10代と話して驚いたこと

古代の九州には大和朝廷とは別の王国が存在してて、遣隋使を派遣したのは実はこの王国だという話を聞きました。
日本の歴史書では抹殺されているけど、中国の歴史書にはそれを裏付ける記述があるそうです。
もしこれが本当として九州の王国の遺跡とかは発掘されているのでしょうか?
またいつ頃どうやってこの国は滅びたのでしょうか?

A 回答 (5件)

九州王朝が存在したとされるのは3世紀から7世紀というのが古田武彦氏の主張であったと記憶してます。


九州王朝説の最大の問題点は「考古学的成果とまったく一致しない」という点でしょう。
この時期の大型古墳は畿内に集中しており、数も大きさも九州と畿内では圧倒的に畿内の方が優勢です。
もし本当に九州に王朝が存在し、畿内までをも支配に置いていた、あるいは畿内と九州で別の王朝があって対立していたというのであればこのような古墳の分布にはならないはずです。
また前方後円墳という特異な形状でなおかつその比率までもがある程度の基準に基づいて築造され、それが本州・九州までも広がり、その最大規模の古墳が畿内に存在するという事実は九州王朝説を成立しがたくしています。
九州王朝説は「九州王朝存在説に不利な資料は、ことごとく排除し、有利な資料は些細なことでも取り上げる」ということで成立している学説のようです。
もし本当に九州王朝が存在していて遣隋使まで派遣していたのだとしたら九州の古墳に高松塚古墳やキトラ古墳のような壁画があったしかるべきだと思いますが、九州の壁画抽象的な絵画と模様がほとんどです。
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 もともとは江戸時代の国学者が唱えた説だったと思いますよ。



 最近では、歴史作家の関裕二氏がこれを活用して自説を展開していたと思います。『卑弥呼はふたりいた』『封印された邪馬台国』とかそういう本だった気がします。個人的にはかなり面白かったです。
 また大和岩雄氏の『邪馬台国は二カ所あった』もそうだったと思います。うろ覚えですが。

 吉野ヶ里遺跡は有名ですね。
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古田氏の九州王朝説はそれなりに肯ける点もあり、古代史に一石を投じたものです。

お読みになると面白いですよ。
ただ高校の教師だった経歴からか、イデオロギーに引きずられる面があるのが"一寸"と思っていました。
案の定、反皇国史観の「東日流外三郡誌」なる偽造文書を本物と信じて擁護して学会から消えてしまいました。

ただ「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』から始まる九州王朝説は奇妙な説得力がありますね。こんな説も有ると言うことで一読をお勧めします。
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「失われた九州王朝」 古田武彦


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043252 …

を読んで下さい。あいにく絶版ですが、図書館で見つかるでしょう。

大化の改新から壬申の乱のあたり、日本書紀を基にした現在の歴史では理解しがたい所があります。例えば
「日本はなぜ百済にあそこまで肩入れし、朝鮮半島に出兵して唐・新羅と戦ったのか」
「朝鮮半島で大敗北を喫したのに、日本にはあまり損害がなかったようだ。なぜ?」
など。

「九州王朝」説では、
「遣隋使を派遣するなど、日本の代表者と認められていたのは九州王朝。タリシホコというのは九州王朝の首長」
「九州王朝は百済と密接な関係を持っていた。百済を助けるために出兵したのは、大和王朝ではなく九州王朝」
「九州王朝は、朝鮮半島での大敗北の損害から立ち直れず、大和王朝に併呑された」
といったことが唱えられています。「いつ頃どうやってこの国は滅びたのでしょうか?」の答は、「白村江の戦いの後」ということになるでしょう。

「タリシホコ」を巡っては、隋の記録と日本書紀の記録が矛盾だらけで、私は中学の時に「どう考えてもおかしい」と疑問を感じました。その後、九州王朝説を知って、このように考えれば辻褄が合うのかと感心したことを覚えています。

「もしこれが本当として九州の王国の遺跡とかは発掘されているのでしょうか?」
九州には、古代の遺跡がたくさんあります。それが「九州の豪族/大和王朝の出先」の遺跡ではなく「九州王朝」の遺跡と考えれば済むことです。

なお、九州王朝説とは、「日本書紀はウソ、九州王朝の記録は大和王朝によって抹殺された」ことを前提としています。そして、日本の古代史についてのほとんどの情報は、九州王朝説が否定する日本書紀をソースにしています。

ですので、本質的に証明困難であり、「正史はこうなっているが、九州王朝の存在を仮定すれば辻褄が合う」と言う以上のものにはなり得ません。
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あくまでもひとつの説です。

(内容については書ききれませんので古田武彦氏の著書などを読んでください。)
独立した王朝であったと言うことが明確な遺跡はありません。
滅びたのは、朝鮮半島への出兵で国力を消耗し、大和政権と争そって磐井の乱(日本書紀等では乱だが、この説にたてば九州王朝と大和王朝の戦争)で負けて、大和政権のに組み入れられたということになります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

なるほど遺跡は今のところ発掘されてないんですね。
やはり大和朝廷に破壊されたのでしょうか?
しかし九州に王国があった事が後世に伝わると不都合なのでしょうか?

>大和政権と争そって磐井の乱(日本書紀等では乱だが、この説にたてば九州王朝と大和王朝の戦争)で負けて

つまり磐井は大和朝廷の地方官ではなく九州の国王だったんですね。

お礼日時:2006/02/11 15:20

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