本能寺の変で明智光秀が信長を討ちますが、その後の山崎の戦で羽柴軍に敗れます。
大義名分では主君の仇討ちの秀吉に理がありますが、軍勢の数にかなりの差があります。細川、筒井、高山など、光秀の頼みとしていた武将はことごとく秀吉方に付きます。光秀は謀反人ですが、当時、信長に反旗を翻していた勢力もかなりあったはずです。
各武将はお家の行く末を案じての決断だとは思いますが、秀吉と講和した毛利は別として、その他の反信長勢力を糾合できなかったのでしょうか?
11日天下として、上杉、長曾我部など援軍を集められなかったのでしょうか?丹羽長秀は大坂にいたそうですが、四国征伐には行ってないでしょうか?
No.2
- 回答日時:
確か光秀はその11日間のほとんどの時間を
朝廷との工作に当てていたはずです。
朝廷の権威を背景にいっきに求心力を
集めるつもりはあったと思いますが、
秀吉の中国大返しによって
時間的に読み違えてしまい敗れてしまいました。
No.3
- 回答日時:
本能寺に向かった殆どの軍勢が、
敵が織田信長であった事を知らなかったと思います。
また、多くても、光秀の家臣の2~3人しか謀反を知らなかったと思います。
なぜならば、信長に通報する人間がいなかったからです。
この結果、
打倒信長が主目的になり、
同盟、通報は二の次になりました。
また、前もって各大名にツテを持つ努力も、
秘密が漏れるのでしていません。
筋から言えば、
大名が、ただの1武将の命令を聞くのはおかしいです。
これは、石田三成も大きな誤算を生みました。
主君のあだを討つので味方してくれ。
または、
お断りは本筋と存じます。
その代わり、主君のあだを討つ、この間手出し無用で願いたい。
そう本筋を通すのは、その後の後見物争いでも
冴えています。
信長の葬儀を取り仕切り、
柴田勝家を大いに焦らせます。
(出陣させる時期も雪解け時期と分かる。)
筋の逆用もやってのけ、憤激させる。
ほぼ思惑通りに人を動かせた人間らしいです。
こいつにかなうと思った時点で負けたでしょう。
ヤバイ家康には、下手に出て気持ちよくくすぐり
味方に付ける。
病死するまでほぼ無敵モードでした。
No.4
- 回答日時:
まじめな光秀は織田信長、信忠打倒によって
権力の空白状態を生み出し、騒乱を抑えるための治安維持の為に軍勢を裂かざるをえなかった。
(秀吉は軍勢全て引き上げている。)
それと明智光秀の最大の敗因はナンバー2が居なかった。
戦略・戦術・外交と全て光秀一人の頭でやっていた。
作戦を任せられるほどの信頼できる優秀な部下が居なかった。
いくら良い作戦が出来てもそれを実行できる能力が組織に備わっていなければ全て机上の空論。
教訓になるいい例です。
山崎の合戦にしても羽柴軍は弟の羽柴秀長が先に山崎に着いて防戦して秀吉の本体到着まで持ちこたえている。
羽柴本体は味方を回復させ天王山と淀川南から挟撃して秀長によって疲労した光秀軍を撤退させている。
羽柴は部隊を交代させて戦ったのに、
光秀は最初から最後まで連戦させられ疲労し戦線の維持が不可能になり撤退。
家康には譜代の四天王が居る。
徳川ナンバー2は本田正信が居た。
残念ながら光秀には戦略、外交等を相談したり任せられる部下が居なかった。
筒井、細川等、光秀の部隊の有力軍団は半数が織田信長から貰った大名ばかり。
固有の軍団を持っていなかったのが敗因ではないでしょうか?
ここは柴田勝家、石田三成も同じ。
一人で頑張るには人間の限界が来る。
光秀軍の行動限界を感じたからこそ誰も味方にならなかったのではないでしょうか。
それと光秀の器量の限界を知られていたのではないでしょうか?
王としては良かったが、覇者の器ではなかった。
丹羽・信孝の軍勢は織田信長の死で離散しました。
元々信長が雇い主であって雇い主が死ねば居る義理は無いですから。
仕官だけでは戦は出来なかったのでね。
反対に秀吉ほど自身と相手の行動限界を看破出来た人間は居ないでしょう。
ただ、家康も羽柴秀長の死で崩壊していく豊臣組織を見て、行動限界の重要性を思い知らされたのではないでしょうか?
