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大東亜戦争で日本がフィリピンに攻め入り、アメリカ軍を追いやったのは、フィリピンの油田など、地下資源が目的だった、言われているが本当か?
フィリピンはマレーシアから石油ガスを輸入している。
フィリピンに石油ガスの埋蔵があるとしても、取り出す技術が無い。
米軍を追いやってまで攻め入るにはリスクが大きい。
日本軍のフィリピン侵攻の目的は何だったのか?

質問者からの補足コメント

  • みなさんからの回答、ありがとうございます。

    質問は、フィリピンの人と話していた中で、フィリピンの人から言われたことです。

    フィリピンでは多くの人が、日本がフィリピンを植民地にした、と認識しているようです。

    質問は、私から、そんな事はない、フィリピンを植民地にする理由も無い、と反論したら言われた事です。

    もしかしたら、日本がフィリピンを植民地にしたことにする理由としてフィリピン国内で言われていることかも知れません。

      補足日時:2022/07/26 09:50

A 回答 (14件中1~10件)

東南アジアへの航路(進軍、補給)を、維持するには、フィリピンの米軍基地を占領する事が、重要だったからでは。

(制海、制空権確保)

東南アジアで、ある程度、石油、ボーキサイト(アルミ合金製造に必要)などの資源供給が望めそうだし。(マレーシア、ボルネイなど)

インド方面のイギリス軍と対峙する、日本陸軍の進軍を、海上から空母艦隊で援護攻撃する為。

ですが、実際は、オーストラリア経由で、米軍潜水艦に輸送船団を撃沈され、石油資源輸送、補給が上手く出来ませんでした。
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フィリピンに天然資源があるわけではありません。



オランダ領東インド(現在のインドネシア)にある石油資源を確保し日本本土に輸送するためには、アメリカと関係の深いフィリピンを占領する必要があるからです。

だっていくらインドシナ半島やインドネシアで物資を確保しても、アメリカと関係の深いフィリピンがあれば、そこで物資の輸送がとめられてしまうからですよ。

「アメリカの占領からフィリピンを独立させた」と主張する人もいますが、1944年に独立するための準備が進められていました。

日本軍が占領したため、アメリカへの経済依存度が高かったフィリピンは困窮し、また日本軍の軍政府は旧政権が発行した紙幣の無効化、軍票を乱発して経済も大混乱したのです。捕虜虐待(バターン死の行進)もあり。対日感情は最悪となってしまったのですよ。

そのため占領した日本軍はゲリラ活動に苦しめられることになります。
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フィリピンに資源はない。


しかし放っておくと大害がある。

当時フィリピンはアメリカの植民地。
当然相当数の兵力が置かれている。
放っておけば、アメリカ本土やオーストラリア方面そしてフィリピンから包囲される危険がある。

兵力に勝るアメリカに包囲されては勝ち目はない。
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NO.1です。



フィリピンでは、鉄鉱石が採掘はされていましたけど。
(鉄を生成する時に、必要な原料です)

鉄鉱石は、中国大陸からでも沢山、確保していましたし、
別にって感じですね。(フィリピンじゃなくても、困らない資源ですね)

やっぱ、東南アジアへの、航路を安全にする為ですよ。
進軍、資源補給の航路確保ですね。
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日本の目的は、インドネシアの油田。

だから油田を破壊される前にインドネシアのパレンバンに空挺部隊で急襲をかけて奪取に成功した。

フィリピンには開戦初日に台湾南部に集結させた陸海軍合同の500機で、フィリピンのB17重爆撃機部隊を含む米空軍殲滅を目的に、大空襲をかけ、この一撃で在フィリピン米空軍の殲滅・無力化に成功した。

これは、在フィリピン米空軍の、日本のマレー上陸部隊とその輸送・補給船団攻撃を防止するためにどうしても必要な作戦であり、前述の南方作戦の本命だったインドネシア作戦を成功に導くためにもどうしても必要な作戦だった。

