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共産主義では、家族の形には女性の共有が含まれているとされていて、今日まで家を否定する女性解放運動が行われてきましたが、なぜ日本のフェミニスト活動家は左派が多く、資本論有りきで考えるのでしょうか?
マルクスが求めていたのは、婦人の性の解放(→社会で共有)だったのではないでしょうか?
左派リベラルは、女の性従事や女買いの自由を侵すな、社会的に認めるべきだと、道徳観や性規範に対して抵抗し唱えています。
性解放、放縦、快楽を主張してきた左翼カルチャーをよく表しているとおもう。共産主義の本質が反権力、共同所有だから性欲、快楽、不倫に賛成、父親の権威の失墜、夫婦同性など結婚制度に否定的。

A 回答 (1件)

一言で言っちゃうと「日本のフェミニズムはデタラメだから何でもあり」なのです。



そしてなにがデタラメなのか、フェミニスト自身が理解できていないぐらいデタラメなのです。

以下一つ一つ説明するので長くなります

まず、フェミニズム運動は西洋で始まったもので、日本の実情や日本女性の地位や権利などと違うところから出発しています。なので日本人は「フェミニズムの本質」を知らない人が多いし「女性の地位」についても誤解が多くあります。

なので、まず西洋の話をします。

女性解放がなぜ行われたかというと、啓蒙主義ができたからです。
啓蒙主義は
①民革命による階級差の廃止(市民平等)
②奴隷制の廃止(奴隷解放)
③女性への権利付与(女性解放)
という順番で動きます。これらはどれも啓蒙主義的な「人は全部平等であり、個人主権がある」と考えられているからで、共産主義も同じ流れの中にあります。

で「女性解放」は奴隷解放と同じ「解放」という名称になっていることに注意が必要で、奴隷とは「一般人と違って、自らの権利を持たない者=誰かに所属する者」という意味でしたが、西洋女性はローマ時代から財産権・契約権・相続権などがほとんどなく、立場的に男性に隷属しないと生きていけない=夫に所属する者、だったので奴隷も女性も「一般男性と同じ権利を持てるようになったこと」を《解放》と呼んでいるわけです。

日本のフェミニストは「女性は虐げられてきた」とよく説明しますが、実際には「権利が認められなかった」ことが重要であって、権利が認められていないからこそ、女性も奴隷も虐げられた境遇にあった、ということなのです。

そして「共産主義」もまた啓蒙思想的に「虐げられていることが問題」と考えます。誰が虐げられているかというと「労働者たち」です。

つまり資本家:ブルジョワジーは生活するためのお金が潤沢にあり、社会的な地位もあり豊かな生活があるのに対して、労働者:プロレタリアートは日々の食事にありつくのもやっとで、病気などで仕事を失えばすぐに生活に困る、というような格差があったことを問題したわけです。

なので共産主義は「ブルジョワジーとプロレタリアートという現実的な階級差=権利の差を無くそう」と考えたもので「じゃあ、資本という概念を無くしてみんな労働者になれば平等になる」と考えて実行されたものを言います。

このように女性解放も奴隷解放も共産主義もすべて「啓蒙主義的に個人の平等を目指す」ものだったので、フェミニズムは左翼的な思想と親和性があるのです。

>共産主義では、家族の形には女性の共有が含まれている
含まれていません。というより質問者様の理解に誤解があるのでしょう。

まずフェミニズムが求めた「男性と同等の権利」は主に財産権・契約権・相続権でした。

これが無いとどうなるか?わかりやすく言えば「子供と同じ被保護者」になってしまいます。財産権が無ければ自分のお金が持てないし、契約権が無ければ自分で部屋を借りることもできません。つまり今の未成年と同じで「保護者がいなければなにもできない」ということで、女性解放以前の女性たちは「主人=夫に保護されているだけの存在」だったのです。

で、なんで女性たちに権利が与えられなかったかというと「社会を維持する義務を果たせないから」でした。これはローマ時代にできた法理で、異民族と戦って自分たちの国を守り、社会を維持することで「家族を守る義務」を果せるのは男だけ、とされてきたからです。

