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こんにちは。
いつもお世話になっております。
哲学に関しての質問です。皆さんの意見を聞きたいです。

今、哲学の時間で「事実と解釈」についてディスカッションをしています。そこで疑問に思ったのは、事実って一体何なのか?真実とは違うのか?
「事実」というのは、確実で一つしかなく大衆に「真実」と認められている事柄だと自分は感じます。「真実」に関しては、人の数だけあるんだと漫画の様な解釈をしてました。例えば、AさんがBさんをマイケルジャクソンだと信じれば、AにとってBがマイケルである事は真実というように。それをだけどこれって…「真実」というより「信仰」ですよね。じゃあ、やっぱり「事実」も「真実」も同じモノ??「真実はいつも一つだ!」と某キャラクターが言っているし。「事実」も一つだよね?

段々、文章が崩れて申し訳ないです…
簡潔に言えば「事実」と「真実」の違いを教えて欲しいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

歴史は研究者の研究結果により絶えず塗るかえられています。


これぞ本当の歴史の真実としたところで、またもや別の研究結果により、今まで真実とされてきたものが真実ではないとなります。


事実と真実。
前者は起ったできごとを対象としており、後者は概念を対象としたものではないでしょうか。

AさんはBさんをマイケルジャクソンだと認識している。
彼の行動・言動から彼がBさんをマイケルジャクソンだと認識しているのは<事実>です。

しかし、何故彼がBさんをマイケルジャクソンだと認識しているのか。
その何故彼一人だけがBさんをマイケルだと認識しているのかを探るのが<真実>の探求だと思います。


他の人と違う認識をしてしまっている原因は、情報がごく限られているからなのか、別の情報を得ておりそれによってBさんはマイケルだとなっているのか、それとも脳の認識器官に問題があるからなのか、何かの固執した感情の抑揚からか、それとも別の理由か?

真実を探らないと解明できませんが、問題はこの誤認識とも思えるものが、他者に多大な危害を加えたり社会不穏を引き起こしたりしない限り、その真実を解明しようとする人が現れないわけです。

そして、誰かが彼のこの珍しい特徴に対しすごく興味を持って研究し、彼が他の人と違う認識をする原因はこれかと真実と思えるものに到達したとしても、それが完全で決定かというと、まだ疑念の余地は残ります。

例えば過去の出来事が起因して誤認識していると結論づけたとしても、その法則とは相容れない状態が出てくる可能性もあるわけです。

いつまでたっても真実には到達できないわけですが、少なくともBさんをマイケルと認識しているという<事実>は決定することが可能です。


真実は一つか?
それぞれの人びとが得られる情報の量により真実とされるものが変化します。
しかし、どんどん情報を蓄積すればそれだけ細かく分類できることになり、やがてかなり近い真実に到達するのではないかと思います。
ただ、人間って忘れるし、分類を間違えてしまうことも多々あります。


一番怖いのは思考の停止です。
自分の都合のいい情報のみに囲まれて暮らすことは平穏なのかもしれませんし、これが真実だと決定したとしてもそれは一時的なもので、やがてホコロビが出てきます。
その時が思考の再開の時で、限定の中の真実では人間は満足しないんですね。

懐疑的になるというより、自分は完全を掌握できないものであると認識しておれば、さらに思考はめぐりよどんだ川は息を吹き返し、一つと思える真実に近づくのではないかと思います。

それは万人にとっての共通のものであるべきで、限られたものだけが限られた情報の中でのみ成立するごくごく狭い限定という条件がつかなければ成立しない、あるいは、存在できない真実ではないと思います。

パースという人はこう言っています。
「自分を正しいと思い込む病気ほど、確実に知的成長をとめてしまうものはない。100人の良識ある人の99人までが、そういう病気でダメになってしまう。しかも奇妙なことに、彼らの大半は、その病気におかされてしまうことに気づいていないのだ。」