また、フィリピンは、マレー半島・シンガポールとともに、インドネシアの石油を日本に運ぶルートを塞ぐ形で存在しているので、そのルートを安全にするためには、絶対に占領しておく必要があった。だから、シンガポールとインドネシア占領を優先させつつも、フィリピンも占領しておく必要があった。
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フィリピンの石油資源が目的なんて言われていたことはないと思うけど。

見たこともないし聞いたこともない。
 侵攻の目的はフィリピンが当時のアメリカ軍の極東における最大の根拠地だったから。それだけ。
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他人様に好意による回答を求める質問にしては、態度が傲慢だと思う私は心が狭いのだろうか。




他の方の回答でも合っていると思いますが。

回答
1:開戦時の日本の対米戦略は「漸減邀撃戦」でした。(知らないならググって下さい)
その為に、あそこは基地化しておく必要がありました。

2:日本にとって「絶対国防権」でもありました。
そこに飛行場を作られると、日本本土が連合国の爆撃機の航続距離内に入ります。



このようなテーマでは、よく聞かれてもいない事を騙る方が湧きますね。「バターン死の行軍」は戦後に日本を悪者にする為に作られたデマです。

捕虜の移動は、元の場所に留めた方が被害が大きくなるからです。
移動も、日本兵はフル装備でしたが、捕虜の荷物は水筒程度でした。
殺すなら水など持たせないと思います。
更に行軍速度もゆっくりでした。


(倍速でも聴き取れます)
「大東亜戦争で日本がフィリピンに攻め入り、」の回答画像7
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①日本にとって必要だったのは、マレー半島やインドネシアなどのゴムやボーキサイト(アルミニウム)、石油ですね。


②フィリピンはアメリカの重要な植民地で、その防御のために陸軍部隊を駐留されているほかアジア最大のアメリカ軍の海軍基地があり、巡洋艦や潜水艦が配備されていた。

③ほらっ、①の場所を攻略しても、②のフィリピンにアメリカ軍の軍艦や飛行機があると日本に持って来れないでしょ。だから、日本にとっては目障りな地域、アメリカにとってはアジアの利権を守るために必要な地域だったんですね。
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多数の回答者さんが書かれている通り、インドネシアの油田が主目的で、それを補助するのがフィリピン攻略でした。


司馬遼太郎も、大東亜戦争はインドネシアの石油を盗りに行った戦争だ(日本軍がいくらきれい事を言っても)と書いていました。1941年12月からの戦争です。司馬は学徒出陣して戦わされて、戦争の意味をとことん考えたのです。

このようなテーマでは、よく聞かれてもいない事を騙る方が湧きますね。「バターン死の行軍」は戦後に日本を悪者にする為に作られたデマだという、デマを語る人です。
しかし、日本政府はバターン死の行進について正式に謝罪しています。2009年5月(自民党麻生内閣の時)、駐米日本大使を通じて、バターン死の行進の被害者の元米軍人捕虜に謝罪しました。
2010年9月(民主党菅内閣の時)にも、岡田克也外相が元米軍人捕虜6人に謝罪しました。日本政府が招待した人たちで、バターン死の行進の被害者を含んでいました。

List of war apology statements issued by Japan - 英語版ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_war_apolog …
(日本語版にも同様の項目があるが、なぜか載っていないので英語版を挙げた)

つまり、ネトウヨさんがいくらデマを捏造しても、すでに日本政府が過去の加害を認めて謝罪しているのです。
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日本は開戦時に南方のジャワの確保と米英の重要軍事拠点の壊滅を


目標に南方作戦を策定していました。
このうちフィリピンはM作戦と呼称しました。
ジャワに至る経路とその脅威の排除を目的にして、
海軍は右回りのフィリピン、陸軍は左回りのマレー後略(E作戦)
を重視していましたが、最終的には同時残なう二本立てで
実施する事のなりました。
ということなので、フィリピンの資源はほとんど関係りません。



