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先日、イギリス人で音楽業界に勤めている友人に聴いたのですが、YMOが「世界進出」してレコードを出し欧州ツアーをした事は知っているが当時、欧州で彼らのレコードを聴いたりレコード店でアルバムを買った人間は皆無に等しいと教えられました。
また、あの「世界進出」というのは、当時のTVやレコード会社が彼らを売り出すために仕組んだことで、当時のイギリスの音楽業界の情報が、雑誌などの活字媒体と一部のマスコミに限定されていた為、それを逆手に取った情報操作の側面があるというのです。(つまり「やらせ」ということですが。)
長年、当時(80年代)のYMOは音楽シーンの最先端にいたと信じていた自分は本当に驚きでした。
まあ、世界進出ということ自体に基準はないと思いますが、彼らのファンとして少しショックです。(ランキングチャートだって少ない枚数で頻繁に入れ替わる状況は知っていましたが。)
彼らは本当に「世界進出」し世界中のアーティストに影響を与えたグループだったのでしょうか?
事情がお判りでしたら教えて下さい。

A 回答 (4件)

たしか少なくとも2回(連年か隔年か忘れました)ワールドツアーを行って、ヨーロッパからアメリカへと渡っています。


当時、ロンドン、パリ、NYでの映像が中継で日本に入ってきていました。

1回目のワールドツアーでは、レコーディングに使った音源をそのままライブに使ったためか、アルバムのような重ね取りした音にならず、固くて細いシンセ音でとてもチープなライブでした(このライブは日本で発売されましたが、日本でかなり音をかぶせています)。
2回目のツアーでは、ライブ向けに音源を変えたのか、かなり聞きやすい演奏になっていたと思います。

影響を与えたかどうかですが、実際には一部の強烈なテクノファンやミュージシャン、関係者のあいだで話題になったというほうが正しいかもしれません。
ドイツのクラフトワークと比して、ソリッドステートサバイバーのような音に深みのあるテクノサウンドは、当時のテクノファンには「聞いたことがない音だ」と言わしめました。

実際にはヨーロッパなどでは、YMOがヒットチャートに一時現れてもすぐに消えたのではないでしょうか。

NYでは三宅一生も招いてファッションショーもすこしとりまぜ、司会に芳村真理をたてて東京までライブ中継していましたが、あのときの観客は業界関係者ばっかりだったと思いますし、日本向けのライブという感じでした。

ただ日本にありがちなお膳立てのステージばかりかというとそうでもなく、実際に一般向けのライブを小規模~中規模ホールで行いつつ各国を回っています。

またポールマッカートニーがYMOが英国に来たとき実際に会っており、「わたしもあなたたちのようなサウンドをつくりたい」と言ったとか。
実際にその後ボーカルが少ない、へんてこなテクノっぽいアルバムを出しました(マッカートニーファンには不評だったそうです)。

ライブ会場には当時のテクノ系だけではなく多くのアーティストがかけつけています(ウルトラボックス、フライングリザーズ、ジャパン、ブームタウンラッツ.etc)

のちに日本で解散コンサートを行うことになった当時、来日していたABCという英国のグループのドラマー「デビッド・パーマー」がYMOの大ファンで、解散を聞き来日中にグループを脱退し、YMOの解散コンサートのドラムを担当したという逸話があります。
これはたぶん高橋幸宏が半分冗談で、叩いてみない?と誘ったのが、本人大真面目で、この機会を逃したらYMOと共演できないと脱退までしてしまったのかもしれません。

坂本龍一も世界のサカモトといわれてはいますが、10数年前にソロツアーをヨーロッパで行ったときも、会場はかなり小さいところが多かったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
知らないこともお書きいただき、勉強になりました。
友人が一番強調していたのは、イギリスの音楽業界の多様性には何も触れず、あたかもYMOがオリジナリティーのある音楽性で欧州を席巻したかのように報道したメディアの偏向性と閉鎖性でした。
コンサートでもPAなどにラインが繋がってなかったそうですし、実際に演奏したのは、幸宏さんくらいだったかも知れないとのことです。
業界的には「変な東洋人グループ」というカテゴリーのみで注目されていたとは、少し悲しかったです。

お礼日時:2006/01/07 23:32

#3です。


そうそう、当時の影響で1つ書くのを忘れていました。

マイケル・ジャクソンからBEHIND THE MASKを自分のアルバムに使いたい。しかし歌詞も変えアレンジもしなおすので、ライセンス料は通常の50%しか払わない。
と申し出があったそうです。

当時から気が強く自信家だった教授は、そんなんなら使わせないと申し出を断ったそうですが、その後出されたマイケル・ジャクソンのアルバムは全米1位・全英1位になった有名なスリラーだったと思います。
ラジオ番組で、こんなに売れるアルバムなら曲を提供しておけばよかった、どぼやいていたのを覚えています。

しかしその後に再度提携することにしたのか、まったく違う英語の歌詞をつけたマイケル・ジャクソンのBEHIND THE MASKもリリースされました。
メロディーそのままで、英語の歌詞がぴったりはまったかっこいい仕上がりになっています。
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この回答へのお礼

この曲知ってます!かっこいいですね。これを友人に聴かせてみようかな。でも、いまさらマイケルジャクソンでもナイカナ・・・・。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/01/07 23:37

「電子音楽・イン・ジャパン」のリンクを貼り直します。


↓が現在入手可能です。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757208 …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
早速、読んでみます。

お礼日時:2006/01/06 20:59

少なくとも、ファイヤークラッカーの知名度は高いでしょう。


今でも、好んで掛ける有名クラブDJが多数いますから。
海外の配給元が米A&Mでしたから、欧州では若干影響力が弱かったのは否めないと思いますが、当時の全てのエピソードがやらせだとは言い切れないでしょう。
「フュージョン・フェスティバル」で世界発売が決まったという話は嘘だったらしいですが、
http://sound.jp/dbymo/history1978.html
トミー・リピューマが関わったのは事実だという事を、昨年発売された「70'S」という本で当時のアルファ・レコード関係者が語ってました。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/07157709
当時の事情は、「電子音楽・イン・ジャパン」という書籍にも詳しく書かれてますので、ご一読されてはいかがでしょうか。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757201 …

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

トミー・リピューマが関わっていたとは初耳でした。どうゆう関わり方なのか判りませんがワーナーMの大物なのでもしかしたら、アメリカへも進出できたかも知れませんね。でも、「エブリシングバット・ザ・ガール」の様にはずしかも知れませんね。

友人からは当時の電気音楽(古くさい言葉ですが)の愛好家には、「クラフトワーク」と「ディーヴォ」の美味しいところを頂いた曲が多くまるでオリジナルが感じられなかったように聴かれたそうです。
当時の関係者のなかで現在の日本のマスコミで「ブロードキャスター」(?これも意味不明なそうです)なることをされている某人物も現地ではまるで無名な方のようですね。

補足日時:2006/01/06 21:14
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