「一気に最後まで読んだ」本、教えて下さい!

最近、戦後60年記念類の番組をよく目にします。
今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしに興味が出てきました。
その時代と現代を比べれば物質(アイテム)が変わりましたが暮らしそのものは
今も昔も変わらない気がします。
あの当時、庶民より少し上の人達はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
車・カメラ・8ミリカメラなど持っていたのでしょうか、後テレビは無いですから
ラジオが主流でしたよね、しかも民放がないのでNHKだけでしたよね
当時のラジオ放送は娯楽性があったのでしょう?(これは戦中と戦後では
違いますが、それぞれの人気番組とか教えてください)
さらに当時の裕福層の三種の神器とはいったいどんな物だったのでしょうか?
また、その時代に発売された商品で今日でも売られている商品はありますか?
後、仕事は週休1日だったのでしょうか?労働時間は?女性の社会進出は?etc
当時の世相がわかる人がいましたら色々教えて頂ければと思います。

A 回答 (4件)

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。



 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

 まず昭和16年から昭和20年までの戦時中。真珠湾攻撃で始まった戦争ですが、最初の勢いはともかく年々戦局は厳しいものに。米や麦、塩やタバコなどは配給制、食料はもとより物資がとにかく無くなって窮乏生活。
 ただ、わが家にはダットサンという小型車と人力車がありましたが、車引きの方も運転する人もみんな戦地に。それに、ベビーパールとツァイスイコンという2台のカメラにバーディーという8ミリのセット、それに電蓄というオーディオに沢山のレコードもありました。これらは戦前からあったようですが、終戦間際の空襲で全部焼失してしまったということです。

 ラジオはNHKの第一と第二だけですからほとんど選局しなくてもいいという便利さ?も。番組についてはまだ調べ切っていませんが、ラジヲ体操に落語に講談、浪花節などは人気番組。それらに挟まるように「今日の戦果は米戦艦1隻に巡洋艦4隻」なんて臨時ニュースが入るのも毎日のこと。今考えてみれば毎日そんなに戦果が上がるはずもないウソばっかり。そして空襲警報とともに「和歌山上空に敵B29爆撃機が100機編隊で関西方面に向けて侵入中」などとの軍の発表も。当時の子供の歌としては「お山の杉の子」、この歌知っています。

 当時の食事は、かなり裕福だったわが家でも玄米におかずは一品、それにお味噌汁。派手な服や和装、パーマなどは「非国民」と非難されたとか。よそ行きの高級なお召しをリフォームして作ったモンペと白い割烹着姿で国防婦人会というタスキをかけた祖母の写真も。これ、男性はほとんど戦地に出征していて女性が「銃後を守る」、つまり国土を守るということの現われ。
 宝石や貴金属類はもとより、鉄や銅のものなどはお国のためとなかば強制的に「供出」。当時の三種の神器といえば、氷で冷やす冷蔵庫、ハンドルを回して交換台を呼び出してつないでもらう電話、それにラジオぐらい。とにかく「欲しがりません、勝つまでは」がスローガンの時代でしたから。

 当時からの製品といえば、メンソレータム、花王石鹸、中将湯、ライオン歯磨き、三菱やトンボの鉛筆、ナショナルや東芝、シャープなどのラジオや電気アイロン、扇風機といった家電製品。まだ沢山あります。

 とにかく男性が足りない時代とて、家庭の主婦をはじめ女性が職場に。女子高(旧制)などの若い女性も挺身隊として学業そっちのけで職場や軍需工場、そして農村へ。勤務時間などはあってないようなもの、とにかく働けるだけ働くか、空襲警報で避難の毎日だったとか。そして終戦。。。。。。

 あとは#1さんがお答えの通り。終戦の時点ではたしかに車を持っている人はほとんどなかったと思います。空襲で焼け残った親戚にはカメラも8ミリもあって、まだ幼少の頃にそんな古いものを見せてもらった記憶がありますが。
 「尋ね人」、それに戦災孤児を扱った「鐘の鳴る丘(ラジオドラマ)」なんかはとても象徴的ですね。この時代ではとにかく食料が乏しく、まして甘いものがなかったとか。まるで今の北朝鮮さながら。

 ラジオではそのほか、「三太物語」「えり子とともに」、「大学を出たけれど」などラジオドラマや「日曜娯楽版」などが大人気、これやがてのちの大ヒットドラマとなった「君の名は」につながって行く。#1さんよくご存知ですね。

 当時流行した歌に「一万三千八百円」というのがありましたが、これは当時の平均的サラリーマンの給料の額。
 電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが三種の神器と言われたのはわが国が戦後の復興期から高度成長期にさしかかった昭和30年のこと。もうこの時代ともなるといろいろな分野で今と同じブランドの製品が出ています。こんな話、好きですが書ききれません。
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この回答へのお礼

janvierさん、詳細な意見有難う御座います。
色々、書いて頂き嬉しいです。

この終戦を挟んでの10年が大変興味深く思い現在調べております。

>米や麦、塩やタバコなどは配給制、食料はもとより物資がとにかく無くなって
>窮乏生活。
比較的に裕福な地域では色々な物が手に入ったのでしょうね。直接農家に買付けに行く輩もいたそうですから。
エリート層でもこういった生活状況だったのでしょうから、一般庶民は食うや
食わずの生活だったのでしょうね。配給も遅れがちだったと聞きますから。


janvierさんのご家族は裕福だったんですね。
小型車・カメラ・8ミリ・オーディオ等やはり持っている人は持っていたのですね。今で言うと何でしょうかね、出始めの頃の液晶テレビ?とかですかね、それよりも価値がありますね(汗)思いつきませんね。

