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徳川秀忠の秀は豊臣家からの偏諱をもらっているのに、豊臣家滅亡後も秀忠の名を名乗っています。なぜ名前を変えようとしなかったのですか?

A 回答 (4件)

秀吉の妹、朝日が家康の後妻になった時、秀忠を朝日の養子にしたといいます。

その関係で、優秀な兄貴を差し置いて、家康の後継者と目されました。
また、秀忠の娘、千姫が豊臣秀頼と婚姻。これも、豊臣側が、秀忠こそ家康の後継者と認めた証拠です。
秀忠が二代将軍になるまで、けっこう豊臣家の七光りを利用しています。秀忠は、大阪に足を向けて寝られないですね。
また、豊臣家恩顧の大名はけっこう残ってます。彼らの神経を逆なでするような改名は、できないでしょう。
それが可能になったのは、3代目の家光の時、全国の大名に対し、父や祖父はそなたたちに対し、遠慮があったかもしれないが、世は生まれながらの将軍だぞって宣言したとき。
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秀忠の秀は


秀吉の秀だからでは

徳川は秀吉に臣従したまま、秀吉は亡くなりました
その後、家康が将軍となり
秀頼の官位を上回り
主従が逆転
家臣である秀頼が主家である徳川に謀反
と言う建てつけですから
秀忠の秀が秀頼からもらつたものなら、格好がつかないが
過去の主、秀吉からもらつた秀を持ち続ける言葉は問題ない
むしろ、昔の主をないがしろにしてないと言うことになるのでは
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兄の結城秀康も秀吉の「秀」と家康の「康」を脱退したもので豊臣と徳川も貰っている。

豊臣と徳川が一体であることを世間にアピールする狙いだったのだろう。
秀忠の名前も同じことだ。「秀」は兄と同じ意味だが、今度は「康」は使えないので、徳川家代々の通名としてよく使われていた「忠」を使ったということでしょう。

秀忠自身は、人質として秀吉に送られたわけですが、秀吉と北政所夫妻には可愛がられ、特に北政所とは非常に仲が良かった。関ケ原以後も徳川幕府から高台院(北政所)は豊臣時代と変わらない手厚い大名並みの保護を受けているが、それには将軍となっていた秀忠の意向が強く働いていた。
※律儀な人物としても知られる秀忠は、世話になった豊臣に対する想いは家康とはかなり違っていたと考えられている。

秀忠自身は、太閤秀吉夫妻が大好きだったようですし、天下統一を果たして関白に登り詰めた偉大な人物である秀吉から一字貰った名前を、むしろ誇りに思っていたのではないでしょうか。
兄の「秀康」も秀吉と家康の二人の名前を合体させた名前ですから、凄い名前です。この兄弟は生涯その名前のままでしたが、二人ともこんな名誉な名前を変えるなんて考えたこともないと思います。
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家康、秀忠の先祖を辿ると広忠、信忠、親忠など「忠」の字を持つ先祖が多く、逆に「康」の字を持つのは清康だけ、秀忠は松平家の通字を名乗っていると言えます。

改名の必要性は無いと判断してたのでしょう。
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