プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 神社やお寺で参拝することに 特に違和感はなく抵抗感もない。か?

2. ただし 事立てて生活に影響することがないとしても むしろ ほとけさんや大黒さまなりお稲荷さんなりの神々は 生活に溶け込んでいる側面がある。か? (その意味で影響がおよんでいる。か?)

3. 神父が結婚式で語る神のことを聞いて新郎新婦は どんな思いをめぐらせるだろう? 教会というのは着せ替え人形みたいなものだから ふだんの生活とは 別であるか?

4. 最近ではこなれた日本語に翻訳されたお経が詠まれる場合もあるようだが お葬式で聞く仏さんなる神は どんな具合いに受け留められているだろうか?

5. 地鎮祭で神主がとなえる土地の神々のことは よく分からないとしても 工事の安全祈願としては気になるか? (生活そのものであるかも知れない)。

6. これらの神々をこばみ ナラハシとなった地鎮祭をも拒絶する徹底した《〈無い神〉派》も あるかも知れない。――これも 《無い神》という神を立てているように見える。

7. その他その他。

8. これらの神々はみな ずばり 普遍神の持ついろいろな貌である。のではないか? どの宗教・どんな宗旨かには関係なく ひとり普遍神の問題ではないか?

9. 日本人のあいだに見られるこのような神神の並存・混在は 世界の人びとにとって未来社会なのではないか?

10. これが じんるいにとっての形而上学ではないだろうか。

A 回答 (13件中1~10件)

No.14から


>☆ 観念の神あるいは道徳の神がただの思い込みのための
>思想にしか過ぎないと言ったまでです。
>ほんとう。の神を待ち望み問い求めていたとも 言い得ます。
鋭い指摘と思います。よって、ニーテェは晩年日本訪問を希った

>可知:経験合理性で知り得ると見なされる
>既知:知り得たと見なされたものごと
>未知:いづれ既知となると推察されている
>不可知:知り得ないと証明された未知
>非知:知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ
唯物論が正しいと言う前提に立った、都合の良い後付けの論理的説明です。
本来、不可知/非知の区分は必要ない。不可知と証明される事例はなく、有っても単なる強弁に過ぎず証明とは言い難い、それは悪魔の証明と同じ屁理屈です。
よって、
可知:経験合理性で知り得ると見なされる
既知:知り得たと見なされたものごと
未知:いづれ既知となると推察されている神の領域
不可知/非知:神の領域
と分類するのが誠実な態度です。
しかしながら、どうしても神と言う言葉を西欧では使えなかった。
十字軍遠征を行い、植民地略奪を行い、西欧の神はその姿を残虐で結実させた。その為に、その責任を全て神に押し付け、唯物論で神を殺し、その中に人間を閉じ込めたのであった。しかしながら、神は死なない。神は死ぬはずもない。その現実の中で、西洋思想は塗炭の苦しみの中に現在いる。西欧思想かぶれの日本人の如何に愚かな事か、今神を正面に見据える事ができる思想とは、日本思想のみであるのに・・・
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この回答へのお礼

>☆ 観念の神あるいは道徳の神がただの思い込みのための
>思想にしか過ぎないと言ったまでです。
>ほんとう。の神を待ち望み問い求めていたとも 言い得ます。
★ 鋭い指摘と思います。
☆ ありがとうございます。

★ よって、ニーテェは晩年日本訪問を希った
☆ ザラスシュトラを超えてブッダ関係とか。あるいは Youtubeで 歎異抄に感嘆したとかいう記事がありましたが。

>可知:経験合理性で知り得ると見なされる
>既知:知り得たと見なされたものごと
>未知:いづれ既知となると推察されている
>不可知:知り得ないと証明された未知
>非知:知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ

