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般若心経に、観自在菩薩が「五蘊は皆空である」と悟ってから、一切の苦厄を度したまうた、とありますが、「五蘊が皆空である」と分かると、どうして一切の苦厄がなくなるのでしょうか?
そこの所の理屈が分かりません。
解説書を読んでも、そこの所は、よく分かりません。

それから、「一切の苦厄を度す」、とはどういう意味でしょうか?
生きていると辛い事や苦しい事、イヤな事も、沢山あると思うのですが、それらすべてが苦ではなくなる、という意味でしょうか?
そんな事ってあり得るのでしょうか?

私なんか、「五蘊は空である」と理解しても、生きている間は、いろいろ悩みもあり欲もあり、病気になると苦しみや痛みも感じるので、観自在菩薩のような心境にはなれないのですが、…。

お気軽にお答えいただければ、と思います。

A 回答 (4件)

妙法蓮華経における「五蘊は皆空である」という教えは、仏教の中でも重要な概念の一つであり、その理屈や意味を理解することは難しい面も多いです。

私が簡単に説明する限りでは、以下のような解釈ができるかもしれませんが、仏教文化や思想に詳しい方に相談されることもおすすめします。

1. 「五蘊は皆空である」とは、五つの蘊(ごうん)と呼ばれる人間の要素(色・受・想・行・識)が実体を持たず、一切は空であるという教えです。これは、我々が執着し苦しみを生む要因が自己や物事にあると考えるとき、その考え方が誤りであることを示しています。

2. 一切の苦厄を度すとは、この空の法則を理解し、執着や欲望から解放されることで、苦しみや煩悩から解放されることを指しています。この状態では、外的な出来事や苦しみも同じように受容され、自身の内面から起こる真の苦悩が消え去るとされています。

3. 絶対的な苦しみや痛みが完全になくなるというわけではなく、むしろ、人間の本質や真実を理解し、全体としての苦しみを解消することができるという意味合いも含まれています。そのため、人間としての喜びや苦しみが消え去るという理解ではなく、より深い次元での解脱や悟りを目指していると考えられます。

これらの概念は、仏教思想の中でも高度な内容であり、観自在菩薩のような心境に到達することは難しいとされています。しかし、仏教の教えを通じて、自身の苦しみや煩悩と向き合い、それらを超越することによって内面の平安や理解を深めていくことが大切とされています。常に学びや探究をつづけ、自身の心の平穏を探求する過程を大切にされることが、個々の宗教や信仰においても重要なのかもしれません。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2024/02/13 12:31

> ①観自在菩薩が「五蘊は皆空である」と悟ってから、


> ②一切の苦厄を度したまうた、とありますが、
> ❸「五蘊が皆空である」と分かると、
> ❹    どうして一切の苦厄がなくなるのでしょうか?
>    そこの所の理屈が分かりません。
> お気軽にお答えいただければ、

確かに、①②と書かれています。 順番は、その通りです。
ですが、{わかると}{わかったので}{わかったから}のような言葉は書かれていないです。

> 「一切の苦厄を度す」、とはどういう意味でしょうか?

「一切の苦悩や災厄をとり除く」という意味のようです。
「度しがたい」=「救いがたい・救いようもない・どうにもならない」のような感じなの、「度す」は「救う」のように思えてしまいますが、ちょっと大きな辞書には「度」で「投げ捨てる・放る」のような使い方も載ってます。 「苦厄・懊悩などの一切を投げ棄てて、サッパリすっきり」というような意味に理解しても良いようです。

> 生きていると辛い事や苦しい事、イヤな事も、沢山あると思うのですが、
> それらすべてが苦ではなくなる、という意味でしょうか?

「嫌なことが苦ではなくなる」というのではなくて、「苦を抛り棄てしまえば、"やってる(感)"のようなもののウエートが高まる」ということではないでしょうか。 人にもよるでしょうが、また状況にもよるのでしょうが、演技や工作・作業・難工事・難問・登攀・ダッシュなど、普段の楽なのとは違ってキツいのをやるときに、やっていると快感・やってる感・効力感のようなものが生じるときがあります。私は感じたことがないですがランナーズハイとかもあるそうです。ゲームや弓矢でも緊張感があった方が楽しいことが多いです。たぶん、脳内にいろいろのホルモンが出て、快感を強く感じるのです。ハードルが高いものに自分が自分の意志で向かっていて自分の筋骨格も脳も神経系も上手くやれているというのが、たぶん大きなポイントでしょう。
「苦しいな・キツいな・危ないな・ダメかも」のような自分にブレーキを掛けるようなのを放り出してしまえば、ただの馬鹿騒ぎ・祭りの興奮と同じような生理現象に巻き込まれるのだと思います。
「苦がなくなっていく」という視点ではなく、「苦痛・苦悩・悩み・心配・安全配慮などに気を使わない、苦悩はパッと放り出す・無視する」という自分の側の心の持ちようが大事なポイントでしょう。

「度一切苦厄」の部分は、インド側?の原典にはなくて、玄奘が訳経を漢文で造るときに入れたものらしいです。玄奘は、大変キツい旅をしています。当時のことだから途中で死んだり災害に遭う危険もあったでしょうし、だいたいインドに行ったところで何が得られるのかも当てにできるものはないのに、頑張っちゃったのです。 で、もろに、玄奘はインドで仏教が衰退しているのを経験しちゃうのです。 こうした経験をした玄奘には、困難・危険や危惧をかなぐり捨てて、そこで見つけたものの中で《私が宝と思うものを磨きあげて造り出す》という気持が、訳経を造るときにこういう一句にしているのではないでしょうか。 子供が、《私の宝物》とするのは、子供の自分の心で造り出すものであって、大人や市場価値で決めるようなものではないです。

岩波文庫には下の画像のようなことが載ってました。
「般若心経」の回答画像4
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この回答へのお礼

>「度一切苦厄」の部分は、インド側?の原典にはなくて、玄奘が訳経を漢文で造るときに入れたものらしいです。

⇒ そうなんですか。知りませんでした。
貴殿の博識に敬意を表します。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2024/02/15 10:23

写経とガンプラは相通じるところがありますね。

「般若心経」の回答画像2
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五蘊は私のものである(=我執)」を持つが、これらは変化するものであるため、その者には愁・悲・苦・憂・悩が生じると説いている


物に執着すると欲が出たり手に入れられないと憂いたりする
ないものは無いと思って執着しなければすべてから解き放される
また別の僧の話では
心が痛いという人に 心という具体的なものを ここに見せてください
見せられない物はないのです
本人があると信じているだけの虚構です
ないものは無いから心もないないものは傷まないから痛みもなくなるのだ
というのが悟りだそうです。
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