彼が打ち出したものは可謬主義です。
さらに彼は「真理は公共的あるいは社会的性格を持つこと。真理は探究するひとたちの同意によって確立されるのであって、同意なくしては、真理はありえない。」

これもやがて同意されたものが、後にホコロビが生まれる可能性を内在しているわけですが、可謬主義は頑固に誤りだったとなったものを誤りじゃあないと固執し続けないんですね。
それだけゆとりがあるので思考停止を容易に解除できてしまう。
誤まるのを畏れていたら何もできませんし、それを拒絶するため頑固の砦を築いて立て篭もって思考停止をやったところで、それはそれでしあわせなのか・・・
私にはわかりません。
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#7ですが、私はここはあえて「マイケル」について考えるべきだと思いますよ。



哲学は科学です。宗教ではありません。

「マイケルは白い」
これは事実です。いまや疑いようがありません。
「マイケルは白人である」
これは事実ではない。誰でも知っています。
「マイケルは黒人である」
これ事実です。誰でも知っています。

じゃあ、真実は?
「マイケルは黒人だが、わざと肌を白く変えている」
「マイケルは黒人だが、自然に肌が白くなった」
のどちらかです。

さて、どちらでしょう?
「真実はいつも一つだ!」
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真実と事実のどちらも「本当のこと」です。

では何が違うかというと、「重み」とか「崇高さ」とかではないかと思います。つまり、事実は身の回りの「本当のこと」、真実は簡単には得られない重要な「本当のこと」。

例えば「Aさんは人を殺したことがない」という「事実」がありました。ところがある日、Aさんに殺人の疑いがかかり、逮捕されました。そして何年もかけて裁判が行われた結果、Aさんの無実が証明されました。こうなると「Aさんは人を殺したことがない」は「真実」と言っていいと思います。

逆に、天動説が信じられていた時代に地動説は「真実」だったかもしれませんが、科学が発達した今となってはただの「事実」と言っていいでしょう。


事実とは本来100%客観的に語られるべきものかもしれません。でも現実には、何らかの解釈や判断が入っても事実と言えます。
例えば、今日の最高気温が30度だったら、「今日の最高気温は30度だった」は間違いなく事実ですし、「今日は暑かった」も事実といえると思います。
でも、今日の最高気温が25度だったら「今日は暑かった」は、暑がりの人には事実かもしれませんが、暑さに強い人には事実ではないでしょう。「今日は結構暑かった」だったら事実といえるかも。

真実も事実も本来は一つのはずですが、人の解釈や判断によって多少のゆらぎは出ると思います。でも、その人だけの真実というものは、ほとんどその人の思い込みに過ぎず、本来の意味の真実ではないと思います。
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>真実」に関しては、人の数だけあるんだと漫画の様な解釈をしてました。


そのとおりだと思います。
それにしてもすごく有意義な授業を受けてらっしゃるのですね、羨ましいですね。

私のイメージですが、
事実もそのまま受け入れれば「真実」となり、
また捻じ曲げればそれも「真実」となると思います。
真実は神のみぞ知ると思います。それは悟りであるべきと思います。
これは私の宗教観というかなんというか、生きている限り「それ」は見れないと思うんですよね。自分なりの真実を見つけるのが人生と思っています。
また私は特定の宗教を信じていませんが、教えという事実を信憑性をもたせ「真実」に昇華し(無理やりに)、信者に絶対的な価値観を持たせる意義が宗教のひとつの形でしょう。

