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こんにちは。TVドラマ女王の教室でも‘自分さえ良ければ良いの、みんな。まあ、今は日本中そうだけど。‘というセリフがありましたがなぜそんな人間が増えてしまったのでしょうか?義務は果たさないが権利はきっちり主張する!!ここでもそんな質問を多く見かけます。【自己破産したら海外旅行に行けませんか?】(借金踏み倒して旅行に行こうという考えが怖いです)【自分の資産は手放したくありませんが生活保護受けたいです】など法的には大丈夫かもしれませんが倫理的にどうなの?と思いますよね。自分も医療機関で働いていた時【待ち時間が長いのは他の患者に時間を掛けすぎるからだ。他の人は適当に診察して自分をじっくり診てくれ!!】とおっしゃる方が結構いまして面食らいました・・・。
日本はどうなってしまうのでしょう・・・・??

A 回答 (17件中11~17件)

実際どうなのかわかりませんが、本当に自己本位的な考え方が増えているのだとしたら、それは、「共同体」「コミュニティ」の崩壊によるものだとする考えができると思います。



かつて、会社経営が家族主義的と言われた時代には職場がひとつのコミュニティでした。また、マイホームのある一帯もコミュニティでした。

しかし、昨今、雇用が流動化し、会社に依存することが必ずしも生活の安全をもたらさなくなっている状況では、職場のコミュニティは事実上解体されています。地域コミュニティも、非都市部では担い手の流出、都市部では新規住民の急増などの要因もあり、今までのようには機能していません。

このような状況では、自分を守るものは自分しかありません。共同体は、個人の自由を制約する一方で、その上位にある社会的主体からの介入を退け、外部からの攻撃から個人を守る役割を果たしてきました。しかし、ここにきて、個人は、共同体の呪縛から解放されるかわりに、自分で自分を守るという課題に直面することになったわけです。

しかし、伝統的に我々の倫理・道徳は「共同体」に基礎を置いていました。そこから解放された時代にあっては、個人が直接外界と接する新しい倫理・道徳が必要となる、又は今まで「共同体」に意味づけられていた倫理・道徳を新しく定義しなおす必要があるはずなのですが、それができずに、倫理・道徳なき個人が暴走している(というよりむしろ過剰防衛に向かっているというべきか)、という説明が可能かと思います。

ステロタイプな言い方になりますが、欧米では個人と絶対者=神の関係が意識されているのに対し、日本では横のつながり(たとえば世間)が重視されるといいます。その横のつながりが壊れて、絶対者の意識もないところに、どのような倫理が打ち立てられるのか。

対応策としては、個人を主体とする新たな倫理を模索すべきだ、という議論と、何らかの形で共同体に回帰すべきだ、という議論があります。

なんか、新書とかでいい文献がありそうな気がするのですが、今すぐに思い浮かびません。社会学関係で「共同体主義」などに言及しているものを探してみてください。本来、何かの文献に当たってからご回答するのが筋なのでしょうが、この手の考え方に言及したものがなかったので、こういう考え方もあるというご紹介までに。なので、回答内容の自信は「なし」です。
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人間の欲望を野放しにしたら、とことん自己本位になりますよ。



倫理観などでコントロールできる人はセーブしますがね。

自分の欲望・衝動を抑えるのは教育の問題でしょう。個人が抑制できれば
社会もその傾向を強めることになります。

戦後は平和指向・個人尊重・自由放任・人権優先が強まり過ぎました。
行過ぎた結果が質問者の提示される諸々の事象です。

「自己犠牲」なんて口にしたら今の人達は怒りで顔色を変えるでしょ。
でも、動物の親は子供を育てるのに多大な犠牲を払いますよ。

医療費の問題でも、平均年齢を超えたら医療費の支払い負担率を上げる
ことなど誰も口にしません。九十才も百才も生きれば十分だ!と満足して
医療費の負担を若い人にかぶせぬ様にすることを考えないと、若い人に
自己犠牲の価値を説くことは出来ません。

肝心なのは教育ですが、残念ながら今の世はひたすら郵政なので、
>日本はどうなってしまうのでしょう?
とのお嘆きは尤もですが、期待する余地は無いとしか言いようがありません。
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人は皆自分さえ良ければそれでいいのですよ。



