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こんにちは、よろしくお願いします。
今年に入ってから、ぼちぼちとキリスト教会に通っているものです。
ところで、私は同性愛者です。聖書の中に、何箇所か同性愛を禁ずる記述がありますが、
現在ではキリスト教から見た同性愛者への見解はいろいろあって、全てのクリスチャンが同性愛を前面拒否しているわけではない、と認識しています。
そこで質問なのですが、現段階で私はまだ洗礼を受けていないのですけれども、所属教会を決めるにあたって、その教会の同性愛者に対する考えというものは、知っておいたほうがいいでしょうか?
私としては、前述のように、クリスチャンの間でも意見が異なっている、ということは、私にとって都合よく考えるとすると、神様は同性愛を拒んでは折られない・・・・と考えるわけですけど、
もし所属教会が同性愛に対して批判的な考えを持っているとしたら、私は彼らから自分の罪(彼らにとっては)を隠し通すことになるか、あるいは告白したところでセクシャリティの変更を求められることになるわけですよね。
「別に、自分の見解としては神様に認めてもらえているのだから、教会の牧師さんになんと言われようといいではないか」と考えるか、
「教会の牧師さんが拒否されるということは、神様からも拒否されるということなのだろうから、この協会に所属するのはやめておいたほうがよい」
と考えるべきか・・・・皆様の判断を聞かせてください。

A 回答 (11件中1~10件)

こんにちは。

回答になるかは定かではありませんが、聞いて下さい。

わたしはクリスチャンです(導かれた教会はバプテストといって、プロテスタントの所です)
でも、信仰のさなかにいるのに、同性の方が好きになってしまいました。
書の記述の中にはそういう傾向を良しとしないととれる文章があって、読むたびに、ううシビアな。。。と悩んだこともありました。
また、牧師さんが団塊世代なのか、異性同士の恋愛が当たり前とお考えの方なので、言い出せずにいます。
でも、わたしが黙ってても神様はお見通しな訳ですし、どこにいたって、それは変わらないので、導かれた教会に通わせてもらっています。
唯一、牧師夫人には話していて、「わたしはそれまで人に対して心のそこから一緒にいたい。愛おしい。と思ったことがなかったから、神様が良い相手と引き合わせてくれるだろうと思っていて、それは異性とばかり思っていました。でも、この気持ちはなんですか?主のお考えがわからない……」と、躓いているのは承知で正直に自分の気持ちを言いました。
そしたら、夫人は「神様のお考えは、人間には全てを理解することは大変難しいけれど、神様から頂いた愛で、私達は誰かを好きになる、大切にしたいと思うから、それは感謝なこと。私や牧師(夫)にはそういう愛の形は経験したことがないからわからないけれど、私達の罪の身代わりになってまで私達を愛して下さる方を、信じさせてくれたのも神様。何かを与えて下さるのも神様。それに感謝することを忘れないことがクリスチャンにとって大事」と、言われました。

しばらく考えて主にまかせることにしました。
宇宙に在る物全てをつくったのも、原罪から贖ってくれたのも、わたしにそれを信じさせてくれたのも、いろんな物事を通してわたしを成長させてくださるのも、主なる神様。聖書に、主の贖いを信じた者を主は守って下さるとも書いてあるので、今わたしが行っていること、思っていることを、神様が良しとされなければ、絶対にたちゆかなくなるでしょう。でも、もう相方とは付き合って3年になりますし、割とうまくいっているので、今はそれを素直に感謝することにしています。もしも、主の意向で、この関係が断念せざるをえないとなったときも、主にあって、感謝の気持ちを持てるように。。。でもわたし、この気持ち、一番あなたに祝福されたいです神様……とも、お祈りしています。

長くなってしまい、すみませんでした。
あなたの信仰生活が主にあって良いものとなりますように。
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私の経験から参考になればと思いコメントさせて頂きたいと思います。


私は某カミングアウトして教会を開いている唯一の牧師さんに洗礼を受けました。もちろんその教会では同性愛者もいましたし、異性愛者のかたもとても理解の有る方々ばかりでした。

ただ、それはとても「特殊なパターン」だと最近では感じています。
最終的には牧師・神父さんの考え方、教会員が次第という事だと思います。

主様はカミングアウトした上で教会生活を送りたいのでしょうか。
そうであれば、宗派問わず理解のある教会を探すのがもちろんいいと思います。それはおそらく困難も伴うでしょう。
ただ、私も「理解の有る教会は絶対に存在する」と信じています。

私はその同性愛者の牧師さんの教会から離れてしまいましたが、主様と同じようにセクシャリティの面で所属教会を今探しているところです(実家の田舎に帰ってきたので)

私はとにかく居心地がいい(これは同性愛者としてではなく、クリスチャンとしてです)教会を見つけるのが先で、有る程度なじんできたら牧師さんに打ち明けてみてはいかがでしょうか?