★ 唯物論が正しいと言う前提に立った、都合の良い後付けの論理的説明です。
☆ 唯物論は 唯心論とひとしい《第一原因》論です。形而上学なんです。

《唯だ物論――つまりは 世の中はモノとカネのみ論――》は 大きな誤解です。

《物質 :ヒュレー(=木材から)》という実は神の自己運動が 世界だと言う。

《唯心論》は 世界精神(こころ)なる神が 世界を造り差配すると言う。

したがって 真正なる唯物論は 神の――人間世界への――介入をみとめない立ち場なだけです。

しかも 人知のおよぶところはすべてその知性で考えるというのは 有神論の唯心論とて 同じなんです。神に祈るか祈らないかの違いだけでしょう。



★ 本来、不可知/非知の区分は必要ない。不可知と証明される事例はなく、有っても単なる強弁に過ぎず証明とは言い難い
☆ 数学の問題で不可知があるかに聞いていますが ないとしても問題は 不可知は経験事象をあつかうのに対して 非知は 非経験の場(要するに絶対性)のことだというところにあります。



★ 不可知/非知:神の領域
と分類するのが誠実な態度です。
☆ 不可知は 《知り得ない》と――証明し得ずとも――決めつけています。われらが神は 人をして神みづからについて知らしめることがあるかも知れない。神を人は 知り得るかも知れない。世の中の出来事のすべては 神からのメールであるかも知れない。解読がむつかしいかもですが。


★ しかしながら、・・・今神を正面に見据える事ができる思想とは、日本思想のみであるのに・・・
☆ ただし メールは 全世界にひとしく送られて来ているでしょう。

お礼日時:2023/02/11 05:07

No.6から


>★ 逆説的に、神の世界は未知の世界であり
>☆ いいえ。未知は やがて既知になりうる認識対象です。
>不可知は 知り得ないと証明された未知を言います。
未知は既知への対象ではあるが、既知となる確証はなく、明日の運命も含めて未知なるもの全ての物が既知と成らない現実を、人間は認めて諦めざる得ない。これは真理であって、唯物論者は傲慢にもこの事実を歪曲し、全知全能の如く振舞う。ニーチェは「神は死んだ」と叫んだが、人間は単に破滅の列車に乗ったに過ぎない。水爆や遺伝子組換えで、至高の力を掴んだと狂喜したが、掴んだのは破滅への切符。現実は、神は死なない事であって、未知なる神の世界は無くならない事実でしかない。

>★ 神を信じない
>☆ という自由な選択も 人間の自由に属します。そうではないでしょうか?
西欧啓蒙主義者は、神の束縛から逃れる為に自由を叫び、唯物論的世界を自由と誤認し、それに飛び込んだ。しかし、その世界とは不自由の世界であり不自由の極致。それを自由と呼ぶならば、共産主義国家は完全に自由なる世界です。共産主義者の理解し難い狂気の行動は、この誤認し続ける者の哲学的必然的な帰結。神を信ずる信じないとは、自由を選択するか不自由を選択するかの問題。不自由を選択する自由がある、よって不自由を選択した私は自由であると言う命題は成り立つのか?
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この回答へのお礼

★ 未知は既知への対象ではあるが、既知となる確証はなく
☆ ふつうは 既知へと変わります。

経験事象:相対的なものごと

 可知:経験合理性で知り得ると見なされる
  既知:知り得たと見なされたものごと
  未知:いづれ既知となると推察されている

 不可知:知り得ないと証明された未知

非経験なる場ないしチカラ:絶対性

 非知:知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ
    incomprehensible incomprehensiblity


★ 明日の運命も含めて未知なるもの全ての物が既知と成らない現実
☆ 未知が既知とならないのは 不可知だとみとめられた場合です。(または 解がなかなか見つからない場合)



★ 唯物論者は・・・全知全能の如く振舞う。
☆ 唯物史観が 歴史と世界の真理だとたしかに思い込んでいるようです。


★ ニーチェは「神は死んだ」と叫んだが、人間は単に破滅の列車に乗ったに過ぎない。
☆ 観念の神あるいは道徳の神が――それは 思考の産物ゆえ 絶対性なる神ではあり得ないからには―― ただの思い込みのための思想(あるいは たしかに信念にはなりうる)にしか過ぎないと言ったまでです。

ほんとうの神を待ち望み問い求めていたとも 言い得ます。


★ 水爆や遺伝子組換えで、至高の力を掴んだと狂喜したが、掴んだのは破滅への切符。現実は、神は死なない事であって、未知なる神の世界は無くならない事実でしかない。
☆ 非知なるナゾが 神です。

