No.7ベストアンサー
- 回答日時:
gooは中学生や高校生も見ていると思うので、敢えて書きますが、6の方の〈日本の武士と百姓は元々の民族が違うのです。
〉という指摘は正しくないと思います。騎馬民族征服王朝説から、想像を膨らませたのだろうと思いますが、江上氏直系の先生方を除くと、あの説は、もうほとんど相手にされていないというのが、現状でしょう。
万一、騎馬民族征服王朝説が正しかったとしても、王氏の末裔が地方に定着するためには、婚姻を通じて土着勢力と一体化する必要がありました。もともと武士は武装農民であり、秀吉によって、兵農分離が行われるまでは、武士と農民の間には意識の差はなかったはずです。まして、民族の差なんて言うのは、トンデモ説であり、そんなことを信じてはいけません。
さて、元の質問について私見を述べます。
ローマ帝国時代、都市に住めたのは、ローマ市民権を持つ者だけでしたが、その伝統から、ヨーロッパでは、城壁の中に住む市民は〈ブルジョワ〉と呼ばれ、特権と義務を持っていました。中国の場合も、皇帝に直属するのは城壁の中の民だけで、都市住民は特権と義務を持っていました。
ヨーロッパも、中国も、都市に住めるというのは特権であり、都市住民と、非都市住民の間には断絶がありました。日本には、そういう断絶がなかったことが、城塞都市が生まれなかった原因だと思います。
ご指摘有り難うございます。
私も武士と農民が別民族説はふに落ちませんでした。
都市住民特権階級説はスンナリ理解できました。
確かにローマ時代のローマ市民権はステータスでした。
中国でも都市外への追放という刑があった事を思えば城壁外との認識の差は理解できます。
日本には都市城壁が発達しなかったので意識上の差別に終わったという事でしょうか?
No.6
- 回答日時:
若干補足すると、、、
日本の武士と百姓は元々の民族が違うのです。
百姓は弥生時代に稲と一緒にやってきた民族で、武士は天皇と前後して朝鮮半島からやってきた民族です。(源氏、平氏など)
だから、領地と領民という関係はあっても、別の世界に生きているという感じだったと思います。
勝手にやってろ。みたいな。
大陸の民族は、兵士や農民が一団となって共同で都市や集落をつくっていました。
まければ大陸を流浪しなければならない運命共同体だったのです。
No.5
- 回答日時:
国民国家が成立する以前は、単なる領民であって別に守る対象でもありませんでしたし、逆に領民も国に忠誠を誓っていたわけではないからです。
ようするに領主同士の戦いに過ぎなかったわけですね。もっとも兵隊として借り出されるということはありましたし、集落に部隊を駐屯しようものなら、あらゆるものを食い尽くされたでしょうけどもね。ヨーロッパも日本と同じですよ。結局、領主だけの城でしょう。異民族との戦い以外は都市毎守ることはしていません。
ご回答有り難うございます。
どうも私の質問が舌足らずだったようです。 反省!
イタリア都市国家間の戦争では同民族同士で、住民は城壁の中に籠もりプロの傭兵隊に気のない戦争をさせていたような所もありました。
この場合城壁は戦闘に参加しない住民の避難場所を提供している訳です。
積極的に保護するとまではいきませんが・・・
この場合の城壁の構築者がいつ何に対して、何を目的として城壁を構築したのかと疑問に思ったのです。
防御にしても都市全体を対象にしている規模のものが外国には多いのに、日本ではそれは例外で領主本位のようにみえます。
土地柄、時代柄とは理解するのですが・・・
No.4
- 回答日時:
「非戦闘員は、自分で身を守れたから」です。
戦国時代以前の合戦では、
「青田刈り」(まだ実っていない田畑の作物を刈る。農民も領主も、その年の収穫が皆無となり飢えることになります)
「足弱の捕獲、売買」(戦場の住民、落城時に中にいた者を捕らえて下人、遊女に売る。女性の場合は、当然強姦してから売ったでしょう)
といった行為は普通に行われていました。また、下人は南蛮貿易の対価として輸出されていました。ですので、「非戦闘員の保護という思想があった」というのは言い過ぎです。
ただし、日本の場合は山がちの地形ですから隠れる所は多いですし、異民族が攻めてきて全てを略奪して去っていくことはありません。攻める側も、将来自分の領地になる土地の民にあまり恨まれては困りますから、大陸のような徹底した略奪暴行はなかったと思われます。
戊辰戦争の際は、「官軍」に降伏した会津藩の場合、城下町の武家屋敷と城の中にあったものは全て接収され、会津藩士とその家族は一文無しになって退去させられたそうです。会津藩領の領民も甚大な被害を受けたといわれます。
一方、大陸の場合は民族対民族の戦争になります。平地の中であれば隠れる所もありません。外敵が攻めてくれば戦闘員も非戦闘員も城の中に入り、撃退できれば良し、落城すれば阿鼻叫喚の巷となりました。一番有名な例は、トルコがコンスタンチノープルを攻略した時でしょうか。
これと似た例が、昭和20年8月にソ連が侵攻した地域です。日本による治安が消滅した時、現地人とソ連軍によって在留日本人は勝手放題に略奪・暴行・虐殺されました。大陸の城壁は、そうした最悪の事態を防ぐためにあったわけです。
