聖職者叙任権闘争に関して
中世ヨーロッパにおいて、聖職者(司教や修道院長など)を任命する権利を、皇帝が持つのか、教皇が持つのかで闘争や戦争になっています(最大の事件がカノッサの屈辱)が、いずれも教皇と神聖ローマ帝国の皇帝の間で行われています。
聖職者の叙任の問題であれば、他の国、フランスやイギリスなどでも有ったはずです。
なぜドイツ(神聖ローマ帝国)の問題だけが、大きくクローズアップされる事になったのでしょうか?
イギリスやフランスでは、そのような問題は起こらなかったとすれば、それはなぜでしょうか?
回答(4件)
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No.4ベストアンサー10pt
聖職叙任権闘争、という言葉自体が固有名詞に響くから誤解が生じるのかもしれませんが、2さんのいう「聖職叙任権闘争を普遍視する」視点は有効だと思います。ウィキによればイングランドでも...
↓ The English investiture controversy of 1103–1107
この回答へのお礼
ありがとうございました。
私も色々調べましたところ、イギリス、フランス共叙任権が問題となったようです。
叙任権問題の突端は、フランスのクリュニー修道院のようです。
フランスで火が付きましたが、シャルトル司教イボーの解決策で、フランス、イギリスでは、問題が拡大しなかったようです。
ドイツ、イタリアの場合、各種の問題から、イボーの解決策が導入できず、混乱が拡大した事が判明いたしました。
#1です。聖職者叙任権闘争は普通、カトリック圏でのドイツ皇帝とローマ教皇の権力闘争の問題で語られます。
これはローマ教会がビザンチン帝国から独立するために、カール大帝が時のローマ教皇から西ローマ帝国の帝冠を授けられたことからはじまるのですが、当初は皇帝の力の方が優位でした。それから実際の神から由来されるという皇帝の権威が、現実的に教皇の権威に基づくものなのか、あるいは皇帝が教皇の権威を補償するものなのか、という卵が先か、鶏が先かというケンカが聖職者叙任権闘争です。
ドイツ皇帝とローマ教皇にとっては、お互いの権威の正当性を賭けた、利害が正面衝突する死活問題です。
しかしイギリスやフランスなどの国王の場合は、ドイツ皇帝からすれば、あくまでも形式上ですが臣下になりますから、実際のところ蚊帳の外であります。ドイツを牽制するためにフランス国王が教皇を支持したり、裏で動いていたということはあると思います。ただイギリスやフランス国王にとって叙任権というものは、上で述べたとおりドイツ皇帝ほど切実な問題ではなく、表立って教皇と対立するような性格ではないからだと思います。
<叙任権闘争>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%99%E4%BB%BB% …
この回答へのお礼
ありがとうございました。
質問の後、私自身色々調べましたところ、イギリスやフランスでも叙任権問題が有った事が判明いたしました。
むしろ、フランスの方が、ドイツより先に問題となった形跡があります。
フランスの場合、シャルトル司教のイボーという人が、解決策を出し、問題が大きくならなかったようです。
イギリスも、イボーの解決策で、問題の拡大前に手が打てたようです。
イギリスやフランスでも起こりましたよ。
叙任権闘争というのは結局、主導権争いということなのですが
イギリスの場合は、ヘンリー8世がイギリス国教会を作って
カトリック教会と袂を分かちますよね?
あれも単なる離婚問題ではなくて、
その背景に教会VS王権という戦いがあるわけです。
ローマ教皇に従いたくないという思いは
フランスにもあって、アナーニ事件と、
アヴィニヨン教皇の誕生がまさにそれにあたります。
共に、絶対王政の時代になって王権の方が
衰退する教皇権に勝るようになったことからこったことで
以後も教皇権は衰退の一途。
30年戦争が終わる頃には、教皇もイタリアの一領主以上の
影響力は事実上はもたなくなります。
大分裂が解消するコンスタンス宗教会議の後も
フランスでは叙任権の一部が国王に認められ
大司教の許可があればローマ教皇の承認を必要としなくなります。
世俗権力と宗教権力の戦いなので
別に皇帝に限った話ではありません。
「聖職者叙任権闘争」という用語は11世紀前後の出来事を
さしていますが、対立構造は普遍的な問題ですからね。
名を変え、形を変えて存在します。
↓ ちなみにナポレオンが登場する遥か前に
教皇の宗教支配は終わっていました。
またよく誤解されますが
神聖ローマ帝国はナポレオンが解体したわけではありません。
神聖ローマ帝国を解体したのはオーストリア大公でもある
皇帝フランツ2世自身。
もちろんそれ以前に帝国は有名無実だったので
解体はオーストリア自身による国内改革の一環だったわけです。
オーストリアの立場から考えると
ナポレオンと敗戦はきっかけに過ぎず、
近代化には帝国を解体して中央集権化するのは
避けて通れない道でした。
この回答への補足
質問の意図を勘違いされているようですから、補足します。
当時の修道院や司教は、独自に財産や領土を持ち、実質的に諸侯化していました。
諸侯としての聖職者に、皇帝や国王に忠実な人間を叙任することは、皇帝・国王の権力伸張におおいに役立ちます。
であれば、当然イギリスやフランスなども同様の事を行い、王権の強化に走り、教皇との対立を引き起こすはずです。
ところが、叙任権闘争は、皇帝と教皇との間でしか顕在化していません。
それはいったいなぜなのかが、私の知りたい事です。
簡単に言えば、イギリスやフランスの君主が単なる王であるに対して、ドイツの君主がカール大帝による西ローマ帝国復活以来の伝統を受け継ぐ、カトリック圏全体の世俗支配者である「皇帝」だからです。ドイツ君主以外「皇帝」の称号は名乗れません。
聖職者叙任権闘争は、カトリック圏での世俗支配者である皇帝と宗教支配者としての教皇との権力闘争です。
そのシステムを解体したのが、ローマから教皇を呼びつけて自ら「皇帝」を僭称し、神聖ローマ帝国を解体したナポレオン・ボナパルトに他なりません。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
ただ、私が一番疑問に思ったのは、諸侯化した当時の司教や修道院長などを、皇帝や国王に都合の良い人物を任命し、国王や皇帝の権力を強化しようとするのであれば、当然イギリスやフランスでも同様の動きがあってしかるべきだと思います。
それが、なぜ無かったのか?
国王達が協力すれば、後の教皇の権力伸張は無かったはずです。
なぜそれが無かったのかを知りたいと思いました。
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