>★ 神を信じない
>☆ という自由な選択も 人間の自由に属します。そうではないでしょうか?
★ 西欧啓蒙主義者は、〔☆ 思考の産物としての観念の〕神の束縛から逃れる為に自由を叫び、唯物論的世界を自由と誤認し、それに飛び込んだ。

★ しかし、その世界とは不自由の世界であり不自由の極致。
☆ あるいはむしろ 無産労働者のためなら 資本家やインテリを殺戮しても構わないといったわがまま自由へ飛び込んだ。

★ それを自由と呼ぶならば、共産主義国家は完全に自由なる世界です。共産主義者の理解し難い狂気の行動は、この誤認し続ける者の哲学的必然的な帰結。
☆ 《無い神》を立てているので 何でも人知で切り抜けようとはします。

★ 神を信ずる信じないとは・・・
☆ 絶対性は 絶対有=絶対無なんです。

お礼日時:2023/02/10 16:04

質問者君にとって不可知な存在であるこの私には普遍神やある神や無い神を含む如何なる神も不要である


以上から 
この私は普遍神や有る神や無い神を含む如何なる神も一切存在していない世界でかつそれらの神の影響をうけない世界を選択した 
よってこの私は普遍神を含む如何なる神が一切存在せずかつそれらの神の影響を一切受けない世界に生存している
この私がいる世界は質問者君には不可知故に私がいる世界を君が論じることすら出来ない上にこの私がいる世界を君は一切否定することは出来ない。何故ならばそれは悪魔の証明だから
以上から君とこの私とでは生きている世界が完全に異なっていることからそれについて互いに論じあうのは無意味
以上
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質問者君の頭の中のクオリアである私の事を確定差せてもそれは当然君の頭のなかのこと


君の頭の中のクオリアではないすなわち君に不可知な存在であるこの私とこの私が選択した世界には全く無関係
この話は既にしているし君が何といようがそれはこの私としては事実でありそれを君が否定するのは不可能
以上
これが君のクオリアでは無いこの私の事
以上
これをこの私では無い君がどうのこうの言えることではない
この話はこれで以上
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その点に付いては


ただの一度も神を意識したことない事から私には普遍神や有る神や無い神を含む如何なる神も不要である判断したので私は普遍神や有る神や無い神を含む如何なる髪神も存在せずかつそれらの神の影響を一切うけない世界を選択した
以上
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この回答へのお礼

★★ (№3) 神を意識するような場面でただの一度も意識したことはありません
☆☆ という自己申告において ご自身の考えがあらわされました。これが あなたの世界であると確定した事実です。


☆ それとも この№3の発言を撤回するということでしょうか?

お礼日時:2023/02/09 14:26

言葉を通してのは意思疎通でそれなりの認識及び意思表示が出来るでしょうね。

質問者君と君の見ている世界選択している世界に存在している君のクオリアである者たちの間ででね
ですがそれは君の見ている世界での話。君のクオリアではないもの達には関係がないこと
故に君のクオリアである私について考察しようともそれは君が見ている世界・君が選択している世界での事
君のクオリアであって君に不可知な存在であるこの私とこの私が見ている世界・選択している世界には全く関係ありません
君のクオリアである人物と君が君の頭の中で会話が出来るのは確か
ですが君のクオリアではないつまり君の頭のにいない存在=君にとっては不可知な存在と君は決して会話する事は出来ません。
という事です
そのうえで
私は普遍神やある神や無い神を含め如何なる神も私に取っ手は不要な存在なので渡しは普遍神やある神や無い神を含め如何なる神も存在していないかつそれらの神が影響を与える事が出来ない世界を選択している
と既に述べている
その世界を選択した私にとってその世界が存在することは事実である
質問者君にとっては不可知な世界故に質問者君が私が選択したその世界が存在するその事実を否定する事は決して不可能
何故ならばそれは悪魔の証明だから
以上です
これでお終い
君がまともに反論できていないからね
これ以上繰り返してもお互いに無駄で無意味だからね
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この回答へのお礼

地鎮祭を例にして あなたの見ている世界・そのクオリアそして考えが:
★★ (№3) 神を意識するような場面でただの一度も意識したことはありません
☆ という自己申告において あらわされました。あなたの世界であると確定した事実です。