No.3
- 回答日時:
歴史環境によると思います。
また、城郭都市に非戦闘員の保護という理念はありません。中国・ヨーロッパで城郭都市が成立した理由は、定住農耕民族と移動遊牧民族が同一地域もしくは隣接地域に同時に存在したからです。両者は同じ土地において、利害関係をもち、住み分けが行われることもありましたが、大抵緊張関係にありました。
遊牧民族にしてみれば牧草地がいつのまにか農地になっていては生活基盤がなくなってしまいますから、開拓で放牧地を縮小していく農耕民族は害獣以外のなにものでもありませんでした。
一方、攻撃を受ける都市は、負ければ人間として扱われずに殺されるか奴隷として略奪されるかですし、遊牧民族を夜盗のような存在として否定していました。
ゲルマン民族とローマ帝国辺境諸都市や、春秋戦国時代の中国の鬼方・土方と呼ばれる放牧民族と隣接都市国家の関係から想像できると思います(春秋時代の「衛」という国家は一度滅ぼされています)。
日本では、こうした民族的な対立は、定住農耕民族の一方的な侵略で終始していて、狩猟採集を中心とする民族による反抗は、平安時代の後半でほぼ絶えてしまいます。
実際のところ、東北への侵攻に伴う多賀城などは、軍事施設とはいえローマの前線軍事都市と同様の規模と機能をもっていましたが、それが全国の都市の形態として一般化することは、必要性の上からもなかったようです。
結局、日本全国が定住農耕型の生活に収斂してしまいましたので、城郭都市の必要性はなくなってしまい日本では成立しなかったわけです。
治安が悪くなると城郭都市に類した都市は出来ますが、何万何十万の兵が一都市を攻撃するような現象は戦国時代の末期の1世紀に満たない期間だけでしか存在しませんでした。
質問者の方があげておられる例の大半は、この時期の城郭都市だと思います。
京都は単純に中国の都市を真似たコピーです。
堺は商業都市として周囲の武士団からの略奪を防ぐ必要性があった為です。
寺内町は、治外法権が認められた地域ですので、土居などによって区画を明確化する必要性があった為です。
浄土真宗の寺については、信長に代表される武士団との統治面での軋轢がありましたから、質問者のイメージする城郭都市に近い存在だと思います。
北九州の防塁は、もともと唐の侵攻に備えた、水城や大野城跡と連携した施設だったはずです。ただ都市を囲むというイメージではないですね。
ご回答有り難うございます。
農耕民族と遊牧民族の争いという分析はある意味わかりますが、イタリアなどの都市国家では農耕民族自体牧畜を行っていました。
この場合民族間の対立はありません。
日本の場合深刻な民族間の対立を経験しなかったからでしょうか。
No.2
- 回答日時:
端的にいうと、戦争は玄人の武士だけでやるもので、非戦闘員を巻きこむことが少なかったからです。
寺内町という観念は、真宗信者自体がひとつの勢力=戦闘勢力と考えられたために生まれた発想で、基本的には武士が自分たちが籠城するための城を築くのと同じ行為です。自由都市であった堺も、これにほぼ同じです。日本の戦争が非戦闘員を巻きこむことが少なかったのは、やはりわれわれの文化的風土というべきものだと思います。西欧中世でも、「戦争は玄人だけでやるもの」という観念が普及していたのですが(これは国家に対する帰属意識が希薄な前近代に共通する特徴)、このほかに、日本人は長いあいだ戦闘員と非戦闘員の区別があいまいになる戦争を本格的に経験したことがありませんでした。具体的には宗教戦争と他民族による征服戦争です。この両者の場合、相手が戦闘員であるかどうかにかかわらず、「異教徒(○○人)はみんな敵」という発想で戦闘が行われるために、しばしば非戦闘員が戦争に巻きこまれやすく、必然的に要塞都市というものが発達するのでしょう。
ただし戦国後期から江戸初期になると、領国経営と有事への対応が同一化する傾向がつよくなり、いざというときには城下町全体をひとつの防塁として防戦するという観点から、所謂総構えの築城が多くなります。これは非戦闘員保護というよりも、難攻不落の要塞を作るための防衛線という考えかたで、領国支配のために平城が多くなったことによるものです。
戦場での非戦闘員保護は、日本は割と古くからあり、たとえば戦場になった地域の住人を殺したりしないであるとか、輜重に借り出された人足は敵方であっても危害を加えないとか、雑兵は手向かいしなければ放っておく(雑兵首はとっても功名にならないというのも同様か)とか、船戦で船頭や水夫を狙うのは卑怯といった暗黙のルールがありました。義経は壇ノ浦で平家方の水夫を射殺させて、後の史書に非難されています。
全体的にいえば、日本の非戦闘員保護の思想は、「守る」ことではなく、「かかわらない(無視する、手出しをしない)」ことです。やはり玄人と素人が厳密に区分されている戦争が多かったためでしょう。
ご回答有り難うございます。
確かに戦争目的の質が違ったのですね。
自国民同士の戦いでは逃げる者は追わずなんですね。
領民保護という理念は必要でなかった事は理解できました。
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