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ある記事で、「田舎の旧制中学出身者の理系科目の得意な成績上位者はほとんど陸士か海兵へ進学し、数学や物理が苦手な者、あるいは近視や色盲、体力の弱い者が一高や三高などに進むことが多かった」と書いてあるのですが、これらの事は本当ですか?
昔の陸軍や海軍の士官学校というのは体力のみならず理系の英才が集まるところだったのでしょうか?
今で言う医学科の様な理系トップの存在だったのでしょうか?
試験科目に物理や化学が必須というのも意外です…

A 回答 (7件)

> これらの事は本当ですか?



〔回答〕

それは、かなりウソでしょう。

〔解説〕

今とは時代が違う戦前の世の中でも、人の親の気持ちとして、子を若死にさせたくないのが本音だった。わが子の葬式を出す親ほど、悲しく空しいものはない。それなのに、旧日本軍は自分から戦争を吹っかけたりする始末だった。
せっかく頭のいい子を陸士や海兵に行かせたら、いくさで命を取られるかも知れない。もっと安全に、旧制高校(または大学予科)・大学と進んで役所や会社で出世してくれたほうが……。そう思う親もいたようだ。「人の嫌がる軍隊に志願で出てくる馬鹿もいる」という戯(ざ)れ歌も、昔からあった。
一方、「お国のために身命を賭して……」と勇ましいことをいう親もいた。

というわけで成績優秀な生徒は、一高などのナンバースクールと、陸士・海兵などの軍学校とに進路が分かれた。「理系科目の得意な成績上位者は『ほとんど』陸士か海兵へ進学」とおっしゃるのは、ウソ記事だと思う。
ここでナンバースクールとは、一高から八高までの数字が冠された旧制高校である。たとえば湯川秀樹や朝永振一郎は三高から京大へ進学し、のちに二人ともノーベル物理学賞をもらった。江崎玲於奈は三高から東大(ただし戦時中だったので軍需工場で勤労奉仕)、ノーベル物理学賞。南部陽一郎は一高から東大へ、ノーベル物理学賞。小平邦彦も一高から東大へ、フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われる)。
また、福井謙一は大阪高校から京大へ、ノーベル化学賞。この大阪高校、そして東京高校はナンバーが付いてないが、ナンバースクールと同レベルと見なされていた。

以上、ノーベル賞やフィールズ賞の例を挙げたが、とにかく「理系科目の得意な成績上位者はほとんど陸士か海兵へ進学」なんて話はありえないのであって、仮に日本の理数系の頭脳がそんなに軍隊に集中したならば、一高や三高はスカスカになっていたはずだ。ノーベル賞級の人材など、育たなかっただろう。
さきほどからナンバースクール、ナンバースクールと申したが、旧制高校はナンバーの付いてない高校も各地にあって、たとえば高知高校は旧制高校の中でも最下位くらいだったという。その高知高校などにやっと入れる程度の成績なら、陸士や海兵に入るのは困難だったそうだ。
旧制高校はかなりのエリートなのだが(なぜなら旧制高校の定員合計と旧制大学の定員合計は同じくらいで、旧制高校を出れば旧制大学のどこかには入れた)、旧制高校下位入学の頭脳では陸士や海兵に入れなかった、旧制高校中位以上の頭は必要だった、ということである。

すでに長文になってしまったが、もう一点付け加えたい。
昭和初期にいわゆる十五年戦争(満州事変からポツダム宣言受諾まで)に突入して、若い男が軒並み戦争に取られるようになると、親心としては「むしろ早くから軍に入れて将校になっといたほうが、下っ端の兵隊の苦労をせずに済む」と考えて、陸軍幼年学校の人気が高まった。
ただし、陸士や海兵は学費がかからないが、幼年学校は学費がかかる。それを「全国の貧しい秀才がこぞって目指した」などとおっしゃるのは誤りだろう。
幼年学校卒業生で、陸士の定員の一部が埋まってしまうため、中学を出て陸士へ進学する道は、細くなりそうだったが、戦争の激化で軍が増設されたため、定員が増えた。
また、陸軍の高級軍人になるには陸軍大学校を修了する必要があった(いわゆる天保銭組)。これは陸士出身者が軍で経験を積んだあと入るのだが、陸士出身者の一部しか進めない。つまり、陸士出身者の多くは、高級将校になれないまま中級将校(定年がやや早い)で軍を退役し、再就職しなければならなかった。大してエリートでもないのである。
海軍にも海軍大学校があった(ただし海軍は大学校を出なくても高級軍人になるケースがあったが、だいたいは陸軍と似ていた)。
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補足。



