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古代社会において、食べたものや木簡などのゴミは貝塚に捨てることは義務付けられていましたか?
ポイ捨てはダメという決まりはあったのでしょうか?

A 回答 (5件)

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/kno …

縄文時代や弥生時代の竪穴住居跡からはトイレと考えられる施設はまだ見つかっていません。じゃあ、どこでしていたの? さらに質問は続きます。
今では多くの人が「トイレ」という外来語(がいらいご)を用いて呼んでいるこの施設は、昭和の中頃までは便所という呼び方の方が一般的でした(もちろん今でも言いますが)。それよりもっと昔の人たちは雪隠(せっちん)だとか厠(かわや)などという呼び方をしていました。
この厠というものは、川のような流れの上に簡単な橋のようなものをかけて用便を流していたため、「河[川]屋(かわや)」と呼ばれていたことが語源になっているようです。この厠については「古事記(こじき:712年編纂)」にも記載されていることから、少なくともこの時代にはあったものと考えられます。ただし、すべての家にあった訳ではなく、一定以上の高貴な人たちの暮らしに使われていたものと考えられます。同じ時代に生活していた一般的な人たちは、やはり道端(みちばた)などで用をたしていたようです。この様子は、平安時代の絵巻物などに描かれています。また、奈良時代でも九州の太宰府の遺跡などでは、一種の水洗便所とでもいえるこのタイプの便所とは異なった形状のものも確認されています。なお、当時の人たちは、用便を済ました際には紙を使わず、ちゅう木と呼ばれるヘラ状のもので拭っていたことが分かっています。なぜ紙を使っていなかって?当時は紙は非常に貴重なものだったからなんです。
いわゆる汲み取り式の便所というものは、鎌倉時代以降になってから急速に広がったものと考えられています。このタイプの便所が用いられるようになった理由は、溜められた糞尿を畑の肥料として用いるためでした。この考え方は、江戸時代に入るとさらに発展し、江戸周辺の農家と長屋(ながや)を管理する大家(おおや=管理人)と店子(たなこ=長屋に住む人)との間でうまく需要と供給のサイクルが回っていたようです。
話しが大きくそれてしまいましたが、このように奈良時代以前では、私たちが考えている羞恥心(しゅうちしん=恥ずかしく思うこと)や衛生観念(きれいか汚いかの考え方)などは全くなく、そのため便所という考え方はなかったものと思われます。ですから、遺跡を調査しても便所が見つからなくても当然です。
ただし、便所は見つからなくても、便が見つかることはまれにあります。写真は中区の元町貝塚(もとまちかいづか)から見つかった糞石(ふんせき=化石状態になったうんち)です。きちんと検査して調べてはいませんが、どうやらこれは人のものではないようです。糞のなかに魚の小骨が入っていることから、肉食あるいは雑食性の犬などの哺乳類(ほにゅうるい)のものだと思われます。