この事態をわたしは扱っています。


どうしても嫌なら 投稿なさらないほうがよろしいかと。

お礼日時:2023/02/09 14:00

質問者君の脳と私の脳とが繋がっていない以上絶対に出来ません


それが不可知であるその理由
質問者君の不可知の定義に従った迄
他人の意思表示や自己表現ですら厳密に言えばクオリア。何故ならばそう捉えているのは質問者君自身の脳だからです
君が述べている事は君の脳作用によって君の脳が作り出したもの。故に全てがクオリアだと言うことです 
普遍神それは君のクオリア。君が普遍神をどう定義しようがそれは変わらない。よって普遍神は君が選択している世界で存在しえる
だが私が選択している普遍神や無い神やある神等如何なる神も一切存在していないかつ如何なる神から最も一切影響を受けない世界にとっては絶対に存在しない。何故ならばそれは私のクオリアだから
君のクオリアが私にとって不可知であるように私のクオリアは君にとっては不可知
君のクオリアである私を君がいくら理解したつもりでいてもその理解ですら君のクオリアなのだから君のクオリアではないこの私の事をどう推測しようが君にとっては不可知である事に変わりがない
質問者君が述べている「この神は、万人に共通であり例外がない」との主張はあくまで質問者君が選択している世界で言える事であって私が選択している普遍神やある神や無い神を含め如何なる神も世界には当てはまりませんしそれを質問者君が否定するのは不可能です
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この回答へのお礼

★ 質問者君の脳と私の脳とが繋がっていない以上絶対に出来ません
それが不可知であるその理由
質問者君の不可知の定義に従った迄
☆ 《知り得ないと証明された》か? 理解できません。

脳どうしがつながっていなくとも 言葉をとおしての意志疎通で それなりの認識および意思表示ができるものです。

それを――地鎮祭の神を題材として問うた時の答えであるその――ご自身の表現にしたがって 考察しています。

まったくふつうの対話です。


★ 他人の意思表示や自己表現ですら厳密に言えばクオリア。何故ならばそう捉えているのは質問者君自身の脳だからです
☆ そのクオリアであっても 《表現されたもの(おもに言葉)》をとおして互いに人間としての話し合いは出来るのです。




★ 君が述べている事は君の脳作用によって君の脳が作り出したもの。故に全てがクオリアだと言うことです 
☆ その言語表現をとおして あなたがご自身の考えを述べればいいだけの話です。

分からないところは 尋ね返します。それでも分からなければ 時間を置きます。そこで対話はストップするかも知れないし やがてよい考えが思い浮かぶかも分かりません。


★ 普遍神それは君のクオリア。君が普遍神をどう定義しようがそれは変わらない。よって普遍神は君が選択している世界で存在しえる
☆ 経験科学としての手続きを踏んで定義し またそれにもとづいて推論をすすめています。科学ないし哲学の素養があれば 学問としての議論を互いに自由におこなえるのです。

ご自身の考えを明らかにすること。それで済むことです。


★ だが私が選択している普遍神や無い神やある神等如何なる神も一切存在していないかつ如何なる神から最も一切影響を受けない世界にとっては絶対に存在しない。何故ならばそれは私のクオリアだから
☆ 普遍神がそれらを覆い包むというのが 経験合理性にもとづく結論です。



★ 質問者君が述べている「この神は、万人に共通であり例外がない」との主張はあくまで質問者君が選択している世界で言える事であって
☆ それほど対話がお嫌なら 投稿をおやめになればいいだけです。

