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タイトルそのままですが、生成文法はしぜんかがくといえるのでしょうか?生成文法は人間の脳内に存在する言語能力をその研究対象としているという点とさらにその研究プロセスが物理学に近いという点を根拠に自然科学と主張しています。しかし、その対象は脳内に存在していることは確かでしょうがその内容は非常に抽象的であり対象が実在しているといえるのでしょうか?そしてもし実在するとしても脳内でどのように言語能力が存在しているのかを解明することなどできるのでしょうか?

A 回答 (2件)

>言語学が自然科学として言語能力と脳の関係を明らかにするためには脳科学側ではなく言語学側にはどのような課題があるのでしょうか?



何もありません。
言語学者、言語心理学者、脳生理学者がそれぞれ他者の研究成果を横目でにらみつつ、自分の課題を解決していくよりほかないでしょう。なぜなら、

1.言語学はまだ自然科学としては物足りない。もっともっと革命的なパラダイム転換が必要で、その時には生成文法はなくなっているだろう。

2.それをいうなら、脳科学だって、誕生したばかり。現在の f-MRI で分かることなんて、たかがしれている。まだまだ脳科学と言語学がコラボレーションするには時間がかかる。

3.他分野での成果はデータとしては貴重であっても、所詮はデータであって、理論を支持も否定もしてくれない。(これは自然科学なら当然)

4.有機化学は物理学が発達する前から、営々と成果を上げ続けたが、それは別にいつか、物理学の役に立つと思ってやってきたわけではない。X線で分子構造が分かるようになっても、基本的な研究手法は前世紀の延長線上にある。


#むかーし、むかし、変形が華やかなりし頃、変形をたくさん使う構文はそれだけ脳の処理が大変なはずだ、という仮説を立てた実験が、たくさん行われた。無駄なエネルギーだった。生成文法の理論が変遷し、前提となる仮説自体が否定されてしまったから。


>生成文法の手法について否定的な意見というものを覗いて見たい

言語は様々な顔をもっています。
生成文法が目指しているのは、そのごく一部の解明にすぎません。その意味では、語用論や社会言語学そのものが生成文法批判になるでしょう。また、規範文法については、科学ではないところに価値があります。

ただ、科学たろうとするならば、その手法・アプローチそのものについては、もう後戻りできないような気がします。

私も生成文法批判を追いかけてはいない(理解しないで批判する輩が多すぎた!)ので、古いものばかりで恐縮ですが、こういうのはいかがでしょう。

『月刊 言語』1986年 (Vol.15) 12月号「チョムスキー理論の功罪」
(ついでですが、『月刊 言語』2005年 (Vol.34) 5月号「21世紀の生成文法」もご覧ください)
丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店)
丸山圭三郎(編)『ソシュール小辞典』(大修館)
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この回答へのお礼

丁寧にありがとうございます。
生成文法はまだまだゴールは先だが着実に自然科学として進んでいるんですね。
ご紹介いただいた本を読んでみようと思います
これからも違う角度から生成文法を見ながら勉強していきたいと思います!!
また、お伺いすることもあるかも知れません、そのときはどうぞよろしくお願いします。
ありがとうございました!!

お礼日時:2005/09/15 21:31

Muchox2 さま、お久しぶりです。

お元気そうで何より。

さて、Muchox2 さんは、現実に存在するものの性質や構造を調べるのが自然科学とお考えでしょうか? しかしそれは幻想です。

たとえば相対性理論。もちろん、この理論のもとになった現象は当時すでに観察されてはいましたが、相対性理論を実際に証明するデータは、理論の発表後、何年もたってから、続々と発見されました。(ブラックホールとか、ジャイロスコープによる観察とか)

たとえば原子、素粒子、ニュートリノ。その実在が確認される前から、理論的には存在していました。

たとえばビッグバン。宇宙の膨張を説明するにはいいかもしれませんが、残念ながら、もはや観察不可能です。

あるいは有機化学の「亀の子」(有名なヘビが絡まっているようなベンゼン環とか)。現実に水素や酸素に手が生えているわけではありませんね。

このように自然科学の本質はその手法にあるのです。仮説演繹的さらには仮説的推論(abduction)といってもいいでしょう。

データがある。それは結構。だがデータをいくら分類記述しても、何も見えたことにはならない。もっと大事なのは抽象的一般的説明理論なのだ。

現実に存在する言語データをいくら客観的かつ網羅的に収集し、厳密に整理分類したとて、(自然)科学とは呼べない。

逆に現段階の理論ではうまく説明できない現象や反証となりうるデータがあったとしても、理論が誤っていることにはならない。鳥の羽がボーリングの球よりゆっくり落ちるからといって、万有引力の法則が否定されないように。

たしかに、脳のどの部分が言語についてどのような役割を果たしているのか、今のところよく分かっていないし、生成文法のたとえば「変形」が脳の「○○野」あるいは「○○ニューロン」に存在すると想定するのは、ばかげている。

だが言語能力と脳の関係がよく分かっていないのは、科学自体がまだ十分進歩していないから分からない、あるいは人間にそのような能力がそもそも備わっていないから分からないのである。

チョムスキーの言葉を借りれば、言語学にはまだガリレオ革命は起きていない。もし革命が起こり、脳科学が十分に発達すれば、言語と脳、言語と進化、などなど様々なことが明らかになるかもしれない。

しかし、再びチョムスキーの言葉を借りるならば、それはそもそも人間の認知能力を超える「はかりごと」なのかもしれない。生身の人間がどうがんばっても超音波や赤外線が感じ取れないように。
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この回答へのお礼

わかりやすい説明ありがとうございます!!
なるほど、科学の本質はその手法なんですね。
挙げていただいた例のように言語学も抽象的な一般的説明理論の構築を目指しているという点で自然科学ですよね。
そこでもう一つ伺いたいのですが、言語学が自然科学として言語能力と脳の関係を明らかにするためには脳科学側ではなく言語学側にはどのような課題があるのでしょうか?
あと、生成文法の手法について否定的な意見というものを覗いて見たいと思うのですが、そのようなことを述べている本やサイトをご紹介いただけるとうれしいです。

お礼日時:2005/09/14 09:57

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