No.6ベストアンサー
- 回答日時:
司馬遼太郎は嫌いな人を悪く書く癖があります。
それも人が信じるような書き方をします。作家としてのモラル(自分の執筆物の影響性など)がないのだと思うのですが…さて、旅順要塞攻撃に関しては何度か書いているのですが、別の方も書いていますが、元々は陸軍の攻撃計画にはありませんでした。海軍が自ら攻略するということで、陸軍はこの問題に触れることはできませんでした。ですがいざ戦争になると、海軍では攻略できないことが判明しまして、急遽第三軍を旅順に派遣することになったのです。
第三軍司令部は、旅順を逃げ出した中国人労働者などを捕らえ、要塞の全貌を掴みました。その結果、正攻法以外の攻撃方法はなく、要塞線の盲点はニ龍山から松樹山に至るラインであることを掴んでいたようです。そこで、この方面に向けて重砲隊が配置されました。この作戦は攻略に1年ほど必要とする方法なのですが、総司令部及び海軍は早急なる攻略を要求し、決済された攻撃方法を破棄させられ、要塞としては手薄な盤龍山への強襲攻撃を行うという戦術に切り替えさせられたのです。この作戦には2個師団が投入され、第一師団のみは当初の計画通り攻撃を行いました。
第一次総攻撃では、初日に山頂の制圧に成功します。しかし、ロシア側の必死の反撃と支援野砲部隊の弾薬枯渇により山頂の制圧が困難になったため後退を余儀なくされます。ですが、第一師団は予定通りの進出に成功します。
9月、重砲陣地の設置場所確保のため松樹山とニ龍山の砲台に対して集中砲火を浴びせ、高崎山(これは高崎の連隊が山を攻略したため付いた名前)を制圧します。
10月、総司令部の要求に従い、正攻法と強襲攻撃の併用による総攻撃を行います。これにより望台の制圧に成功します。一方、二百三高地への攻撃ルートを確保します。
11月、第一師団が西に動いたため穴埋めとして各師団より志願選抜された中村支隊が編成され、第一師団と第九師団の間に配備されます。また、第七師団の増援が決定します。11月、再度総攻撃が開始され、中村支隊は2キロの敵陣地制圧に成功しますが、敵の対歩兵防御陣地としては最も強固な場所を攻めたため壊滅状態になります。一方二百三高地方面に進んだ第一師団は、急勾配な高地地帯のため進撃が思うように進みませんでした。そこで第七師団を投入します。二百三高地を巡る争奪戦は過酷を極めましたが、ロシア側の戦力が底を尽きまして遂に制圧に成功します。その時点で第7師団は7割の被害を被っていました。
防衛線の縮小を余儀なくされたロシア側は要塞線の放棄を余儀なくされ、更に名将コンドラチェンコも戦死してしまいます。明治38年正月、遂に降伏となりました。
まず勘違いしてはいけないのが、強襲攻撃は銃剣による突撃ではありません。強襲攻撃がその方式になるのは明治43年以降です。日露戦争では銃剣突撃の命令は記録上一度も発動されていません。当時の日本は砲兵と機関砲の支援の下で攻めるが基本であったのに歩兵のみの力で敵陣地を攻略するのが強襲攻撃です。
もし、日露戦争においてもっとも愚劣な日本軍指揮官を挙げろと言われたら児玉源太郎と思われます。旅順での強襲攻撃、攻略が困難な二百三高地への攻撃要求など、現場を知らずに無理難題を第三軍に押し付けたのです。沙河及び黒溝台でも第八師団及び秋山支隊の機転が無ければ日本軍側のラインは崩壊していました。奉天会戦でも第三軍が間に合ったから良かったもののもし間に合わなかったら日本は敗北していました。
No.15
- 回答日時:
◎参考資料(ウィキペディア)
『乃木希典』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8% …
乃木将軍無能・有能論は、ほとんど上記のURLで語られていると思います。
乃木無能論が世間に広まったのは、十中八九『坂の上の雲』の影響であること
は間違いなさそうです。(私自身も、色濃く染まっています)
では、なぜ司馬さんが、『殉死』や『坂の上の雲』で、そのような乃木のイメージ
を広めたのでしょうか。
個人的な推測ですが、司馬さんが小説を書く前は、乃木将軍は『軍神』扱い
でした。世間では、無条件で英雄とされていたのです。
しかし、司馬さんはそのような世間の乃木像にどうも違和感を持ち続けていた
らしく、上記の作品で、英雄でない一人の人間としての乃木将軍の姿を描いた
ものと思われます。
今の私たちはピンとこないかもしれませんが、当時としては大変挑戦的な試みで
あったかと思います。
その後、司馬さんが国民的作家の地位を築いていくとともに、乃木将軍の評価も、
