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信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう?
宜しくお願いいたします。

A 回答 (8件)

質問者さまの当初の質問は、キリスト教においてはなぜ人格的な神なのか、という点だっただろうと思います。


それに対して、人間との接点である「ことば」という理由の回答があり、私もその根拠として『ヨハネ書』の引用も述べました。

それに対して質問者さまがどう受け止め、あるいは合点がいかない点を述べられる必要があるのではと思います。
また、ケノーシスのどの部分が重大な関係がありそうなのか少しは思いも述べて追加をされたらいかがでしょうか。
新たな概念を提出理由なしに追加していくとね回答の霧散化をまねくことになります。
とくに、ここでは対話形式ではなく質問-回答の形式になっていますので。

ケノーシスの出拠のひとつである『フィリピ書2章』の部分は素直な解釈としては「キリストを(生活の)模範とせよ」という文脈の中で述べられたものです。
「利己心や虚栄心からするのではなく、相手を自分より優れた者と考え・・・・・・」
そして「イエス・キリストは神の身分でありながら・・・・・・人間と同じ姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と続いているのです。

ケノーシスの論拠は上の受肉、十字架の死の部分によっていると思いますが、あくまで『フィリピ書2章』の文脈としては信者の生活模範としてのキリストの行状として述べてあるように見えます。

しかも、ケノーシスが最近盛んに取り上げられている背景には、キリスト教の布教・教線拡大に伴っていた独善性、排他性の修正や、他宗教との対話模索という、俗的な部分もあります。
また、仏教者の中にも空思想や菩薩修行と結び付けようと動きもあります。

ただ、私は単純にアナロジャイズすることはしません。
仏はもともと創造神では無いのですから。

先にあげた『自然法爾章』はあくまで「いろもかたちもましまさぬ無上仏」から衆生に接点をもつ阿弥陀仏としてあらわれたことを述べたもので、私はケノーシスの考えと結びつけて引用したのではありません。(そういう仏教徒や学者ももいますが。)
ちなみに『自然法爾章』の自然は「じねん」であり、いわゆる自然(しぜん)とは少し違います。

再度申しますと、当初の質問に対する回答に対して、感想、不明、不満を述べた上で「ケノーシス」の追加が必要ならばその背景、理由などをつけるか、
そうでないならば新たな質問として建てられることをお勧めいたします。
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この回答へのお礼

私の質問は、キリスト教においてはなぜ人格的な神なのか、ではありません。
文面どおり中世ヨーロッパにおいて何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったかということです。
いわば中世の人格の観念についての問いです。
約めれば何故人格は絶対だったのかと言うことです。
またペルソナの概念についての言及もありませんし、これ以上はご遠慮ください。

お礼日時:2006/08/20 13:17

下のHPを参照してください



私たちも見習いたいですね。

参考URL:http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/kotopar …
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「ケノーシス」とは一般的には「神のへりくだり」という意味らしいですね。



自らを人間という立場まで貶めることによって人間を救おうとするのが目的、ということらしいですが、個人的には論理のすり替えを感じました。
つまり、「救う」という目的と「ケノーオー(自らを無にする)」という手段の間に、必然的な関係性が存在するとは思われない、ということです。

無論、「自らを無にする」のは仏教の「悟り」とも相通じるところがあるように思われますし、自分という存在も含めた「世界」を認識する上で有効な手段なのかもしれません。
ただ、(私は無神論者ですが)仮に神の存在を認めたとしても、神が自らを無にしようとするのは自由ですが、ケノーシスという形で、人間を救うためである、という目的が付与されるのは論理的ではない、と言えるでしょう。

同じように自らを無にした一般人がいたとしても、彼にはケノーシスという概念が当てはめられることはないと思われますが、それは彼が人間を救ったという実績を証明できないからではないでしょうか。
結局、まず最初に、神は人を救うために存在している、あるいは神は人を救った、という揺るぎない結論があるわけで、
ケノーシスという概念も含めて全てはその結論を正当化するためのものでしかない、と判断するのが妥当ではないかと思われるからです。

もっとも、信仰というもの自体が論理を超越したところで発生する心理作用なわけですから、どのような理論であってもその信仰を上塗りする要素としてより考えられないでしょうし、
ましてや、人間である自らに近付くという過程を意味するケノーシスという概念を信じることは、百利あって一害なし、ということになりますから、神が「人格的」であることを拒絶する理由は何ひとつなかった、ということなのだろうと思われます。

一方、この考え方を推し進める立場としては、人間は神に対して計り知れない恩を着せられることになるわけで、これまた都合が良い、ということになるのでしょう。
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 まず、神は全く自由な意思によって人間を創造しました。