No.5
- 回答日時:
当時はテレビ中継ありませんから、首の上がっていない信長の死をどうやって確認するんでしょう?本能寺で戦闘があったことすらも確認しがたいことです。
万一生き延びていたら、光秀に加担したら大変なことになります。信長に逆らった松永弾正、比叡山、石山本願寺、荒木村重の悲惨な末路は皆さん骨身にしみてます。
また、信長だから言うことを聞いて、光秀総大将で戦うんであって、光秀から言ってきたからって、言うこと聞くわけ無いじゃないですか。(本能寺の直前に平定した信濃を任された川尻という武将は信長の死を確認したとたん、軍を解散してます) だから光秀は天皇を取り込んで、勅命という形で言うこと聞かせたかったんじゃないですか。
山崎の戦いも秀吉軍は弱く、中川清秀という武将の活躍が大きかったようです。しかし、清秀は秀吉を成り上がりものと見下してしまうので、いつの間にか滅ぼされてしまいます。滅ぼしてしまえば、文句言えませんから、自分たちで勝ったことにしとけばいいんです。
また、光秀についたのも、信長の父の代から織田家と戦っていた斉藤利三等美濃の武将たちが中心です。光秀はその中でも勇猛な「さまのすけ?」は安土城へ向かわせます。信長が四方に武将を遠征させていたのと比べれば、1箇所と少ないですね。主力は京に残していた方でしょう。
No.6
- 回答日時:
光秀の能力は自ら発想するものではなく、ただ命じられた事を忠実に実行するのに費やされ、全体像の把握やそれに向かう戦略を立案実行する事に馴れていませんでした。
本能寺の乱もそれに先立ち信長から近江、丹波の領地を返上させられ、その年の収入を奪われ代わりの敵地を攻め取らねば無収入となり文字どうり窮地にたたされた結果で、それも先見の明があれば予測出来た筈の範囲でした。
信長としてはこうすれば必死で毛利に攻め込むだろうと考えての処置だったので少数の護衛だけで京都に宿泊したのです。
この為事前の準備もなく、秘密保持の為、味方を募る暇もなかった挙兵でした。
光秀の軍団に着けられた高山や他の部隊は与力として信長に命じられて光秀の指揮を受けるだけで臣下ではなく有力な部隊を率いる細川藤孝や筒井順慶は姻戚というだけでした。 彼らは急変した事態に戸惑い日和見せざるを得なかったのです。
軍の動員は当時でもかなりの時間を要した筈です。
上杉や長曽我部は遠隔の地で呼びかけにも時間が必要でした。
大阪に集結していた丹羽長秀の四国攻め軍団は、光秀の娘婿の津田信澄を謀殺しただけで動きがとれない状態でした。
時間との競争でしたが秀吉の中国大返しが急速だったのが全ての誤算の始まりでした。
秀吉には大義名分があり味方を糾合するに便で、しかも近畿は信長の勢力範囲でした。
短時間で大兵力を集め、必勝の態勢で光秀に向かったのです。
これに対し孤立無援の光秀は兵力も分散して配置せざるを得なかったのです。
No.7
- 回答日時:
他の回答者さんも挙げられているように、光秀にとっての最大の誤算は、やはり想像を超えた秀吉の動きの速さだったでしょう。
当時の通信交通能力では、たった11日間ではほとんど交渉らしい交渉は無理でしょう。ただ、私はたとえ1ヶ月程度の余裕が有ったとしても、やはり光秀の政権奪取は難しかったのではないかと思ってます。下克上が珍しくなかった戦国時代とは言え、陶-大内や斎藤-土岐、松永-三好などのように、謀反を起こす側は家来の中の最大勢力で逆に謀反される側の主君は落ち目の場合が普通です。また、謀反前には出来るだけ有力部下勢力を見方に取り込み、可能な限り近隣の敵対or同盟勢力とも話を付けておきます。逆に言えば、このような下準備がうまくいかなければ、謀反に踏み切れないわけです。従って、通常は謀反を起こした時には、大半の家来達には予定どおりの事件でスムーズに謀反者の支配下に合流、小数の主君派勢力にとってのみ青天の霹靂で、謀反側に合流するか抵抗するかの決断を迫られるというのが筋書き。