現代日本の話しではなく、モンゴル高原の遊牧民の話ですが、
 ~~~ 2時間でわかる旅のモンゴル学  佐々木節 ~~~
ゲルにはトイレがない。だから、用を足すのは周囲の草原でということになる。
日本人のなかには「野グソなんて」と思う人もいるだろうが、モンゴルを旅していると、これが次第に病みつきになってくるから不思議だ。なにしろ、地平線まで続く大草原を眺めながら排泄するというのは、最初の戸惑いを通過すると次からは爽快な感動を覚えるようになる。そして、これに慣れてしまうと草原からウランバートルに戻ってきて、安ホテルの汚れた便器を目の前にすると、たちまち便秘になってしまう。
牧民たちの様子を密かに観察してみると、彼らが用を足す場所はゲルの南側、それも戸口から出て真っ直ぐ南に向かうのではなく、西か東にちょっとずれた場所がベストポジションのようだ。距離的にはゲルから100メートルも離れれば十分。遮へい物がないので、ゲルからは丸見えになってしまうが、これも慣れてしまえばまったく気にならない。
そもそもモンゴル人は視力が抜群にいいので100メートル離れようが、1キロ離れようが、丸見えには変わりないのである。
ところで、野グソをするとき、ちょっと気になるのがゲルの番犬の存在だ。朝、用を足しに草原へ歩き始めると、大きな番犬がノソノソついてくる。そして、ズボンを下ろしてしゃがみこむと、2、3メートル離れたところにちょこんとお座りをして、こちらをじっと見つめる。彼が待っているのは、なんとぼくの排泄物。用が済んで立ち上がると、すぐに駆け寄ってきて、出来
たてをぱくりと食べてしまう。
草原の遊牧民は余計なものは持たず、何もかも徹底利用する。近ごろ流行りのエコライフの究極形のようなものだが、その精神は彼らの番犬にもしっかり叩き込まれているようだ。

赤ん坊でも、子供でも、古代で用を足すときに、便所や貝塚、竪穴にいくわけがないです。 200年前なら、日本の農家でも、木こり、猟師、漁民でも、適当にやるっきゃないし、旅行者でもそうだったでしょう。 「不要物・廃棄物・汚物」捨て場など、利用すると想像することは出来ないでしょう。
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古代中国では、道に灰を捨てると両手を切り落とされたとか。

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古代社会とは、いつの、どこのことでしょう。

 世界4大文明も古代社会でしょうが、貝塚があるとは限らない。 
日本でも同じでしょう。 義務づけしようにも、出来ない社会も多いでしょう。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/072200 …
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1420348.html
http://web.joumon.jp.net/blog/2006/11/33.html

国立歴史民俗博物館研究報告  第172 集 2012 年3 月
   縄文時代中期の集落と廃棄について       中山真治
  《南関東の中期前半~後半を中心に》
南関東地方の縄文中期初頭(五領ヶ台期)の集落遺跡ではそこに残された竪穴住居址は少なく,しかも深さも総じて浅い。
そのためか廃絶した竪穴より集落地外縁の斜面などに廃棄場所を形成している事例が多い。
台地や斜面にかかるような丘陵尾根の端部に住居を構築し,いわゆる集落中央の空閑地「広場」を挟んで反対側斜面に廃棄場所を確保していた。
しかも時間の経過で竪穴が反対側の端部に構築されると「広場」を挟んで180 度反対方向に廃棄場所が設けられる。
このため結果的には台地の東西方向など対向する2 箇所に廃棄場所が残された。
多摩丘陵や武蔵野台地の中期初頭五領ヶ台期(4 期)から中期前半勝坂1 式期(狢沢期= 5 期)にかけての集落遺跡ではこのような事例が普遍的にみられる。具体的には多摩丘陵の稲城市多摩ニュータウン№ 471 遺跡[小薬他
1993],川崎市黒川遺跡群[小薬他1994]や武蔵野台地の三鷹市島屋敷遺跡[下原他1997]はまさにこのような行為の結果をよく現わしている。著名な神奈川県五領ヶ台貝塚の東貝塚と西貝塚もこのような行為の累積的な痕跡であるとみられる(第1 図1 ~ 4)。
中期初頭から中期前半初頭では住居址の絶対数が少ないこともあるが,廃絶住居址という廃棄に適した深い凹地が多数確保できないためにこのような「土器捨て場」[中野1984 など]と称されてきたような斜面廃棄が行われたのだろう。
とくに南関東の五領ヶ台期に限ってみれば,中期前半以降とは異なり,「広場」空間の清掃(片付け)があまく,竪穴への廃棄が徹底していないという特徴がみられる。
要はこういう集落では片付けを行わずに他に移動してしまっているのである。
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廃棄物の処理及び清掃に関する法律で罰せられるのでちゃんと貝塚に処分していたと


ウチの死んだ爺さんが話してました
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自然界にはゴミになる様なものはありません



ゴミという意識の無い古代人が 分けてたとは 考えられない
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