その時の対応で考えればいいと思います。

お互いゆっくり、焦らず頑張りましょうね。
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私の個人的な意見です。


1.人を愛するのに性別は関係ない。
2.夫婦でないもの同士が肉体関係を持つべきではない。
3.結婚は異性とするものである。
です。

キリスト教は神様と自分が個人的な関係を持つものです。
どのようなことでも
本当に変更すべきことであれば、神様があなたを造りかえるので、
誰かが非難しても(それが牧師や先輩クリスチャンでも)
あなたが無理に変更しようと思わす、
ただ神様を信じて祈り、
身も心も主に委ねていればいい、
というのが私の考えです。
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わたしは、クリスチャン(男性)です。

新約聖書のパウロの手紙のどこかに、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように・・」といった言葉があります。相手の立場にたって考えることの出来る牧師や信者に出会うことができればいいですね。
大事なことは、聖書の言葉を、きまり(律法)としてとらえることではありません。そんなことをすれば、「~しなさい」と言う言葉に振り回されてしまいます。
人間の罪はとても深く、自分自身でも気づかないものです。聖書には「正しい人間はひとりもいない」と記されています。同性愛が善か悪という判断基準ではなく、自分のいろいろな苦悩と向き合って、イエスキリストにゆだねてください。私も罪深い人間です。でも、イエスさまの赦しを信じています。
いくつかの教会の牧師と面談かメール質問でもいいかもしませんね。
良い出会いありますように。
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この回答へのお礼

こんにちは、お返事を、ありがとうございました。

質問を投稿させていただいてから、一年がたちました・・・結局のところ、牧師にも教会員にもカミングアウトはせず、当時と同じ教会に通い続けています。
そして実は、来週の日曜日ペンテコステに受洗をすることになりました。
牧師や教会員の皆さんが、ky7さんが書かれているように、「人は皆とても罪深いのですから、皆でイエスさまの赦しを信じて一緒に祈っていきましょう」と、暖かく迎えてくださったから、あえてカミングアウトをすることをせず、この教会で受洗をすることに決めたのです。

ご回答を頂いた皆様、本当にありがとうございました。

相変わらず私の肉の部分は欲深さを弱めていないのですけど、今後、どうか神様の御心にかなうように私を作り変えてくださるよう、そして神様のご計画のために私をもちいてくださるように、心からお祈りをささげたいと思います。

お礼日時:2007/05/20 14:42

聖書の読み方にはいろいろあるので、参考までにとどめていただきたいのですが、聖書は女性同性愛を否定してはいません。

現在、一般的な意味での同性愛について言及しているのではないのではないでしょうか。

例えば

正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。(パウロの「コリントの信徒への第1の手紙」6章9節、10節)

のように、聖書では男性同性間のセックスだけが否定されているのです。少なくとも女性同性愛についての記述は(私の知る限り)ありません。

私は、この記述を「同性愛の否定」とは考えていません。男色という言葉は、快楽だけを求めるセックスを表現しているのであって、現在の同性愛(男女問わず)のように、結婚と同様のパートナーシップと愛情を育む関係に言及しているのではないと考えるからです。

この解釈を、質問者さんはどう思われましたか?
質問者さんの解釈はどのようなものですか?
質問者さんの解釈に近い教会があれば、そこを訪ねてみるのがよいでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
私も、聖書の戒めている行為は、あくまで不貞な行為であって、同性同士のパートナーシップまで否定するものではない・・・・と、今では考えています。
何箇所か、新約聖書の中で男性同性愛を戒める記述のあるところがありますが・・・・たまたま先ほど、「テモテへの手紙1の1章10節」を見ていたのですが、新共同訳、新改訳ともに「男色をするもの」を戒めている箇所なのですが、英語訳のNKJVでは「sodomite」との記述になっていました。このsodomiteという単語は、ジーニアス英和大辞典によると「男色者、獣姦者(←なんと大雑把な訳でしょう。そもそもこの訳自体も、聖書のソドムの住民の乱れた様から来ているのですよね・・・・なんだか、てきとうな言葉の使い方だなあ)」となっていましたが、原著の記述もそうだとすると、日本語訳をした人は、なぜ男性同性愛者に限定して訳したのでしょうか?また、英語訳のTEVでは「sexual perverts」、これは「性的倒錯者」といったところでしょうか、そんな訳し方がされているんですが、性的倒錯=男性同性愛者という解釈も、とても差別的で短絡ですよね。実際に聖書の原著でどのような記述がされているのか、調べていないのでわからないのですが、なーんか、もう世界的に、歴史的に、聖書がいろいろな人の手を渡り歩く中で、多くの人の差別意識が茶々を入れているような気がして、ならないのですよ。
たとえば、もしコリント人への手紙の中で、パウロが本気で同性愛者を非難していたのだとしても、本当に神様の本意が同じであったかどうか、もしかしたら、パウロ自身に差別意識があったのではないか、というとらえ方も、出来なくはないですよね。
私の友人の同性愛者には、聖書を読んで「神様がおれを拒んでいる」と思い込んで手首を切ってしまった人がいます(助かりましたけどね)。本当に、神様がそんなことを望んでいたとは思えないですよね。

・・・・などと、熱く語ってしまって、申し訳ありませんでした!
「私の解釈に近い教会があれば・・・・」とも思いますし、本当に神様の本心がどうであるか・・・・知りたいですね・・・・。
長々と、申し訳ありませんでした。今後とも、よろしくお願いします!

