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『「経済」は一体どこまで発展し得るのでしょうか?』
カテゴリー違いかもしれませんが、あえて哲学的な観点から
お気軽にアドバイスいただければ幸いです。

無限? 有限でしょうか?

そしてこの先将来 遠い未来まで、先進国と発展途上国との経済格差はどうなってゆくのでしょうか?

また、発展し続けるとどのようなことが起こると考えられますか?

どんなことでも結構です。あえて、質問テーマから外れていても
構いません(むしろ歓迎します。(^^;)。

しばらく募集いたしますが、お礼も必ず遅くなっても書かせていただきますし、
必ず評価をして、そののち締め切ります。
ですから、気長にお待ちいただけたら幸いです。

A 回答 (15件中1~10件)

 「経済」の発展は、間違いなく近代の大きな核であったことに間違いはありません。

その意味で、先駆的な経済学者たちは、この「発展」という1つのmeta-narrtive(大きな物語)に大きな夢を抱いていたということができます。
 現代の議論では、「経済」が「発展」するという思考そのものに疑問符がつけられています。つまり、「発展」とは実は神話なのではないか?ということです。もう少し正確にいうと、戦後には「発展」といった場合に、それは同時に「経済発展」のことを意味し、そこでの主要な基準は経済成長率でした。
 しかし、人間の豊かさとはなにかが疑問とされ、経済成長率がいくら高くても、巨大な所得格差、エイズやマラリアなどの不衛生な環境におかれること、不十分な教育環境などが保証されていなかったとすれば、それは豊かさといえるのか。こういう問題提起が起きたわけですね。
 人間の選択肢がかぎりなく増大すること。それこそが人間の豊かさではないか。そのことから、1990年代以降はA・K・センによって、「人間発展」という包括的な発展概念が提示されました。
 「発展development」はダーウィン的な進化論的着想に由来する大きな夢です。しかし、その内実はきわめてあやしい。この発展神話は、プラスというよりマイナスをかぎりなく生んでしまいました。
 たとえば、より具体的には環境問題ですね。日本でも過剰な開発は、公害問題という結果をうみました。

 われわれは神話であると知りながら、この神話を引き続き持ち続けなければならないというジレンマに陥っています。というのは、われわれの社会がグローバルな経済体制を構築し、われわれの生活はそれなしに成立できなくなってしまったからです。
 ですから、われわれはある意味で退化したのです。われわれは分業的人間に陥り、いまや全生活的能力をもちえません。経済システムなしでは生きられないのです。ゆえに、どう生きるかですね。

 現代では、持続可能な開発という言葉が出現し、あちこちで使われ始めています。ポスト開発をどう考えるか、それが大きな問題となりはじめたのです。持続可能な開発とは、人間と環境がかぎりなく調和できるシステムの構築を目指すものです。
 かつての開発思考のみの環境問題などの問題を抱えた開発は「持続できない開発」です。つまり、やがてわれわれの基盤を破壊し、やがて人類そのものを破滅へと向かわせるものです。
 持続可能な開発はこれに対置するものです。あくまで理念的にはですけどね。

 先進国と途上国の経済格差は解決しえません。しかし、それを手放すこともできません。大きなジレンマではありますが、人間の叡智が存在しつづけるかぎりは、希望を捨てる必要はありません。

 
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 きっと、(サイボーグ化等を通じて)人間の体質として取り込まれていくのではないでしょうか。

そして、家畜や作物などを通して、自然界へも取り込まれていくと思います。
 経済は、内在すると言う形で、生物を内的に支配する性質として、自然法則の一部になっていくと思われます。
 