ラジオでの空襲警報は、今で言う地震情報以上のものだったのでしょうね
こうした情報は生死につながりますのでラジオの情報源が貴重だったのですね。


>当時からの製品といえば、メンソレータム、花王石鹸、中将湯、ライオン歯磨き>三菱やトンボの鉛筆、ナショナルや東芝、シャープなどのラジオや電気アイロ
>ン、扇風機といった家電製品。まだ沢山あります。
こういった情報が欲しかったのです。
形は変われど現在まで存続するには、当時としてはどれも画期的な物ばかりだったのでしょうね。改良され原型は残っていなくても当時の人達と同じ物を使っているはなんともノスタルジックになります。
この鉛筆は、親父が子供の頃からあったんだよなんて聞いたら歴史を感じちゃいますね、それに今は老舗の息に入ろうとしている食品類なんかで当時はまだ出始めで色々問題があったなんて情報も聞いてみたいです。

お礼日時:2005/08/01 16:48

母から聞いた話ですが、戦前は裕福な家には冷蔵庫があったそうですが


氷屋が氷を持ってきて入れて冷やすそうです。
電気アイロンが庶民でもなんとか買えたそうですが、当時は電気がメータ制では
なく電球の個数で料金が決まっていてたとえば一軒で60ワット電球が4個で
月で値段が決まっていて、許可無く電気製品を繋ぐのは違法なので夜中に
隠れてアイロンを使ったそうです。(昼間は電気はこなくて、夕方で暗くならない
と電気がつかえなかった)
電話は大きな商売をしている家ではあったらしいですが、テレビドラマで裕福な娘が友達に電話をしている場面を見て、「いくら金持ちでも、商売につかう電話を
子どもが私用に使うことは親が許すはずが無い」と言ってましたね
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この回答へのお礼

貴重な意見有難う御座います。
電球の個数で料金が決まっていたとういうことは知りませんでした。
やはり当時は家電といった物はほとんど無かったからそういった形態を取って
いたのでしょうね。それでも当時アイロンは庶民でも持てたんですね。
電話は昭和40年代でも無い家がありましたので、当時としてかなり優越感に
浸れたのでしょうね。

お礼日時:2005/08/01 17:11

終戦前は日本は戦勝国ですから裕福でしたよ。


それを中国、韓国が今怨んでいるのです。

戦後の数年は何もなかった、あったのは米軍の下で働く人たちくらいです。
だからその時代と現代を比べれば物質も暮らしもまったく違いますよ。
庶民より少し上の人達?はイメージがわかないです。
車は馬車のほうが多かった、カメラは戦前のものを拠出しないで隠し持っていたのがあったのかな。
戦前の裕福層の三種の神器は箪笥、いっぱい着物が詰まっていた。
長持ち、こちらは布団が春秋用がいっぱい詰まっていた。
食器棚、茶箪笥、足踏みミシン、琴などです。

仕事は1日、15日の休みだけです。
労働時間は12時間くらいかな。
女性も結構働いていたよ。

テーマが戦前、戦後で絞りきれないね。
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この回答へのお礼

早速の回答有難う御座いました。
戦勝国とは、日清・日露のことですよね(汗)
>庶民より少し上の人達?はイメージがわかないです。
官庁・新聞社・大手メーカー・大手商社などに勤めている人達です。
今で言うIT業界とかでしょうか?(笑)

衣装持ちということで箪笥・茶箪笥・食器棚は納得しました。
当時足踏みミシンを持っているのは裕福だったんですね。
後、電話を持っている人は国内でどのくらいだったのでしょうかね。

>仕事は1日、15日の休みだけです。
>労働時間は12時間くらいかな。
>女性も結構働いていたよ。
本当ですか、毎日12時間働いて月に休みが2日間しかないのですか?
これはあー野麦峠の時代ですよね、昭和20年ならもっと人間らしい暮らしを
してたのではないですか?

お礼日時:2005/08/01 14:36

車を持っている人はほとんどなかったでしょう。

庶民より上のクラスならカメラは持っていた可能性が大ですが8ミリはまずありません。
敗戦後(昭和20年以降)のラジオの人気番組といえば、「尋ね人(戦争で連絡が取れない人を探す)」、「鐘の鳴る丘(ドラマ)」、「向こう三軒両隣(ドラマ)」、「二十の扉(クイズ)」、「話の泉(クイズ)」、「のど自慢」あたりでしょうか。
三種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)は昭和30年以降だと思います。昭和24年頃の電気製品といったら、パン製造機(箱の内側に電極が付いていて、間に小麦粉とイーストを入れて通電してパンを作る)や電気ヒーターくらいかな。洗濯機はなく盥で手洗い、冷蔵庫は氷冷蔵庫があれば上等、でしょう。もちろん、電気釜なんかなく竈で炊きました。
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この回答へのお礼

早速の回答有難う御座いました。
人気番組参考になりました、敗戦が色濃く影を落としていた時代ですね。
放送内容からすれば当時は庶民の方もラジオは持つことはできた
時代だったのですね。
二股ソケットが既にあったのだろし家電もある程度は一般家庭に行き届いている
気がしてなりませんでしたが・・・。家電は、まだだいぶ先の話になるのですかね。
電気冷蔵庫も無かったのには驚きでした。
ということは貧富の差はあまりなかったのでしょうか?

お礼日時:2005/08/01 14:25

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