人のためになる事をしても、結局それは自分に戻ってくると思うからやるんですね。
人のありとあらゆる行動は全て必ず自分のために起こした行動なんです。
その行動が必ずしも自分のためとなって帰ってくるかとうかは別ですけどね。

まあ要は「自分さえ良ければ良い」というよりも、「人のことはどうでもいい」と言い換えるべきですね。
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別段珍しい現象ではないと思います。


歴史的に見ても経済的に豊かな時代は、どこの国、どこの時代でもそう言う風潮が主流を占めています。

貧しい場合には、強固な共同体に所属しなければ生きていけませんから、共同体の存続を最優先するルールのもとに、自己犠牲や助け合いが生まれてきます。そこで生きていく為には、自分がその共同体にとって有益な存在であると言うアピールを常にしていかなくてはならないからです。

全体が経済的に豊かになった場合には、特定の共同体に依存せずに生きていくことができます。言い換えれば、共同体にたいして貢献をしなくても生きていくことができます。

人間に限らず、動物は生きて行く上でしなくてもいい無駄な行動は基本的にしません。ですから、「自分さえ良ければ良し」と言う風潮や行動は、大変動物的に見て合理的な行動なわけです。

日本が何年か先に国家まるごと貧しくなってくれば、また地域などに根ざした助け合いの共同体は自然に復活するでしょうから、心配はいらないと思いますよ。
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こんにちは


自分さえよければいいと考える人間が増えた理由ですが、もともと民衆というものは「自分さえよければ・・・」という考えを有しているものなのです、けれども昔はそのような考えを公然と唱える人間には村八分や私刑等の社会的な制裁が加えられましたし、ごねたところで助けてくれる社会でもなかったので表に出てこなかっただけなのです。
しかし60年代~70年代の闘士の方々の奮闘の結果、国に権利を主張して義務を負わない生き方が是とされるようになったことからその発展系として自分さえ・・・の考え方も肯定されるようになってきました。
今後の日本についてですが、この国が貧しくなり、社会保障が十分に果たせなくなるならばこのような考えを持つ人は減るでしょう、現在の日本は所謂ゴネ得社会ですが、それも不平を言えば最終的に国が尻ぬぐいをしてくれるからです、国が衰退すれば彼らの面倒を看る余力も国は失いますから「あっ、痴者が喚いているね」でお仕舞いです。
ローマ末期の市民と日本人は似ていると誰か言っていましたが、だとすればこの国の行く先も分かるというものです。
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他の方も言われている様に、元々「自分だけがよければ」という本能を、国家が出来たときから、支配者が制度・宗教の強制により封殺してきた訳です。


原始の国家エジプトや中国以来民主主義国家の発生まで、人権などという発想は無く、ひたすら滅私奉公を強いてられきました。
日本でも戦時下の体制はそういった神がかり体制であり、隣組を始めとする相互監視下・密告奨励といった「自分の権利」を主張できる様な状況ではなかった事は明らかです。
その後、敗戦を経て滅私を強いてきた側の我欲が赤裸々になり(上級軍人の物資隠蔽や先行逃亡等)、洗脳されていた人たちは「所詮人間は自分が大事」と言う当たり前の事に気付きました。
その後の経緯はご存知の通りですが、今の人達は政治家・役人の本音をちゃんと見ていますので、その人たちが「無私の行動」示さない限り、自分だけが「無私」である事はこれからも無いでしょう。
「昔は良かった」と言うのは簡単ですが、社会環境の成熟に社会制度の実態が追いついていない訳で、本当の意味で自分達が主役に成るまで、「義務」の「先だし」をしないのは、民衆として賢い選択かも知れません。
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人間関係の希薄さもあると思います。



しかし、バブル期まで豊かさを極めた社会を経て、現在、生活に困っている
人が大勢いるためでもあると思います。藁にもすがる、と言いますから。

質問者の例をとっても、自己破産、生活保護と、言っていることはわがままとしても、実際にある面生活にひどく困窮している方々であることは確かです。医療機関での例というのも、健康に問題があれば、「藁にもすがる」切実な気持ちが分からないでもないでしょう。

世界でトップレベルの豊かな社会の中で、2極化が進み、豊かさと貧しさが入り混じる混沌とした現実の中で、人心が狂うこともあると思います。
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