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僕が乾いていたときに、誰かが水をくれました。


その上、喉が渇いたら、其処へ行くと良い。と言って、水の湧き出る所まで教えてくれました。僕は二度と乾きたくなかったので、教えてもらった水の湧く場所から、離れたくありませんでした。すると友は、何故ここに水が在るのか、それを説明してくれたのです。
 水は、循環しているのだと。しかも、生き物の体内をも通って。
 それで、僕は水の湧く所を離れても、再び、別の水の在り処にたどり着くことができるようになりました。物に即するのではなく、知を伴って生きることで、より安全に、より自由に、より易く生きれるようになりました。
 この、水の在り様を教えてくれた友を、「知」と呼ぶことにしました。彼は、人の、野性の時代のトラウマを、癒してくれる者だったのではないでしょうか。
 
 もし人が望むなら、経済もそのように、(水が循環するように、)循環するようになるのでしょう。「環境」と言う、「共有知」を持つことで、立場や国を越えた、経済圏が確立すると予想します。
 人々が、大富豪から、普通の人に、普通の人から大富豪に、そのように富(水)の場所を移動することはあっても、望まない貧しさを強いられることは、減って行き、そのうちなくなるという方向を、目指します。
 
「利権」と言うダムが、「環境」という循環の基に、変身してゆくと予想します。
 森もあり、海もあり、湖もあり、地下水脈や川も在る。洪水も起これば、雨も降る。経済は、そのような、水の循環をモデルとした形に近づいていくと思われます。
 只のポンプではなく、それぞれの暮らしに合った仕事で、十分な生活を営んでいくようになるのでは。仕事に合わすのではなく、仕事を、自分たちに合わす、そのようなライフスタイルになってゆくでしょう。人が経済を巡るのではなく、経済が、人という環境を、巡るのだから。
 
 只、唐突でしかも無関係ではありますが、
 注意を一つ、申し上げれば、
 どれ程現状が良かろうと、悪かろうと、
 危機は常に、其処に在るもの。
 機会もまた、同じようです。
 
私は、それは何者だろうと、心の隅に、それをいつも、抱えております。
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てんやわんや、話しても話しても埒が明かぬことは唱って仕舞いにしてしまえと、楽な方へ楽な方へ、私という愚昧な回答者は流れてしまうようです。

前回の嘆願から、幾らの時間もたっておりませぬが、さあ、唄い始めと参らせていただきます。
 
 大きな神社の境内や、鎮守の森に住まう、ルンペン達の青テント。
それらを見ては、ああはなりたくないなと、思いながらも、空虚な気持ちで、地下鉄の入り口へと吸い込まれてゆく。
 管理されることで得れる安心よりも、その安全に不自由を感じてしまう昨今の人であるから、何の保障も持たぬ彼らルンペンを、うらやんだりする気持ちが、嘘偽りとは程遠い実感として、支配された心を,カラカラと嘲る。
 その笑い声は、恐るべき浸透圧でもって、問い直せ、問い直せと、今改めて、その生き方を問い直せと、真実潜む深山幽谷より、花咲く野を越えて、自動改札を通るたびに、繰り返し木霊する。
 
 けして、野人の頃に戻りたいと思っているわけではない。野性の優れたるに、心を馳せることはあっても、その不安、戦慄に、舞い戻りたいとは思わない。我々が、文化人の振りをし続けてきた、野人であるに過ぎないと、思うことはとても儚く、無為である。
だが今、野ざらしの文化人には、嘘偽りない、友が必要だろう。
 
続く。
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気づいてみれば、考察も多岐にわたり、何を順に述べたらよいのやら、文章定まらず、不安になりまして、時間の猶予を求めに上がったしだいでございます(^^;


もうしばし、回答を考える時間を下さいますか。
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またお邪魔します



最近働いていて感じた事があり、その視点から・・。

ここ数年いろんな経済はグローバル化しています。
つまり競争相手が増えた上にその競争も熾烈になりどこよりも早く開発をして売り込む事が必須になっています。

そのため各企業内では高い効率性を求めるような動きが出ています。
その一方で労働基準法などの点から労働時間は増やすことはできません。
結果、労働者に対しては2重に高効率な労働を求められています。
それでも今はみんなタバコやコーヒーを飲む短い時間に息抜きをすることができていますが、それもいつまで許されるか判りません。

