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 中学時代からの疑問なのですが、明治の税率の3%はなぜ厳しかったのでしょうか?

 中学の授業で江戸時代まで四公六民やら、五公五民と言う税率を聞いていて、明治に入りいきなり地租改正で3分になり「半分取られてたのが、いきなり消費税程度(当時)!?」と、本気で驚いた覚えがあります。さらに、一揆が起こって2分5厘になり「そこまで0,5%を払いたくないのかなぁ」と思っていました。

 当時もそのときの社会の先生に聞いたのですが、答えは
「全体収入の3%は結構痛いよ…」
と言うものでしたが、いまだにわかりません。年貢で40%払っていた当時の民衆が、税金の3%が痛かったとは意味がわかりません。きっと何かのわけがあるのでしょうが、結局中学校時代からどうしてもわかりませんでした。

 どなたか教えてください。そしてもし中学時代の私にもわかるレベルで教えていただけたら、非常に幸いです。よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

補足です。


質問者は50%、3%という数字に幻惑されておられますね。
この数値の母数に注目してください。大きい母数の3%は小さい母数の50%より大きいのです。

地価は税金の予定総額を確保するように些か恣意的に操作されたものです。 
年貢は実際の収穫高を基準にするので実情を反映してある程度毎年修正される可能性があります。
しかし地価はこのような修正はありません。
しかも金納制で農家は現金を用意する必要がありますがこれが大変だったのです。

農作物を換金する際米価相場の影響があり米価が下がれば多くのコメを売らねば成りません。
今までなら収穫の50%でよかったのに50%以上の米を売らなければならない事も生じます。
それも困難なら借金しかありません。

こうして地主階層は担保の土地を増やし、資本家は財を増やして資本主義時代を招いていったのです。

実際の税負担率は3.5%~4%位に達したと聞いています。 しかし実際の納税者のうけた増税感は大きいものだったのです。
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この回答へのお礼

 返答ありがとうございました。
 つまり、地価(分母)と言うのは相当大きく設定され、毎年定額を相場が影響する金納するということなのですね。
 それでは実際の税負担率3.5%~4%というのは、3%で大体幕府時代と同じぐらいの所が相場やらなにやらでそこまで上がってしまい、幕府時代よりも増税感が大きくなってしまったと言うことでしょうか?
 だんだん理解が出来てきました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/07/23 22:09

再補足です。


江戸時代の各藩の財政は借金でやっと成り立っていたのですが明治政府は借金をせずに税収だけで収支を合わさねばなりませんでした。
借金をするには外国しかなかったからです。
しかも種々の新事業も行わねばならず従来のような年貢制度ではそれもおぼつかないので米相場のリスクを農民に押しつけ金納制に変更したのです。

江戸時代天領という幕府直轄地は年貢も低く優遇されていましたがそれが全国一律の制度になり増税率が一段と強く感じられたのです。

戊申戦争で赤報隊が年貢半減を宣伝して、明治政府から犯罪者として処刑されたように農民側は減税期待感が強かったのに実際は増税になった失望が応えたのです。
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この回答へのお礼

 返答ありがとうございます。
 なるほど、米を売る時のリスクまで農民に押し付けてられてしまった上、天領の住人と減税を期待した住人が相当な増税感を引き起こしてしまったと言うことなのですね。
 ありがとうございます。

お礼日時:2005/07/24 22:51

No.3の方が言われるように、地租の元になる地価は、従来の年貢の収納高を確保するように操作されていました。



補足しますと、幕藩体制時代の年貢というのは、不作の時は減免されました。また、過酷な政治を行って農民が生きていけなくなればその藩は幕府から処罰されることがありました。生きていけなくなった農民が一揆を起こせば、その藩が幕府から処罰されることがありました。よって、ある程度以上の過酷な年貢取立ては抑制されたようです。(ある程度というのが問題ですが)

一方、地租改正後の地租は、地価に対するものですから豊作・不作に関係ありません。納税の原資が自然条件によって増減するのに、税額が一定であるというのが政府に有利で農民に不利なわけです。