どのように創造したかというと、人間が神からの呼びかけに応答することができるような自由な者としてであります。これが「神の像(イマゴ・デイ)」としての人間です。この呼びかけと応答は、「言葉(ロゴス)」の交わりであり、ここに人格的な神と人間との関係性が成立しています。
 けれども、人間は、その自由を神の創造の秩序に反した方向に、つまり、神に背を向けて行使するという罪をおかします(堕罪)。アダムとエヴァも、カインも、その後の「神の民イスラエル」も、旧約に描かれている多くの記事は、神への背きの歴史です。
 それでも神は、ご自身の創られたこの世界とりわけ人間を愛されました。人間自身にはどうしようもない背きの罪を神自身が贖い(奴隷の身代金を支払って引き取るように)、もう一度神に向かってまっすぐに立ち直らせようという恵みを人間に与えるため、その独り子イエス・キリストを地上に送りました。十字架につけられ復活するという秘義(ミュステリオン)を通して人類の罪を贖い、永遠の生命を信仰者に与えたのです。
 長くなりましたが、お訊ねのケノーシス(「謙卑」と訳しますね)というのは、神が人格的な人間との交わりの究極において、自らを低くして神でありながら全き人間ナザレのイエスとなり、恥多き十字架についたということをあらわします。神は、その独り子イエス・キリストと、またキリスト昇天後は地上で働く聖霊と、一体(三位一体)であるからキリストのケノーシス・謙卑は、即ち神の人間との人格的和解の出発点なわけです。
 こんな説明でいかがでしょうか。ちなみに私はプロテスタントの牧師候補です。分からない点はご遠慮なく質問を返してくださいネ!
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キリスト教には詳しくないのですが、新約聖書ね旧約聖書を一通り、二通り読んだものとして回答します。


人間に対する神の意思を伝える「手段」としての「ことば」がその理由だと思います。
キリスト教では自然そのものを「神」とは言わないでしょう。
真理から人間に働きかけるから「神」とするのでしょう。
No.2の方が言われていることが当を得ていると思います。これは「ヨハネによる福音書」の冒頭に「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と述べられています。

私は仏教のことを少し学んでいますので、そちらの視点から見てみます。
仏は創造神ではありませんが、仏のはたらきと言う点では非常に似た部分があります。
「仏」は別名「如来」といいます。
如とは「一如」「真如」などといい、虚妄分別を超えた存在のありのまま。
「如来」とは「如」より来るだから、虚妄分別を超えた真実から、衆生にはたらく手立てをもってあらわれた方と言うことになります。
この場合には「言葉」とは限りませんが「言葉」は重要な手立ての一つですね。

親鸞聖人は『自然法爾章』の中に
「・・・・・ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料(手段)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。」
と言われています。

真理と言うと、何か客観的に解ったつもりになりがちだが、手立ての無いものをばくぜんと「真理」とよんで解ったつもりになるなと言われています。
(現代人が陥りがちな錯覚)

特に無神論と称する人には、自らの立位を不明にしたまま、あるいは自分が神の立場のような論調になっていることが多いように思います。

この回答への補足

ご回答いただきありがとうございます。

どうもこれはケノーシスという概念がキーポイントとなりそうなのですがもし詳しいことをご存知であればお教えください。

補足日時:2006/08/17 09:28
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まず、人格的な神の成り立ちについては、
「唯一のもので【あった】」のではなく、
「唯一のものと【した】」、と解釈できるのではないか、と思います。

人類の歴史自体がわずかですし進化の程度もまだまだと言えるような現状で、人間には理解不能なことがたくさんあります。
しかし、それを「わからない」と放置しておくことは自らの無能を認めることになるわけで不安になる。
それで、それらを「神のなせる業」とすることによって強引に論理を成立させ、それによって納得しようとした(あるいは、している)のでしょう。
納得することは安心感をもたらしますから、それを求めるのだと思います。

そのためには、神は意志を持った存在であることが必要です。
結果として人格が付与されざるを得なかった、ということではないかと思います。


神がいるいないに係わらず絶対的な力というものは存在しているわけですが、「信仰する心理」は本来それへの帰依を志向しているはずです。
上記のような理由によって人格を持った神であれば、「願いを聞き届けてくれるかもしれない」という幻想も付与されるわけで、一石二鳥といったところなのではないでしょうか。

この回答への補足

ご回答いただきありがとうございます。

どうもこれはケノーシスという概念がキーポイントとなりそうなのですがもし詳しいことをご存知であればお教えください。

補足日時:2006/08/17 09:31
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 神は単なるエネルギーではないのです。

人格には言葉がそなわっているものです。
 
 信仰者には神への祈りによる対話があるのです。神に人格がなければ対話はできません。祈りの言葉も虚しいものになってしまいます。
 
 人格とは言葉によってつくられるものです。それだから、神は人間にわかる言葉を使って下さるのです。
 
 神こそが人間へ言葉を与えて下さったのです。人格がなければ言葉は使えないのです。

 神に人格があるのは、言葉の存在が理由になるのです。

この回答への補足

ご回答いただきありがとうございます。

どうもこれはケノーシスという概念がキーポイントとなりそうなのですがもし詳しいことをご存知であればお教えください。

補足日時:2006/08/17 09:31
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それは多分、当時の人々の知的レベルでは、それ以外の神を想像出来なかったからだと思います。



当時一般人からは遥かにかけ離れたところに、権力者、王などが存在しました。

さらにその上に君臨するのが万能の神であるので、権力者よりももっと大きくて力強い存在を想像したのでしょう。

権力者よりももっと威厳に満ち、巨大でパワー溢れる偉大な人のはずだと思ったに違いありません。

科学や物理学がまだそんなに発達していない時代に
神=宇宙の自然の摂理・・などどいうような発想が起きる余地はなかったのでしょうね。

だから神は人と同じように嫉妬し、怒り、人に制限すら設ける存在だと思ったのでしょう。

ご質問の主旨はこれで当たっているでしょうか。

この回答への補足

ご回答いただきありがとうございます。

どうもこれはケノーシスという概念がキーポイントとなりそうなのですがもし詳しいことをご存知であればお教えください。

補足日時:2006/08/17 09:32
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