その授業のように、「ひとつの事実」については様々な「真実」がディスカッションされます。
たとえば恋愛が間違えやすいですよね、事実か真実か。
恋におちれば誰でも思う(であろう)「この気持ちは本当に真実の愛なのかどうか?」でも恋愛している者にとって恋をしてワクワクしたりモチベーションがあがったりするのは「恋の真実」に関連ない「事実」でしょう。
でもたとえば恋している原動力で仕事や趣味へのパワーも相乗効果で功をなしたらそれはそれで別の事実、真実を
失恋してもそれが自分の栄養となれば自分(真実)を向上させた、恋という要素は単なる「事実」になりうる(成り下がる?)かもしれません。
また他の誰が見ても哀しい恋であるのに本人にとっては一世一代の最後の恋と思っているのなら真実の愛でしょう。
今絶賛公開中の「嫌われ松子の一生」という映画、あのコピーも「不幸って何?」ですが、松子にとっては事実はどーでもいいんです。あれほど悲惨な恋愛遍歴は真実の恋愛じゃないなどと訳知り顔で評価するお茶の間評論家もいるでしょう。
でも松子は自分がどう感じたかという自分にとっての絶対値=真実なのです。
一般論というのがありますよね。私は関係ない第三者がそれを振りかざしていかにも「真実を説いてやっている」と主張し、弱い者いじめする奴が大嫌いなのですが、ラクに寄りかかれる力学のようなもので真実の顔を纏っているようなのだけれども案外お茶の間評論家でしかないのかも。

日常的に事実も真実ごちゃまぜになって私たちに提示してくる。あなたはそう思っているかもしれないが、私はこう思っているというささいな議論も壮大なテーマが付随している。考え方の違い、それが社会という構成要素でしょう。

私にとってこの「事実」と「真実」の相違とは、「有」と「無」の違いだと思います。

「事実」は神様がこの世に転がせたパズルの一片のようなもの。
絵の完成に向けてどの「一片」を拾って絵を描くか、それは「人」の自由であり完成された絵は「個性」「人生」などと称される象徴的なものであると思います。
その絵が絵描き当人にとって真実ならば、それはそれでいいのだと思います。1000ある事実の中から100ある真実が生じたとしてもそれを絶対的な「1」と決めるのは神様でしか存在しないと思います。もしかしらその1000コすべてが真実と言われるかもしれませんが・・・。

宗教は「自家の真実」こそを唯一無二のものとして考える傾向があるように思えますが(有史以来今だに絶えない宗教戦争が証明しているように)、だとしたら他家の真実が絶対とされている限り、真実は限りなく
(それも限りなく胡散臭いものも含む)あるということになりますよね。
「私が信じるもの(宗教)こそ唯一絶対の真実」と信じている限り、他の思想は拒否している。ひとつの真実を否定しているわけですから他の可能性をそこで拒否しているわけです。もしかしたらそこにこそ自分が求めていた真実を手にすることができるのに!?

だからというわけではありませんが、
「真実」は「信念」と言い換えることができると思います。
これが「真実」という答えがすでにそこにあればそもそも人は自分の生をまっとうしていないかもしれません。宗教もいらない、仕事も勉強する意義も自分を生きるという意味すら失われる可能性があるかもしれない。そんなひとつの答えで人がそれぞれ自己完結していれば、(ビジネスとしての)救済手段としての宗教も存在していないでしょうし・・・。

真実ってある意味怖いと思います。
哲学やら形而上学やら、抽象論にソクラテスの時代から答えを模索されることを求められてきた証に、真実は何であるかという答えが見つかった時点で、人はただの肉塊に至るから・・・。

「事実」は星の数ほどあり、
「真実」は自分にとっての北極星のような指標のようなもの
星を指さす自分もひとつの事実でありまた真実の体現者でもあり、
そのいずれを指標とするかは星が導く座標に立たされた自己により、
それは宇宙の無限のように限りなく自由である意思

というイメージです。
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哲学用語には普段使っている同じ言葉の感覚とずれがあって混乱することががよくありますね。

(主体、実存、現象・・・など)

「AにとってBがマイケルである」
Bがマイケルではないのならこれは”真実”ではありません。
しかし、それでも
「AはBがマイケルであると信じている」ことはまぎれもない”事実”です。