だから「女」は子供と同様「男が守る者」であって、守られる者=義務を果たさない者には権利が必要ない、という論理だったのです。

だから西洋での女性解放には「男性と同等の義務の負担」が求められ、それを果す以上は「性を含めて自分で管理すればOK」という認識になっています。

なので共産主義を含めて西洋人の認識は「女性も男性も自分で責任を持てば、性をどのようにしても自由(ただし、大人は未成年の性を保護する義務がある)」ということになったのです。

だから、欧米では「女性もトップレスになる権利」が主張されたりします。男性が公園などで上半身裸になって日光浴できるのに「なぜ女性はダメなのか?」という問題提起で、男からすると「女性が乳房を出していると犯罪に巻き込まれたりするからダメ」なのですが、男女平等の個人主権なら「それは自分が選択することで有って、自分で自分を守れるからOK」になるわけです。これが女性解放後の「女性自身による自己性の決定権」と呼ばれるものです。

なので「家族の形には女性の共有」が含まれる、なんてことは全くの間違いで、現実は「女性も男性と同様に、自分の性を好きなようにしていい」になったわけです。ただその場合「性犯罪に遭っても自分を守るのは自分」という認識もセットになっています。

>左派リベラルは、女の性従事や女買いの自由を侵すな、社会的に認めるべきだと、道徳観や性規範に対して抵抗し唱えています。

日本の場合は、ですよね。
上記に説明した来たものは、すべて「西洋での認識」であって日本の認識や歴史的な女性の立ち位置とは異なります。これが日本のフェミニズムをややこしくしている原因なのです。

まず日本では律令制の時代から男女とも権利も義務も平等でした。だから日本女性が財産権・契約権・相続権を失ったこととはありません。
なのでこの時点でフェミニズムがずれてしまうわけです。

また日本の場合男女の権利も義務も同じだったのですが、武士の時代になると膂力に優れた男性と力が弱い女性ではどうしても差がついてしまうようになります。

そこで日本では男は外・女は内という分業体制を取るようになりました。
なのでフェミニストがいうように確かに日本は「男性優位社会」なのですが、しかし夫をATMにできるぐらい妻の家庭内の権力は強く、実は日本の家庭は「女性優位家庭」ばかりなのです。

この「女性優位家庭」は男性に対して「社会にでて家族を守れ」という義務を強要します。その結果の男性優位社会なのですが、西洋のフェミニズムの「権利」の部分だけを輸入した日本では「男性優位社会はけしからん。女性も活躍できる男女平等社会にしろ」という認識がフェミニズムだと考えられるようになっていきます。

しかし、これは同時に義務の側である「女も社会を維持する側に回ること」を全く忘れてしまっていることになっていき、結果日本女性は「権利は主張するが、社会的な負担は男性に押し付けたまま」となってしまったのです。

>左派リベラルは、女の性従事や女買いの自由を侵すな、社会的に認めるべきだと、道徳観や性規範に対して抵抗し唱えています。

この要求を上記の説明に照らし合わせてみると、二つのことが見えてくると思います。
 
「女の性従事や女買いの自由を侵すな、社会的に認める」
これ誰が認めるのでしょうか?社会的に認めるとはどういうことでしょうか?

これは誰も指摘しませんが、実は
・男たちが認めて、女買いや女の性従事を辞めさせること
・男性優位社会が女性たちの性被害を認めて、女性が住みやすい社会を作ること
を主張しているわけです。

上記に書いたように、本来のフェミニズムは「女性も男性と同等に社会を維持する義務を負う」のですが、この主張には「自分たち女性がすべきこと。負うべき負担」が一切含まれていません。

このことになんとなく気が付くと、左派リベラルでフェミニストな人たちの言っていることを「なんかおかしい?」と思うようになるのですが、ほとんどの日本人が、西洋の本質的なフェミニズムを知らず、日本のデタラメなフェミニズムを批判できないので、フェミニストの主張がどんどんエスカレートするのです。
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