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 こんにちは。
GWに初めて沖縄旅行し、ひめゆり記念館へ行きました。当時、激しい地上戦の中で逃げ惑った女学生達や、手榴弾自決した人たちの記録が生々しく残されていました。
 ところで、一つ疑問なのですが、米軍に捕まった人たちは、どうなったのでしょうか?捕虜になったのでしょうか?
 以前、「さとうきび畑の唄」というドラマをやってましたが、あの中ではラストシーンで米兵に助けてもらって親切にされているシーンがありましたが、現実は本当にそうだったのでしょうか?
 沖縄は昭和47年まで占領下にあったと聞いていますが、それまで人々は、戦前のような暮らしは出来たのでしょうか?
 戦争中のことは資料館でよくわかりましたが、それ以降のことが知りたいです。どなたかぜひ、ご教示願います。

A 回答 (7件)

沖縄に4年間住んでたので、現地のお年寄りにいろいろ


聞きました。
当時怖かったのは米軍よりも、日本軍だったそうです。
日本軍は、隠れ家を求め沖縄の人が非難してる洞穴などをあけるように指示し、自分たちの休憩所として使っていたそうです。
戦争中は、火炎放射器などで、家とかを焼かれたそうですが、終わりに近づくにつれて、米軍は保護してくれたといいます。
決して捕虜などにはなったと聞いていません。
今でも沖縄では年に一度は島の年寄りを呼んで総合の時間として戦争の体験談などを聞いています。
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この回答へのお礼

 ご回答有難う御座います。実はこれまで私は、ベトナム戦争の映画を沢山見ていて、女性たちは次々と米兵の慰安婦にされていたので、もしかしたら沖縄もそうなのかと心配だったのですが・・・そうでもなかったのでしょうか?理解があったのですね。米兵は。確かに日本兵のほうが横暴だったそうですね。

お礼日時:2005/05/07 20:02

うちのじいちゃんの話です。

(じいちゃんは陸士(いわば陸軍のエリート)を出て沖縄戦の隊長をやってました。)

まずは6月に米軍から召集命令が出されました(それでも1ヶ月は潜伏していたらしいですが)そこで出頭すると普通の施設(ホテル的なもの?)に入れられてそうです。
じいちゃんは結構いい職(中尉)ということと戦中に市民や敵軍に捕虜行為などを強いてなかったため普通の、というより一般市民よりはかなり満足の行く、生活をしたそうです。米軍との会話は通訳を通したそうですがやはり敵国ということで嫌っていたそうです。
一般市民はもちろん戦後の復興等聞く限りのことです。そして捕まった人(=捕虜行為を強いた人)は軍事裁判にかけられて死刑~禁固があったそうです。ちょっと官位の低い人は雑用をされたというのも聞いたことがありますが・・・それについては言及していませんでした(メインを聞いてなくてすいません)

米軍が捕まえるのはとりあえず軍部の責任者で、(変な話ですが)真っ当に戦争をした人は手続きなどを含めて何日か拘束された後に解放だったそうです。ソ連軍が満州の人を捕虜に使ったこと有名ですが、米軍、沖縄の人々は捕虜ということはなく裁判or解放だそうです。

わかりにくい回答で申し訳ないですがお役に立てれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。おじい様の貴重な体験を教えていただき、恐縮です。
捕虜にされて拷問なんてなかったんですね?

お礼日時:2005/05/07 20:03

米軍は沖縄占領後、軍人および民間人をすべて収容所へと囲い込みました。

戦前と同様の生活というわけではありません。収容所では食料が配給されており生活は保障されていましたが、当然いろいろとトラブルはあったようです。

1946年から1947年にかけ、民間人が収容所から帰村することが許可されました。

占領下の時代の沖縄は本土以上に厳しい状況が続いた(そして今も続いている)わけですが、戦前と同じであるかという問いは難しいですね。
ほとんどのインフラと歴史的建造物は破壊され、多くの土地が基地として接収され、農業以外の産業は基地作業しかなく、日本の法律に従う必要のない人間が多数滞在し…

参考URL:http://www.nahashuppan.com/catalog/pages/list/07 …
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。詳しいサイトのご紹介、とても参考になりました。

お礼日時:2005/05/07 20:04

SAPIOの4月27日号と5月11日号の新ゴーマニズム宣言に詳しく載ってます。

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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。早速探してみます。

お礼日時:2005/05/07 20:04

 沖縄戦で住民が米軍の捕虜になる瞬間は、重要な意味を持つと思います。

国から、鬼畜米英や捕虜になるよりも自ら死んだ方が名誉だと教え込まれていた住民や兵隊は、捕虜になると殺されると思い、なかなか降伏しませんでした。自分が生き残る為に他人を犠牲にしたり、迫ってくる米軍を見て、家族や地域で集団死を行ったりします。
 生き残った住民が捕虜になった時、米軍は殺したりはせず、水や食料を与え、傷ついた人には治療も行ったりしました。(米軍による住民虐殺事件もあります)その瞬間、捕虜になった人は、自分たちが間違った情報を教え込まれたことに気づき、多くの犠牲者を出してしまったことをとても悔います。
 捕虜になる瞬間は、沖縄の反戦平和の心が住民に芽生えた瞬間であるとも思うのです。
 米軍は住民に親切でしたが、その背景には、沖縄を自らの基地として日本から分離して支配する意図があったとも言われています。
 
 昭和20年から47年まで、沖縄は米軍の支配下にありました。生活レベルについては、1950年代には戦前のそれを追い越したと思います。1958年からドルを通貨にしていたので、輸入品が安く買えました。食生活は豊かでしたよ。でも本土の高度成長期の枠外でしたので、復帰時は双方に経済格差が出ていて、今でも埋まっていません。
 生活レベルは戦前を追い越しましたが、米軍支配のため、軍事を優先し、人権や民主主義は制約を受けました。沖縄が復帰を望んだのは、本土の平和憲法や民主主義に憧れたからでした。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。捕虜になる瞬間=反戦平和の心が芽生えた瞬間というのは、確かにそうですね。手を取り合う瞬間でもあったのかもしれませんね。

お礼日時:2005/05/08 17:56

困りましたね。

まだ集団自決説を信じているのですね。もっとも地元の新聞のみならず沖縄県史など
にも日本軍の隊長の命令で自決を行ったとなっているのですから、地元の人もだまされたのも無理は
ありません。しかしこれは曽野綾子さんの「ある神話の背景」などさまざまな調査で、偽りであると
いうことがわかりました。民間人が戦争で亡くなた場合、軍の要請で戦闘に協力したのなら、遺族年
金などがもらえる。そのための悲しい口裏あわせだったようです。県史はいまどのようになっている
のかわかりませが、どうか沖縄の皆様、県庁に問い合わせをしてもらいたいものですね。
自由主義史観研究会の「歴史と教育」最新号が取り上げています。
ニュースソースは産経新聞4月24日号です。
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戦時中の日本兵や、軍属、戦闘地域の人や一般国民は、敵兵に捕まると残酷な仕打ちに会うから、自殺した方がいいと教わりました。



だから、逆に捕虜になったときの行動について教育を受けていなかったのです。

沖縄でも他の南方の島でも、捕虜になって衣食を与えられると、自ら進んで日本軍の情報を提供したり、潜伏する陣地に案内したりということもあったようです。

アメリカやヨーロッパ人に親切にされたと言っても、哀れで文化レベルの低い異教徒を助けたという、キリスト教的愛護精神からきたものですから、今でも続く米兵の非人道的な沖縄や基地周辺での行動にも繋がっています。
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