるようです。

 たとえば同窓会で昔話で盛り上がったとします。
「あの頃はさぁ」ならフツーでしょう。「話し手と聞き手双方の既知の事物」ですから。
「あの日々は……」でも通じるかもしれません。少しヘンな気がしますが。
「かの日々は……」だと……まぁ年寄りばかりなら通じるかもしれません。
  
 日常語で「かの日々」と使うのはどうかと思います。
 本題に関しては「間違いではないがかなり不自然」が回答になるのでは。
 前問で「自然」としたのが一人しかいなかったのは、そういう理由でしょう。

お礼日時:2021/11/07 21:48

「あの日々」という意味で言うと思いますが。



うさぎ追いしかの山
小鮒釣りしかの川

と唄にもあるとおりかと。
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