ところが、他の回答者さんも指摘されているように、このケースは、主君の信長は少々暴君とは言え勢力伸長中のカリスマ君主。一方、謀反側の光秀は、有力部下の一人とはいえ、織田家No1or2と言うほどの勢力も器量的評価も無し。また、織田家の跡継ぎを担ぐような大義名分の用意も無ければ、事前に同調する仲間を集めた様子も無し。おそらくは、得意の朝廷交渉で勅命でも得ようとしたのでしょうが、例えそれに成功したとしても当時にどれほどの効果が有ったか。織田家の他の家臣にとっては、とりあえず名文の無い謀反人を織田家関係者で協力して倒し、その後織田家の存続と自分の立場をよく考えようというのが当然でしょうね。何の事前交渉も無かった謀反人で、羽柴、柴田、丹羽、滝川などの有力部下達や同盟大名の徳川と同格かそれ以下で、跡継ぎ候補の信孝や信雄を担いでもいない光秀に味方するのは非常に危険な賭のはず。
一方、その時点で織田家と敵対していた外部大名ですが。まず、敵国に内部紛争が起こったと言っても、そう簡単に謀反勢力と組むわけにはいきません。もし、組んだ相手にまるで勝ち目がないと、勝者の支配後には仇敵になりかねないですし。それ以外にも、光秀の狙う同盟関係とその敵対者の考える同盟関係なども良く考えないと、武田勝頼の場合のように上杉の跡目争いで景勝を支援したために、争った相手の景虎の父である北条氏康と敵対することになり、武田家滅亡の一因を作ったりすることにもなりかねません。彼らにとっては、とりあえずは、内部紛争の様子を眺めるというのが当然の策でしょう。
従って、私の結論は、事前交渉不足が原因と考えます。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
一般の常識的回答からは逸脱しますが・・・
明智光秀は、細川藤孝が自分の側につくことを確信していた様に感じられます。
細川藤孝はこのとき、息子忠興共々髷を落としてしまい、中川・高山などと違い中立を守ります。また、光秀の娘で忠興の妻であった玉(ガラシャ)を離縁し幽閉ますが、結局正妻の座に戻しています。
武士が髷を落とすのは、侘び・恭順を示す場合に行なわれる行為で、単に長年の盟友(元々二人とも足利将軍家の家来であった。)と袂を分かつとしても、髷まで落とす必要性があるとは考えにくいことです。
細川藤孝と明智光秀の間には、他人には知りえない何らかの盟約があって、その盟約を破る侘びと考えれば、光秀の娘をほとぼりが冷めた頃に息子の正妻に戻すというのも、せめてもの罪滅ぼしで納得できる感じがします。
・細川藤孝が明智側についた場合
細川藤孝は、関が原の合戦の時には手勢五百ほどで一万五千の軍勢を丹後田辺城で釘付けにしたほどの戦略家。そして、細川が味方していれば、洞ヶ峠を決め込んだ大和の筒井順慶は光秀側についたはず。
更に、兵力不足と指揮官不足で二正面作戦を行なえなかったために、一度安土城を攻め取りそれから軍を戻したため時間のロスが生じ、京と大阪の間の山崎が戦場となったのが、実際の歴史の展開。
歴史にIF(もし)はないが、細川藤孝が中国攻めの進軍体制のまま明智側についていれば、細川藤孝が東の安土城を攻略し、明智光秀と筒井順慶は、西の大阪城にいた丹羽長秀・織田信孝軍(本能寺の変を聞いた兵が逃亡し兵力が半減。軍としての機能を喪失していた。)を撃破。その時点で中川・高山軍も明智軍に合流していた可能性が高い。
ここに羽柴秀吉軍が攻めてきたとしても、兵力は山崎の合戦とは全く逆。また地の利も大阪城を占領し摂津を押さえた明智側が有利。
(その情報を得れば、羽柴軍は摂津に進軍しなかっただろう。結局播磨で持久戦体制を取らざるを得ない。)
織田の五軍団+徳川家康の状況
明智軍‥‥畿内の支配・経済を確立・朝廷利用。
羽柴軍‥‥明智・毛利に挟まれて活動不能。
丹羽軍‥‥壊滅
柴田軍‥‥上杉との対峙で釘付け(史実)
滝川軍‥‥北条の攻勢で壊滅(史実)
徳川軍‥‥信濃・甲斐を切り取る(史実)
この後どうなるかは分からないが、明智か徳川の政権になった可能性が高いと思われる。
歴史上のことですし、敗者の明智光秀についての資料が多く失われていること、勝者の側に立った細川幽斎と敗者との関係ですから、今後も確定的資料が出てくることは考えられません。
ですが、朝廷も絡んで(近衛前久・吉田兼見は変の後、織田信孝に狙われたらしい。)細川藤孝と明智光秀の間には、何かしらあったような資料が散見されます。
キャスティングボードを握るキーパーソンが、どちらに動くかで、結果が大幅に変わってしまう(関が原の合戦もまたしかり。)ことは、よくあるように思います。
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