軍神から無能な指揮官へと変貌しました。
しかし、他の方の回答にあるように、無能指揮官は少々厳しすぎる評価かと
思われます。
しかし司馬さんの立場としては、軍神としての乃木将軍像を打ち崩すために、
あえて作品の中でこのような描き方をしたかと思われます。
|ついでながら、物語では特定の人物を引き立てるために、味方であっても
|わざと悪い印象を持たせるような演出をすることがあります。
|乃木将軍が、近代戦の指揮官として今ひとつ有能ではなかったかのように
|作品中で書かれているのは、他の人物(児玉源太郎や秋山兄弟など)を
|引き立てるためにそうしたのでしょう。
|(この特定の味方を貶めて、他の人物を引き立てる手法は、ガンダムや
| エヴァンゲリオンなど、現代のアニメでもよく使われています)
私の評価としては、英雄でも無能でもなく、平均的な軍事指揮官であったと
考えています。
ただ、運はあまりよくなかったようです。
『坂の上の雲』からの引用となりますが、指揮官には能力の他に運も必要です。
連合艦隊司令長官になるまで、有能かどうかよくわからなかった、東郷平八郎
提督と比較すると、乃木将軍の運のなさというものが際立って感じられます。
No.14
- 回答日時:
補足です。
旅順攻撃前、日本軍は敵の防御状態を調べ容易ではないが占領可能と判断していました。
準備した砲兵は野山砲186門、攻城砲194門でしたが要塞攻撃に有効なのはうち12センチ瑠弾砲28門、15センチ瑠弾砲16門くらいでした。
第1回の攻撃に3日間12万発の砲撃を行つた後強襲攻撃をして死傷16000名の損害をうけました。
この時点で大本営より28センチ要塞砲の増援を提案されましたが最初これを拒否したそうです。
後に増援を受け入れ18門の28センチ砲が砲撃を開始したのは2ケ月後の10月1日でした。
その威力は期待どうりでしたが、艦船攻撃用だった砲弾は貫通力は大きいのですが炸薬量が少なく、柔らかい目標では信管が作動せず不発になる事も多かったといいます。 もし通常瑠弾や着発信管があれば旅順攻略はもっと早かったといわれました。
第三軍首脳はこれになんの反応も示さなかったのです。
大本営からは早期占領の催促が相次ぎ、準備不足のまま数次の強襲を重ねジリジリと前進しましたが損害は多大だったのです。
このような損害は第1次大戦で何度も見られましたが
、これは野戦築城の技術が進歩してきた事、機関銃の普及、砲兵射撃の充実と大火力の使用によるものでソンム会戦では仏軍だけで10日間で170万発を費消したといいます。
ヨーロッパはこれを教訓として砲兵重視、重砲化に進み、日本は逆に砲兵軽視、白兵化の途に進みました。
乃木将軍一人の責任ではなく彼は悲劇の人でした。
No.13
- 回答日時:
『坂の上の雲』をお読みになった後、
『明治天皇と日露戦争』という映画(最近DVDになりましいた)をご覧になると、
同じ事象を異なる切り口で書いているので、
少しはご参考になるかもしれません。
自分は丁度同時期にこの二つを見たので、
名将とも愚将とも言いかねるのですが…。
No.12
- 回答日時:
突撃、突撃の繰り返しで死んだ兵士は24、000人とか。
理論的な攻撃はその後だそうです。
戦争ですから死者は出ますよね。
しかし、その数の多さには慄然とします。むごい話しですよ。
日露戦争というと突撃で死んだ兵士の数が先ず頭に浮かびます。
酷いとしか言いようがありません。
No.11
- 回答日時:
こんばんわ。
「明治に名参謀ありて 近代国家「日本」を建国した6人」
著者:三好徹
出版社名:小学館文庫 (ISBN:4-09-403511-7)
発行年月:1999年01月
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30475466
この作品の中に乃木将軍の項はありませんが、児玉源太郎か秋山真之介の項に出てきたと・・・記憶しています。
たしか「愚将」っぽいニュアンスだったと思います。
No.10
- 回答日時:
乃木が203高地に乗り気でないので、
東京から来た参謀が怒り狂い、
対艦砲台の20サンチ砲を持ち出して
強引に突撃命令を下させ、占領させたのが事実です。
乃木は、作戦を有利に進めていました。
203高地の要塞は被害が想像をはるかに超える恐れがあり、最後の最後に包囲して陥落させるつもりでした。
しかし、バルチック艦隊が黒海から出撃した通報を受けた司令部は、
乃木に早急に203高地を落とすよう、催促します。
乃木は苦渋の決断を迫られます。
まだ時間があるので、出来る限り周囲を制圧し、万全の体制を整えようとしますが、