お礼日時:2023/02/09 09:24

私の見ている世界を質問者君は絶対に見ることはできない


質問者くん見ている世界を私は絶対見る事は絶対に見ることは出来ない
故に
私の見ている世界は質問者君にとっては不可知な世界
君の診ている世界は私にとって不可知な世界
至極当然の事
故に
私が選択している世界は質問者君には不可知な世界
質問者君が選択している世界は私にとっては不可知な世界
至極当然の事
これは全ての人達に当てはまる事実
。故に全ての人達にとって不可知な世界なのです
これは哲学をしている質問者君も知っているクオリアの事
つまり他人のクオリアは他人にとっては不可知。これは既に哲学でも示唆され脳科学においても認められていることなのです
更に言えば
量子論によってあらゆる状態が取りうる事が証明された
それはつまり量子論によって
普遍神を含めて如何なる神も存在しない世界
何らかの神が存在する世界
どちらの世界も存在しうる事が証明されたと言う事
私が選択している普遍神や有る神や無い神を含め如何なる神最も存在していない世界は質問者君には不可知な世界。故に私が選択している質問者君に取っ手は不可知な世界を質問者君が否定する事は不可能。何故ならそれは悪魔の証明だから
付け加えるならば
質問者君が選択している世界の私はこの私ではない。
何故なら質問者君が選択している世界それが質問者君のクオリア。よって質問者君が選択している世界の私は君のクオリア。
質問者君君には君のクオリアである私とこの私を比較することすら不可能。何故ならばこの私は君にとっては不可知な存在だから
よって質問者君が選択している世界の私が君にとって無い神派であってもそれは君が選択している世界の事であって君にとって不可知な存在である私や私が選択している世界には全く関係ないこと
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この回答へのお礼

★ 私の見ている世界を質問者君は絶対に見ることはできない
質問者くん見ている世界を私は絶対見る事は絶対に見ることは出来ない
☆ 推理することがあり得るし ひょっとしたらその内容が当たっていたということもあり得ます。

《絶対に》は 言い過ぎでしょう。


★ 故に
私の見ている世界は質問者君にとっては不可知な世界
君の診ている世界は私にとって不可知な世界
至極当然の事
☆ いいえ。《知り得ないと証明された未知としての不可知》ではないでしょう。

あなたの《不可知》を定義すべしでしょう。


★ 故に
私が選択している世界は質問者君には不可知な世界
質問者君が選択している世界は私にとっては不可知な世界
至極当然の事
☆ これは おおきく間違いでしょう。なぜなら 意思表示や自己表現は すでに他者一般の目にふれることになるからです。

地鎮祭に対する振る舞いとして 外化しているということです。№3。



★ クオリア
☆ 他人に知られ得ない(自分にも分からない)場合もあり得るでしょうし 一般には表現が成されたなら ほかの人に知られるというのが ふつうです。



★ 普遍神
☆ というのは・つまりそもそも《神》ならば――絶対性であるからには―― すべてを覆い包み その部分的なものの何にでも成り得ます。

★ 私が選択している・・・如何なる神も存在していない世界
☆ という表現は 自己矛盾です。神は いかなるかたちにも存在し得るし 存在しないこともできるのです。

これは 量子論をわづらわさずとも 論理的必然としてみちびかれます。

この神は 万人に共通であり 例外がないことが 人間の知性にあって分かっているのです。


★ 質問者君が選択している世界の私はこの私ではない。
☆ いいえ。
★★ (№3) 神を意識するような場面でただの一度も意識したことはありません
☆ という自己申告にもとづいて あなたの世界であると確定した事態をわたしは扱っています。


★ よって質問者君が選択している世界の私が君にとって無い神派であってもそれは君が選択している世界の事であって君にとって不可知な存在である私や私が選択している世界には全く関係ないこと
☆ と言うには いまの№3の自己申告を取り下げなければいけません。言い間違いをたださなければいけません。

お礼日時:2023/02/09 04:47

唯物論的共産主義が出てきたお陰で、神の存在は逆説的に明確となった。


人間が知り得たもの意外は、全て神の世界であり神が居る世界。
唯物的に人が理解した物とは極々少ない。且つ、その世界は狭く不自由な世界。そして、狭く不自由な世界である唯物論と、共産主義は親和性を持つ。
逆説的に、神の世界は未知の世界であり、完全に自由な世界であって、同時に未来もこの自由なる世界であって、未来には完全なる自由がある。
人は目の前の物質を真に理解しているのか、人は巨大は宇宙と空間を理解し得ているのか、人はその中にある極々小なるものを理解しているのか、答えは全て否である。私たちの周りとは、神の世界であり神に埋め尽くされており、神を信じない理由は何処にもない。神を信じないとは自由を放棄した姿である。
西欧の偏狭な啓蒙思想は限界点に達し、破壊へと希望を託すのみ。万物に神の姿を認める日本的神思想にしか、今は人類を救う道はない。何故ならば、自由を手放した時に、人は人で無くなるから。神の影響は限りなく深い。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 唯物論的共産主義が出てきたお陰で、神の存在は逆説的に明確となった。
☆ ほおう。