恐らく将来(10年後とか)は常時最高効率で休み無く(昼休みは除きますが・・)業務を進めなくては競争に負けるような世界になるでしょう。
実際はある程度コンピュータやシステムの改善で単純にそうならないかもしれませんが、人手でないとできない業務はなかなか簡単には自動化できません。
また、上記のような高効率な業務をこなせる人は働ける年齢の人口の中でどの程度の割合を占めているかどうか。
実際最近精神的に今の社会に追付いていけない人の割合が増えているような気がします。
今後景気が回復すれば少しは改善されるかもしれませんが好景気不景気を繰り返しながら高効率化は増していくと思います。
上記の極限を取ると幸せになる人は限られると思います。

そういう視点からも今のままの経済システムはそう長くはないと思います。
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まえがき・お言葉に甘えさせて頂いて、内容は少しばかりずれるかもしれませんのでお許しください。


経済の発展とは即ち、技術や生産によって国際関係で優位に立てる、権力が大きくなる、というようなものと捉えられます。その根底には「能力」「金」「地位」という、人間の理性を主として導かれたものがあります。その中で、人間の愛というのは虚しく、時には弾圧され、また時にはこよなく美しいものとされます。法律で規制するのは「事実」だけです。「高瀬舟」って知っておられますか。あれは、兄弟愛によって一方は殺され、一方は流刑(か死刑か)になります。また、自分は悪気がないのに、相手が取り違えて法律沙汰になることがあります。それらは全て、法律の「事実」の規制と、いわば「被告人」の精神的な面のギャップなんですよね。ここで話を戻しますと、経済で重要視されるのは、事実的なことがらですよね。それには果てがなく、ひたすらその道を続けることも可能です。技術を重ね合わせ、また現象の根本を考え、「生活水準を向上させるための理論」という名の下に、社会はどんどん「理性的」になっていきます。人々にはどんどんストレスが募り、それが「愛」を奪っていきます。それを危惧して、法律はさらに規制を掛けます。そして人々はさらに…、というように、それをひたすら繰り返します。人間には際限がありますから、理論上、この繰り返しに終わりはありません。「経済中心」をやめさせるには、どこかで人間が、今行っている理性中心社会をストップさせなければいけないんです。でも人間が理性をなくすということは不可能です。従って、人間は経済の発展、科学技術の発展、法規制の整備、そういうものをずっと続けることになります。ですが、それが程度を超えると、そういった「進歩」は速度を緩めることになります。なぜなら人は人でありたいと願うからです。それは即ち、愛も、能力も、金もある生活を送りたいと思っているからです。
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経済は人間が作った言葉なので、人間が存在する限り続くと思います。


先進国と途上国の格差は、途上国にきっかけ(読み書きやインターネットによる思想の開放とか??)と歴史上に残るような人が出てきてくれた時に急速に縮まってくるのではないかなぁ~と思いました。
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お邪魔します、回答が止まってしまいましたね、私のせいではないでしょうが、


気になるところです。適当な回答に丁重なお礼を頂、少し考えてみました。

哲学カテでの例の「村上ファンド」のように「限りなく黒に近い」質問、私、好きなんですね。人のことは言えませんが(笑。
ただ、お礼を拝見しても、経済発達つまり、経済成長を哲学するのは「黒です」(ご質問者様はこの程度のレトリックで怒られないと信じて書くのですが)。
経済成長は経済学の概念ですから、それをそのまま哲学することは難しいのではないでしょうか。
経済学は、個別の科学として、その目的も、方法論も、多くの積み重ねがあります、市場での経済活動の活発化が成長の指標とするのは、全く間違っているわけではないでしょう、何しろ、合理性と効率を追求するわけですから。
ただ、経済学の中にも、この辺りを批判する人はいます。例えばポランニーは『人間の経済』(この本は人間の暮らしと訳したほうがよいかもしれませんが)で市場経済だけが経済ではないことを強調していました。
しかし、これはあくまでも経済学又は社会学でしょうね。
哲学が経済学から権利を受け取るものは、経済学が証明の不可能性により断念した、下方の限界と、経済学それ自体に対する批判の、(上方の限界)二つの限界点の外にあるような気がします。

