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ドラマもずっとやっているし、とても有名な水戸黄門様が気になりました。
でも水戸黄門って、実際はどんな人物だったんですか?

やっていたことや、性格なんかを知っている方は、是非教えてください!!!
HPを教えてくださるだけでもうれしいです。
ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

子孫の徳川慶喜が15代将軍になったのは確かにその通りですが、正確には「15代にしかなれなかった」ということです。


慶喜は、13代・14代と2度の機会を失し、結果的に15代ですが、光圀の影響が無ければ、少なくとも14代将軍になり、幕府の命運ももう少し延びた可能性はあります。
13代は家定で、彼は12代家慶の実子ですから順当ではありますが、体が弱く、万一、世子のまま亡くなれば慶喜が、という声もあったようです。
家定がこのような体調ですから就任早々から14代問題が浮上し、人柄と血筋では紀州の慶福、多難な時代ですから年齢と能力では慶喜と言われましたが、慶喜は光圀の子孫という点で、尊王派と目され、大奥や幕臣からは天敵視され、大老の井伊直弼に安政の大獄で干され、結局は慶福が14代将軍になってしまいます。
これは光圀の「大日本史」の影響とも言え、事実水戸藩からは武田耕雲斎が率いる天狗党などの事件があったり、桜田門外の変、坂下門外の変など、水戸藩が初期の討幕運動に深く関わっています。
一説には、水戸藩は徳川家康の保険とも言われ、万一西国大名が朝廷を担いで倒幕軍が来たとき、水戸だけは朝廷に従い、幕府が敗れたときは、水戸家が徳川の血を伝えるものとして、生き残るという構想があったとも?
こういうことで、#4さんが言われるように、光圀の子孫の慶喜は、2度のチャンスを逃して15代将軍になりました。
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徳川光圀は、意外ですが、政治的には敗者と言われています。



四代将軍 徳川家綱が死んで後継争いのときに、徳川光圀の働きで、綱吉を次期将軍に強引に据えました。

ところが、綱吉はご存知の通り「生類憐みの令」で、最悪の政治を行いました。

この悪法は綱吉が死ぬまで続けられ、綱吉将軍を作った光圀も綱吉に対して、何の提言もしなかった。

光圀は、恐るべき独裁者となった綱吉に対して副将軍らしいことは何もせず、悪政を正すことが出来なかったので、政治的な評価は大変厳しいものがあります。

現在の黄門漫遊記は、光圀の孫の徳川斉昭が、御三家の中で一番地位の低い水戸家のイメージアップに講釈士に金をやり、宣伝させたと言われています。それが奏功したのか、斉昭の息子、徳川慶喜が15代将軍になったのはご存知の通りです。
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寛永10年(1661)、水戸家の初代頼房の3男として生まれ、兄の頼重を差し置いて、水戸家の2代目を継いだ人物です。


兄の頼重が生まれた当時は尾張家、紀伊家に嫡子が生まれておらず、父親の頼房が兄たちを憚って、庶子としたため、光圀が後継者となったと言われています。
若い頃は歌舞いた性格で、三味線をひき、脇差を突っ込み差し、江戸の色町に出入りしていましたが、朋輩にけしかけられて、刀の試しに乞食を切り殺して、命の重みを感じるなど、我々が想像する黄門様の片鱗はありましたが、乱暴な若さまでした。
明暦3年(1657年)には、江戸の中屋敷に彰考館を置き、有名な「大日本史」の編纂に着手しました。
そしてドラマに出てくる、助さんこと佐々宗淳(1640~1698)、格さんこと安積覚(1656~1737)を派遣して、大日本史の資料集めをやりました。
この二人は、学者になります。
この大日本史により、神功皇后を皇位から除き、大友皇子を弘文天皇として皇位に加え、南北朝時代の南朝を正統としたなどが特徴で、幕末の尊皇攘夷にも影響を与えました。
元禄元年(1690年)に、水戸家の家督を、兄頼重の子供の綱条に譲り、西山荘に隠居しました。
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水戸黄門(徳川光圀)は勉学者で有ったと言われています。



参考URL:http://komonsan.on.arena.ne.jp/
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …

すけさん、かくさんもモデルがいたんじゃなかったかな?
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