しかも、納税の原資がコメ等の農産物なのに、現物での納付が基本だった年貢と違い、地租は現金で納めます。豊作で米価が下がれば納めるのが苦しくなり、不作で米が取れなければもちろん納めるのが苦しくなりますが、基本的に減免措置はありません。正確には、地租の減免がなされたという話を聞いたことがありません。

「豊作凶作に関係なく、一定の金額を金納する」
「その一定の金額は、普通作の時の年貢米の価格と同じかそれ以上」
というのは、収穫量を天候に、コメの価格を市場に左右される農民にとっては過酷なことなのです。

しかも、徴税に当たる官吏は中央政府の忠実な下部機関で、農民が過酷な地租に苦しもうが知ったことではありません。地租をきちんと取り立てる方が重要です。秩父事件のような一揆を起こせば、警察や軍隊が出動して鎮圧されるだけです。「一揆を起こすほど農民は苦しんでいるのか。地租を減免しよう」などと政府が言ってくれるはずもありません。

戦前は、租税の取立ては今以上に厳しく、地租を納められない農民に対しては容赦なく強制執行が行われたようです。土地を奪われた農民は生きていけませんから、娘を売って現金を作ったり、高利貸しから借金したりします。借金を返済せずに土地を取り上げられれば、結局は同じことになりますが。
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この回答へのお礼

 結局、地租改正後は3%といいながらも、幕府の年貢と同じぐらいに地価を設定され(15倍ぐらい?)、さらに金納にされて米を一度売らざるえなくなり作況指数に加え相場にも左右される状態となり、政府の財源が安定しても農家の収入が不安定になり一揆に至って2,5%となったと言うのが筋道だったのでしょうか?
 じぶんなりに解釈してみたのですが、年貢と地租の違いや、だったらなぜ最初から40%の税率に設定せず3%を40%ぐらいに膨らませたのかそのあたりがどうも納得いきません。
 当時の農民が他に払うべき税金があれば、また別に考えることが出来るのですが、ネット上では調べることが出来ませんでした。

 どなたかもう少し教えてください。お願いします。

お礼日時:2005/07/23 13:24

明治の地租改正には地券という地価を決定した方法により地価の3%の税を課すことが定められました。


この地価の決め方が所有者の申告によるのですが土地の売買にも関係するので高くも低くもあり実態にあわせる修正が政府により行われたのです。

地価の算定には収穫量、米価、利率が考慮されたのですがその背後に税収を確保する目的で操作が加えられていて必要経費を過小に見積もるなど実態は過重なものになっていたのです。
さらに農家の経営内容も変化していました。
税の金納制は農家に余分な負担を生じました。

このため実際の税負担は3%以上になっていました。
幕藩体制下に比し税負担の増減が地方毎に異なるという現象も生じたのです。
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この回答へのお礼

 返答ありがとうございます。
 少し疑問に思ったのですが、結局明治時代の農民の税負担は総額何%ぐらいだったのでしょうか? 3%をどういじっても幕府時代の50%近くにいかない気がします。確かに米を金に換えなけりゃいけない金納制度は大変だとは思いますが・・・。
 ありがとうございました

お礼日時:2005/07/23 11:38

現在の所得税とは異なり、分母が年の所得ではありません


国が設定した地価に対して3%です
現在の固定資産税(時価の8割程度の評価額に対して1.4%の税率)と比べてもかなり高いと思います
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この回答へのお礼

 返答ありがとうございます。
 と言うことは、明治時代には地租以外にも税金が取られていたということだったのでしょうか?
 中学時代にわからなかった事がわかり、さらになぞが深まっていきます…。
 ありがとうございました。

お礼日時:2005/07/23 11:20

その社会科の先生も適当なことを言ってますね。



嘘つきといってやりましょう。

総収入の3%ではなくて、地価の3%です。
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この回答へのお礼

 返答ありがとうございます。
 総収入ではなかったのですね。
 社会の先生が一番分かっていなかったのですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2005/07/23 11:16

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