ではなぜマイケルではないBをAはマイケルだと思っているのでしょう?
その説明、そして実はマイケルではないという証明、それが”真実”です。

真実も事実も、「Aにとって~」というふうに考えるべき言葉ではありません。

宇宙がなぜあるのか、どうやってできたのか、どういう形なのか、これからどうなるのか、”真実”はまだはっきりわかっていません。

でも宇宙が存在することは誰でも知っている”事実”です。
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『人間は相対的にしか見れない。



だと思います。

我々は真実を見ているのではなく、共通了解をすることで成り立っていると思えます。


例えばAさん。
彼の子供から見れば『父』です。
彼の奥さんから見れば『父』ではなく『夫』です。
彼の奥さんから見れば『家庭を省みない夫』です。
隣の奥さんから見れば『勤勉な夫の模範』です。
彼の同僚からみれば『真面目すぎて融通がきかない男』です。
彼の上司からみれば『信頼できるが、慎重すぎて会社を成長させる戦力にならない男』です。
彼の仕事の取引相手からみれば『遅いが確実に仕事をする男』です。


このように相対的にしかみれません。

これが国際問題になると、生命が危ぶまれます。

例えば日本からすれば『イラクは大量破壊兵器を持っている【可能性】のある国』でした。

アメリカからすれば『イラクは地下に黒いダイヤが眠っている国』です。

この黒いダイヤを取り出すにはどうしたらいいか。
一つの共通了解を作り出せばいいわけです。

『イラクは大量破壊兵器を持っており、これを押さえないと世界は危機的な状況になる』

これによって、イラクは戦争をしかけられ乗っ取られつつあります。

真実はどこになるのか?
真実は必要とされているのか?
正義はどこにあるのか?
正義は必要とされているのか?

結局 利益という基準により、真実 つまり共通了解はコロコロ変わるのか?

共通了解は真実なのか。

誰が真実を知りえる能力があるのか?


となると人間は相対的にしか見れない。

では神は真理をみれるのか?



いえ、それ以前に人間は相対的にしか見れない、だから絶対的(真理)な存在があったとしてもを見れない。

永遠に人間は真理を見れない。

が、絶対的存在になったとき見れる。

が、そうなったとき、すべてが一つになり他者が存在しなくなる。
絶対的な存在になりうることがあったとき、この世は消滅する。
誕生と消滅は一つだから。
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こんばんは。



>「事実」というのは、確実で一つしかなく大衆に
>「真実」と認められている事柄だと自分は感じます。
>「真実」に関しては、人の数だけあるんだと漫画の様な解釈をしてました。

厳密に言うと事実は複数あります。

いくら客観的な事実といっても、
ほとんどの場合主観に基づいているハズです。
確実に一つというのは無理でしょう。

AがBを殺したのが事実なのか。

AがBを殺したのをみたとCが言っていたのは事実だが、
AがBを殺したのは事実でない。

AがBを殺したのをみたとCが言っていたと
自分が思ったのは事実だが、
AがBを殺したのをみたとCが言っていた事実はない。

どこかで誰かがどの解釈が正しいか、
主観に基づいて判断しない限り、事実は存在しないのです。
裁判など、どれかに一つに決めなければならない状況なら、
おおかた多数派の意見で決まるでしょうし、
それを広い意味で客観的とよんでいるだけで
確実で一つというものでもありません。


厳密に言うと真実のほうも複数あります。

目の前に梨が一つあるとしましょう。
Aは"黄色い梨"だと思う。
Bは"オレンジ色の梨"だと思う。
Cは"肌色の梨"だと思う。
多数意見というのはほぼ常に存在しますが、かといって
どれが真実かどれが事実かと問われても困るでしょう。

ようするに言葉の表している範囲が人それぞれ違う以上、
誰にとっても、いつも正しい答えというのは、
そもそも存在しないのかもしれません。

例えば、天動説の時代、人々が
自分から見て円のように動くものだけをさして
『回る』といっていたなら、
地球の周りを太陽が回っているのは、事実かつ真実です。

行くことなどできない太陽からの視点など、そもそも
『回る』と言う単語の意味に含まれていなかったとすれば、
むしろ、地動説を受け入れた瞬間に、
『回る』と言う単語に新しい意味が加わって
意味が変わってしまったと見るべきではないでしょうか。