★ 人間が知り得たもの意外は、全て神の世界であり神が居る世界。
☆ ふむ。絶対性なる神は 相対世界に対してすでにそのすべてを覆い包みふくみ持つでしょうね。


★ 唯物的に人が理解した物とは極々少ない。且つ、その世界は狭く不自由な世界。そして、狭く不自由な世界である唯物論と、共産主義は親和性を持つ。
☆ 唯物論は けっきょく《第一原因などと呼ばれるところの・けっきょく神》を 物質という絶対性としてかかげるに過ぎないものです。質料・モノが 神なのではないです。

共産主義は 社会形態ないしその仕組みなどの中身にかんして史観として理論立てたものです。神とは 別の領域で 議論され実践(?)されるものです。


★ 逆説的に、神の世界は未知の世界であり
☆ いいえ。未知は やがて既知になりうる認識対象です。

不可知は 知り得ないと証明された未知を言います。

神は それらの認識しうると見なされた経験世界を超えているので 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ:非知》を言います。


★ 完全に自由な世界であって、同時に未来もこの自由なる世界であって、未来には完全なる自由がある。
☆ 神のもとなる人間とその世界は たしかに自由なる世界と言えるかと思います。

神は 真理であり道でありいのちである。
真理は きみたちを自由にする。
――と言われます。


★ 人は目の前の物質を真に理解しているのか、人は巨大は宇宙と空間を理解し得ているのか、人はその中にある極々小なるものを理解しているのか、答えは全て否である。
☆ 神のような全知ではないでしょうね。


★ 私たちの周りとは、神の世界であり神に埋め尽くされており、神を信じない理由は何処にもない。
☆ そう言えると同時に じつは 絶対性と言えば 絶対有=絶対無であるからには: 
★ 神を信じない
☆ という自由な選択も 人間の自由に属します。そうではないでしょうか?


★ 西欧の偏狭な啓蒙思想は限界点に達し、破壊へと希望を託すのみ。万物に神の姿を認める日本的神思想にしか、今は人類を救う道はない。
☆ おそらく普遍神の普遍神性を 西欧は知っているようで知らないのかも。キリスト教がなおタコツボ化している。

お礼日時:2023/02/08 17:17

私が見ている世界私が存在している世界と質問者君が見てる世界質問者君が存在している世界は違う


更に言えば私の見ている世界を質問君は決して見ることができず、私が存在している世界を質問者君は決して存在する事が出来ない
質問者君の言葉を借りれば私が見ている世界・私が存在している世界は質問者君にとっては不可知な世界だと言うことですよ 
故に質問君が私が見ている世界・存在している世界を推測することすら無意味で無駄だと言うことですよ
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この回答へのお礼

★ 私が見ている世界私が存在している世界と質問者君が見てる世界質問者君が存在している世界は違う
☆ 同じかどうか すべては 神についての理論の内容が成立するかどうかにかかっています。


★ 更に言えば私の見ている世界を質問君は決して見ることができず、私が存在している世界を質問者君は決して存在する事が出来ない
☆ いづれにしても 普遍神論は 人間の世界を科学的に分析した仮説です。


自分の世界がどうのこうのと言っていても 科学は始まりません。主観どうしの水掛け論に過ぎないから。

共通項を取り出し 理論立てた命題をともに前提として互いに自由な批判をつうじて 共通の主観つまり定説にたどり着きたいというところです。


★ 質問者君の言葉を借りれば私が見ている世界・私が存在している世界は質問者君にとっては不可知な世界だと言うことですよ
☆ 不可知は 《知り得ないと証明した未知》です。当てはまらないでしょう。


★ 故に質問君が私が見ている世界・存在している世界を推測することすら無意味で無駄だと言うことですよ
☆ 地鎮祭の話で 神の話題が 共通だと分かり しかもそのときの態度表明によれば すでに《無い神》派であるとまで判明しました。


これが 人間の理論です。

お礼日時:2023/02/08 17:02

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