全国模試の偏差値で輪切りにできる時代ではないので定量的なデータがありませんが、少なくとも陸士海兵とも日中戦争後大幅に入学定員が拡大されるまでは、旧制高校のナンバースクールと同等に見做されていたことは史実ですし、受験倍率はナンバースクール以上でした。大将たちの伝記を読むと**中学校トップなどの例も珍しくありません。ちなみに、昭和初期の入試倍率は海軍20倍でした。
とは言え、一高三高よりは学力的に楽だったようです(むしろ身体検査が厳しかった。視力で落ちる受験者も多かったという)。
流石に、陸士海兵を今の防大並みと言わんばかりなのはかなりのディスりでしょう(敢えて言えば入学定員の少ない頃なら一橋・東工か、時期により旧帝・神戸・横国・筑波くらいな感じかと)。

なお、例えば『嗚呼玉杯に花受けて』をお読みいただけると当時の旧制中学校をめぐる事情がある程度わかりますが、どれほど小学校の成績が良かろうと、本気で貧しい家庭の子供はそもそも旧制中学校に入れませんでした(地主様や地元の名士の援助を受けたりしない限り)。陸軍幼年学校は高等小学校卒業あるいは中学校2年修了程度で入れたので、全国の貧しい秀才がこぞって目指したことで有名です。海軍には幼年学校がありませんでしたが、全国に数校、海軍予備校あるいは海兵受験対策をうたう中学校がありました。
そもそも、旧制中学に入学できる時点で、少なくとも小作人や日雇い労働者といった当時経済的に最底辺の家庭ではないことが多かったようです。

なお、学費無料ルートとしては教職に就く前提で
各道府県の師範学校→高等師範学校(東京・広島)→東京文理大ないし広島文理大
がありました。貧家の秀才はこちらを選ぶことも多かったようです(大抵は師範学校卒で小学校訓導となりました)。
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その話が本当かどうかは分かりませんが、士官学校はザックリ言えばエリート養成機関ですから秀才が集まって来るのは当然でしょう。

また防衛大学校にも理系専攻があるわけですから、試験科目に物理や化学があったとしても何の不思議もないと思います。
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こうした統計的な裏付けのない話を全面的に信じるのは危険です。

たんなる「思い出」話程度に読んでおく方が良いと思います。その記事で言いたかったことは何かと考えれば、陸士や海兵が優秀だったと言うことだと思いますが、賛美しすぎだと思います。
陸士や海兵は学費もなく軍隊でも出世が約束されていたため、徴兵で二等兵として下働きさせられるよりましだという風潮があり、貧しい家の賢い子供たちが予科練や士官学校を目指したと言うことです。そうすれば、当時の軍隊の無駄ないじめにあわずに済んだのですから。賢ければ出身に関係なく入学できたので、目指したと言うことです。今の防衛大学校をその例として挙げる人もいますが、今の防大の学力は「地方国立」程度です。そうしたデータを知らない人がいろいろ書きますが、「昔はよかった」と言う年寄りの思い出話程度に考えておいた方が良いと思います。
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軍系の学校だと授業料どころか生活全般を軍が面倒見てくれますので


理系云々よりも
田舎で実家に資力が無い場合には有力な進学先でした

一高も二高など旧制高校ともなると、学費も必要でしたし生活費負担も少なくありません
親戚や地元の資産家の援助を受けるとかが無ければ貧農の子供が高等学校には進めません
しかし軍関係であれば、優秀な学力で高いレベルの教育を受け
高級将校として相応の収入を得る事も可能でした

理系文系とは限らない
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必ずその通り、では、ないにしろ陸士や海兵はいろいろ優秀でないと入れませんからエリートですね。



50年近く前、中学生の時の担任が海兵出身で、父兄の間では「あの人は優秀だから」「でも戦争終わってしまって挫折感あったらしい」なような会話がありました。

私の叔父も陸士だか海兵だか目指していたんですが肋膜炎患って一高行ったそうです。
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理系の得意な成績上位者が陸士海兵を目指し、数学・物理が苦手だったり近視だったり体力に難がある生徒が旧制高校を目指す、という記述は間違いではありません。



現代でも、防衛大学校は理工学専攻の方が人文科学専攻より募集が約4倍多いです。

兵器の構造や運用にまつわる事項のほとんどは理系科目に分類されますから、理系科目重視になるのは必然です(第二次世界大戦当時で考えても、弾道学は物理学と数学、火薬学は化学、軍事地理は地学・系統地理学、通信は電子工学、陸軍の陣地構築は土木工学、海軍の航海学は数学・・・・・・純然たる文系科目は語学と戦史と軍法くらい)
当然、物理(弾道、電気・電波など)と化学(火薬、燃料など)の素養は必須です。

この辺りは他国でもさほど大きな違いはなく、士官学校は理工系大学と同等と見做される国が大半です。
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