実際、太陽は宇宙の中心でもなんでもないので、
別にどっちが回っていると考えても自由のはずです。
太陽が中心のほうが、いろいろ計算が楽でしょうけれど。

>簡潔に言えば「事実」と「真実」の違いを教えて欲しいです。

事実は多くの人が容易に正しいと思える事柄。
真実はそれぞれの人が正しいと思う事柄。

くらいの差しかないと私は思っています。
事実も真実も正しいかどうかの証明ができない点では、
同じですね。

と勝手な意見を述べてみましたがどうでしょうか。
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一発で三億の精子。

何万発のうちの一発の、そのうちの一匹。
何の因果か、二人の人間がかち会って、ありえない事ながら、宇宙に生を受けてしまった。これは事実。
だけれどなんでか、ありえなさで埋め尽くされたこの世界の、最もありえないことを奇跡と思う。これは、真実っぽい。
真実の現れることがどれほど稀有であろうとも、己のありえなさの奇跡を思うなら、負けることはない。己の存在の分母に、一億の上乗せなんて、さほど難しいことではないね。たぶんね、酔っ払ってても勝てる。
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この回答へのお礼

daremominaさん、回答ありがとうございます。
物分りが悪い自分なので、最初は意味がよく理解出来なかったのですが、何度か読み返してみると「あぁ、なるほど」と思ってしまいました。確かにそういう見解もアリですね!
参考になりました。

お礼日時:2006/06/10 19:15

事実はfactであって客観性を必要とします。

真実はtruthであって主観的なもの=観測者or解釈者を必要とします。
「この文章は九文字だ」は事実ですが、「この文章は例としては短い」は真実かも知れませんが事実ではありません。
信仰を例に挙げておられましたが、正に宗教的理解はその人にとっての真実です。(事実はどうか分かりません)
ある事象に対する事実は一つのみ、真実は観測者ごとに一つずつあります。
天動説は中世の人にとっては真実でしょうが、事実は異なっていました。私たちは地動説が事実であり真実だと分かっています。
このように事実と真実が一致する場合も形而下の世界ではあるのです。「この文章を読んでいるあなたは生きている」は事実であり真実でもあります。
某キャラクターのセリフもこのケースなら良いのでは?即ち「AがBを刃物で殺害した」が事実で、Cが殺害したように見えるのはD警部にとっての真実、しかし「(読者も納得でき事実と矛盾しない)真実はいつも一つ」なのでしょう。(そうでなければ売れませんし)

話が少々逸れましたが「事実と解釈」は不変の事実が各人の解釈を経て真実に変化する興味深いテーマですね。是非実りのあるディスカッションになりますように。
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この回答へのお礼

やはり真実は主観よりのもので、事実は客観よりなのですね。
短い文章の例はすごく理解しやすかったです。
哲学は、考れば考える程、ゴールが遠くなっていく科目で頭が痛くなってきます(笑)ありがとうございます、頑張ります(^^)

お礼日時:2006/06/10 19:10

しんじつ 【真実】


(1)うそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また、そのさま。
(2)〔仏〕 絶対の真理。

じじつ 【事実】
(1)現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。
(2)〔哲〕 時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。

これで言えば、事実とは実際に起きた事象(物理的な結果のみ)を示す事であり、真実とは感情や変化も含めての事象(経過も含めた結果)となるのではないでしょうか。
事実(物理現象)に対して真実(理由とそれに至る心理的変化など)は関わる人それぞれが持っていますが、某主人公の台詞は犯人に対しての物でしょう。そうするとつじつまが合うのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど…。確かに、台詞が犯人に対してのものだと考えるとつじつまが合いますね(笑)
すごく参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/06/10 19:05

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