現地の実情を知らない司令部は、203高地攻略開始の催促をひっきり無しに電文で送り続けます。
次第に乃木の思惑通りには行かなくなって行き、
遂に監視役が司令部から到着します。
乃木は遂に203高地の攻略を決断します。
要塞の機関銃を避けるために日本軍は、城壁直前まで塹壕を掘って前進します。
乃木の作戦は、城壁に爆薬を仕掛け、一気に要塞へ突入して機関銃の通用しない状態を作り、一気に蹴りを付けようと言う作戦でした。
しかし、城壁は、想像以上に頑強で、わずかな崩壊のみで崩れ落ちませんでした。
乃木は、この状態で、
「総攻撃を開始せよ。全軍突撃せよ。」
の令を下します。
愚将か名将かは、個人の判断にゆだねます。
No.9
- 回答日時:
日露戦争の10年後の第一次世界大戦では、旅順の戦いを大幅に拡大したような「人間と鉄の戦い」が繰り返されました。
最も典型的な例はソンム会戦です。
http://ww1.m78.com/honbun/somme%20battle.html
旅順の乃木将軍もソンムのヘイグ将軍も、その幕僚とそれなりに作戦を考え、敵の防御を破壊したと信じて突撃を命じたわけです。
乃木将軍が「愚将」なら、ヘイグ将軍は何でしょう?「狂将」「痴将」でしょうか?ヘイグ将軍の例をここで挙げましたが、同じような肉弾戦を指揮し、多数の将兵を犠牲にした指揮官は第一次大戦では多数います。後世からそれほど非難されているわけではありません。
No7・No8の方が指摘されるように、現在の「日露戦争の常識」は、司馬遼太郎の著作に大きく影響されています。そして、司馬氏の乃木司令官・伊地知参謀長に対する評価は厳しすぎる、事実誤認があるというのが実情のようです。
私の知ることは、
1. 旅順戦の前、旅順要塞がどのような状態か、攻略するにはどんな兵力が必要かを把握している人は帝国陸軍にいなかった。恐らく、世界中にいなかったでしょう。
2. 当初の第三軍には、旅順要塞の防御設備を破壊できる砲兵力がなかった。兵力を配分した陸軍中央・満州軍の責任です。
3. 守る側のロシア軍は、「旅順要塞は攻略不能」と考えていた。この考えを覆し、半年で旅順要塞を攻略したのは第三軍です。第三軍は、紆余曲折はありましたが作戦目的を達成しています。
4. 第一次大戦の戦例を見れば、第三軍の損害は法外とはいえない。ロシアが総力を挙げて建設した要塞を、飛行機がない当時に容易に攻略できるわけがありません。
5. 司馬遼太郎氏の著作の中で、旅順戦における児玉将軍の役割は過大評価されているらしい。
No.8
- 回答日時:
乃木将軍はまじめに貧乏籤を引き続けた点、人間としては立派だったかもしれませんが、軍人としては無能のそしりをうけてもやむを得ないでしょう。
彼は日清戦争の記憶のままで、近代戦の知識、認識を欠いていました。
確かに準備不足で近代要塞を攻める立場に追い込まれ、とるべき手段は強襲突撃しかないのでしたが、それが失敗に終わった時、幾つかの選択肢を考える事無く強襲を繰り返すだけでした。
その為膨大な戦死者を生じました。
この手詰まりを見かねた児玉大将が司令官の更迭という手段をとらず自ら参謀長になり、当時移動不可能とされた28センチ要塞砲を人海戦術で移動据え付け、近代要塞を砲撃破壊し、旅順港のロシア艦隊を砲撃破壊するのに成功しました。
このような選択肢を少なくとも見落として試み無かったのは近代戦の知識不足をまぬがれません。
また近代要塞の攻撃に砲弾の不足を生じる補給は当時の国力不足、大本営の無能ですがその改善要求に見るべき施策をとったとは思えません。
砲兵軽視の悪しき風潮はやむを得なかったとはいえ既に台頭していました。
児玉大将は旅順降伏式にも参加せず、乃木将軍に栄誉を譲って立ち去りました。
No.7
- 回答日時:
この議論に関しては、司馬遼太郎の影響が圧倒的に強く、多くの意見が引きずられていると感じています。
中央公論平成16年2月号、に福井雄三氏の論文が掲載されており、その主旨は、野木将軍の戦法は、極めて近代的で合理的なものであった、とされています。
どちらが、真実を表わしているかは、自分には判断できませんが、広く意見を考証して、検討してみることは必要ではないかと思います。
司馬遼太郎ファンには申し訳ありませんが、小説家と学者では、歴史の扱い方が異なると思います。私は、司馬遼太郎の小説は大ファンですが、歴史については、また別の解釈もあろうと思っています。
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