さて、後世の政治家が謝罪したから歴史的事実とか、
とんでもないことを述べる方がおられます。
(せめて辻正信の偽命令とか挙げればいいのに)
アメリカはウンデッド・ニーの虐殺やサンドクリークの虐殺などを
これまで一切謝罪するどころか叙勲するなど誇っているので、
こんな思考の方は無かったと思うんでしょうね。
後世の政治家が勝手に歴史を決めるとは恐れ入ります。
この様な、偉い人が決めたことで真実が決まるという考えなら、
足利事件のような冤罪は永遠に理解できないでしょうね。


パターン半島では、南方作戦でほぼ唯一日本が苦戦しました。
当初のフィリピンはマッカーサーが指揮していましたが、
日本の進行が危惧される中、ろくに補給物資を備蓄しておらず、
食料と弾薬が少ない中でマニラを放棄してゲリラ戦を命令しました。
マッカーサーは命令を理由に事後をウェンライト中将に丸投げして
「I shall return.」とカッコつけて自分だけさっさと逃げ出しました。
パターンでの組織的抵抗に限界がきて集団投降した時には
大量の投降者を保護するのに収容所を離れた場所にしか準備できず、
作戦が完遂していなかったのでトラックなどの準備も十分ではなく
仕方なく徒歩での移動となりました。
この時には、捕虜は水筒くらいのほぼ手ぶらなのに
監視兵は正式装備なので何キロも荷物を持っていました。
しかも監視兵一人で何百人も監視しながらの行軍です。
(このため、フィリピン兵の多くが逃走したとみられます)
これは(ちょっと誇張はあるけど)捏造でも何でもありません。
ただし、捕虜を虐める行為自体はそれなりにありましたが、
陸戦規約での捕虜の扱いはあくまでも自軍と同程度であり、
交戦中に自軍以上の人数が投降したのに自軍より優遇しろとか、
当時の事情を知らない脳天気な意見にすぎません。
しかし、戦時中からこの事件はプロパガンダに利用されました。

戦後、マッカーサーは自分の経歴に傷をつけた日本軍が許せず、
ミズーリの降伏文書調印にウェンライト中将を列席させました。
その上でフィリピン攻略の指揮官だった本間雅晴を処刑するために
本間が捕虜への人道的扱いを指示していた記録もあるうえ、
偽命令の辻政信が見つからないから虐殺に反対した人たちを
パターンを死の行進とするなどで戦犯として処刑しました。

捕虜の扱いについて、
「一億人の昭和史 日本の戦史 7 太平洋戦争1」(毎日新聞社)
「特別手記 ビリビット俘虜記」カレイ・M・スミス(P68)
  最初の一年間は全ての捕虜が食べたいだけ食べることができた
この中で、日本軍が食糧にするため家畜を飼う試みがなされるなど
捕虜への配慮が書かれています。実際に戦況が不利になり移送される時
移送されるまでは70㌔あった体重が40キロ台になったようです。
本間中将が捕虜に配慮した影響は各所で確認できます。
イギリスがアローン捕虜収容所などで戦時下でもないのに
投降した日本兵を捕虜扱いしないで過酷な労役をさせて給料も払わず
あまりの食糧事情への抗議に「家畜用飼料を食べさせてやっている」
とまじめに回答したり、赤痢を患者をまともに診療しないで放置など、
パターンでの行進よりよほどえぐいことをしても謝らずに平気ですが、
どちらが虐待か、反日を拗らせた人以外なら容易に判るはずです。

「虐殺」は、殺す意志を持ってむごたらしく殺害する事。
パターン半島死の行進を虐殺というかは非常に疑問ですが、
捕虜に犠牲者が出たのは事実であり、、戦後陸軍軍務局長が提出した
「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例」では
30件虫20件がフィリピンと群を抜いて多かったのは事実です。。
しかしその過程を無視して、なんでも日本が悪い、反論は捏造と、
ろくに考証しないで語るのは歴史の改ざん以外の何物でもありません。
違うというなら、虐殺の命令などの根拠を挙げてみては?
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