こんなこと書きながら、自分のことを棚にあげて、この回答が諸刃の剣となって、私の喉元に迫ってきますね、やばいやばい。

最後に経済学批判をひとつ。
「質の問題を量の問題に変換して、その結果、いろいろな問題が出てきたからといって、別に驚くこともないだろう。」ベルクソンはこんな事は言っていません。
生きることは、量ではなく質ですよね。失礼しました。
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ここに二つの世界があります。


ひとつは、存在と非存在の間隙を跳躍し、ひとまず、存在した以上、自然の法則に従い、運動を続ける物質の世界です。
もうひとつは、生命と言う物質が持つ、主観と言う観念の世界です。観念の世界は生命の認知ニッチ(これ言いにくいですから以下、認知の幅と言い換えます)に規定されて、種によって大きく違います。人間と言う種にも、ほぼ共通な認知の幅を持っており、他人と観念を共有する事が出来ます(程度問題ですが)。この観念の主観は認知の幅による袋のような物で、決して他人の袋の中に入れる物ではありませんが、言語や感情表出又は行動を通じて、同じょうに考えていると想像する事ができるのです。経済の成長はそういった袋の中の出来事です。しかし、観念だけで胃袋は満足しません。人間は物質の世界に働きかけ、自分の認知の幅の中の袋に沢山の物を入れようとします、物質の世界には作用反作用の法則など、確固とした法則が有りますから、人間の働きかけにより物質の世界も影響を受けます。しかし、物質の世界が受けた影響の中で、人間の認知の幅の外で起きていることは、理解できません。理解できない事は語る事も出来ません。

久々の「お伽噺」でした、無限か有限か?そんなこと分かりませんよ(笑。
書きっぱなしで、失礼します。
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この回答へのお礼

こんにちは。

この度は貴重なご意見をありがとうございました。

学の無い私には難しい言葉もございましたが、
分かりやすい例を挙げていただいて助かります。
・「認知ニッチ」(←確かに言いにくいですね~。)(^^;

『世の中金(かね)だ』とか、『金(かね)で全てが解決する』と言う言葉が
存在するように、お金と言うものはこの世に多大な影響力を持っていると思われます。

もし、アラブの石油王や世界の資産家達が申し合わせて世界中の金(きん)を
高額で買い漁ると言った場合、当然我々庶民の目の前から金(きん)は姿を消し、
膨大な量の金(きん)が彼らの前に集まるでしょう。

ですが、それは地球規模で見れば金(きん)と金(かね)がただ単に
地球上を移動したに過ぎない・・・とこう思うのであります。

もちろん金(きん)は、「まだ地中にあるよ。」、「まだ海の底に沈んでいるかも知れない。」
と言うようなご意見を排除して、
絶対量が決まっていると言う、あくまでも地球規模でのお話です。

そこを行くとむしろ「有限」(経済活動には限度が見えてくるように思われますが)
その点についてはいかがお考えでしょうか?

確かに「宇宙開発」と言うものまで視野に入れれば、まだ未知の星が無数に
広がりを見せているわけですから「無限」かも知れないと考え、
ご質問させていただいたまでです。

人間には多かれ少なかれ「欲」があり、その飽くなき探究心、開発力こそが
現在の産業、経済を支えているわけですからそれは「無限のエネルギー」を秘めて
いることは間違い無さそうですね。(^^;

大変参考になりました、お時間ございましたらまたご意見、補足など何でも結構です。
お話を拝読させてくださいませ。

お礼日時:2005/12/10 13:10

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