お礼日時:2006/05/14 21:59

神様にそって生きることを志したのでした。



信仰とはこの事を意味します。
そして極端な書き方をすれば洗礼なんてまあどちらでも
(お叱りをうけますが)
本当に教会にもいかないクリスチャンも数多くいるのも事実だし、アメリカでは同性愛者のための教会もあるという事を聞いたことがあります。
結局聖書の中のヨハネ3:16が基本になり
あなたが生まれ変わった。生まれ変わりたいという事で
あるならそれでいいと思う。
またこの教えは教会と信者ではなくあくまでも
神とあなたの契約であり、私たちにはわからない。

結局あなたが神を信じているならそれでいいと思うのだが・・・
あくまで神を求めること、これが信仰です
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この回答へのお礼

遅くなってしまい、すいません。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/05 10:43

キリスト教はあなたが考えているほど性的にいい加減な宗教ではないと思います。

聖書にも明確に同性愛を禁じることがかかれています。カトリックでは同性愛を明確に否定しています。アメリカのプロテスタントは異常な考え方をする教会が多数ありますので、同性愛を肯定する教会もあります。しかしながら、聖書の書かれていることと真っ向から否定する行動をしても、救われることはないでしょう。

信者とはキリストの教えを信じる者達ですので、その教えを信じない者は洗礼を受ける意味が無いのではないでしょうか。

結局のところあなたが本当にイエスキリストや聖書を信じているのか、自分の行動を肯定してくれる団体を探してくれるだけなのかの話になると思います。本当にイエスキリストを信じているのでしたら将来自分が苦しむことになると思いますので、今の状態で洗礼を受けることは考えなおしたほうがよいと思います。
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この回答へのお礼

遅くなってすいません、ありがとうございました。考えてみたいと思います。

お礼日時:2006/04/22 09:24

結婚していないパートナー同士は寝てはいけないのか。


まず聖書的な話からはいりますね。
聖書は2つの側面があります。
聖書を額面どおりとる方法、そしてその中の意味を考える方法。
私は神ではありませんので裁く権限もありません。
ただ聖書のどこの聖句を中心に考えるのか?
それは私が決めるのでもなく、牧師が決めるのでもありません。
あなたが聖書を詳しく噛み砕き、祈り考えていくのが
いいと思います。(旧約聖書から)
基本的には神様はあなたを変える事も出来るお方です
だからまだ決めないでください。

祈りと聖書を読む習慣を持ちましょうか?
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この回答へのお礼

遅くなってすいません、ありがとうございました。考えてみたいと思います。

お礼日時:2006/04/22 09:23

まず本当に神を信じたいのか?救われたいのか?動機は?


ここが問題じゃないかな?

この回答への補足

こんにちは、お返事を、ありがとうございます。
私がキリスト教会をたずねたキッカケは、三浦綾子さんの「細川ガラシャ夫人」を読んだことでした。「つらい人生であっても、そのつらさをありがたいと感じて生きていく」生きかたに、強く惹かれたのでした。
そうして、はじめは自分が楽になれることだけを中心に考えていたのですが、聖書をよみ牧師の説教を聴くうちに、自分が如何にこれまで、自分中心の恥ずべき生き方をしてきたか思い知らされました。またあたかも生まれてからこれまでの私の人生をつぶさに見つめてきたかのような、そういった私の問題点をズバリズバリと指摘されたことから、これからの人生は神様を信じて、少しでも正しく生きていけるように・・・・そう考えて、神様にそって生きることを志したのでした。
ただ、「男と寝てはならない」なぜこのようなことをいわれるのか、この言葉にぶつかってから、私は悩んでいます。なぜ、愛するパートナーと寝てはいけないのか。男性同士ですから、結婚は出来ません・・・・なぜ結婚していないパートナー同士は寝てはいけないのか。
私の解釈は、こうです。聖書の中で、性的な行為について戒めが書かれている部分は、額面どおりにとるべきなのではなく、その意図したところは、「とにかく、本当の愛を伴わない不純な性行動は行うな」ということではないかと。
つまり、聖書が書かれた時代に、「愛し合う同性同士の性行動」というものは、清純な愛の形として認識されていなかったことが文面に表れたのではないかと。
そうでなければ、同性愛者は神様の下で、どのように暮らしていけばいいのかわかりません。愛する人とけして結ばれてはいけないというのか。それとも、自分の気持ちを偽って異性と愛をはぐくめというのか。
私たちの全てをつぶさに設計された神様ともあろう人が、そんな考えをお持ちだとは、到底思えないのです。
神様を信じています。
ですから、人が聖書を読み解くときに、あるいは神様の言葉を記録したときに、人の側でどこかで間違いがあって、同性愛者が否定されているのではないか・・・・と今の私は考えています。

補足日時:2006/04/03 20:40
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仏教と違ってキリスト教はルールに厳格ですよ。

とくにカソリックは。
自分が一方的に神に認めてもらったから、、、という事は通用しないでしょう。
教義を確認して選択すべきです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2006/04/03 20:15

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