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『人のため』に行動することってあると思いますか?

 時の人になっていた、鈴木宗男さんを見ていて思いました。
彼はもともと貧しい農家の出でした。もしかしたらはじめのうちは彼は本気で地元を潤そうと思って地元のために必死になって公共事業を引っ張ってきていたのかも知れません。
それがいつのころからか、『地元のため』と思っていたのが、『自分のため』に変わっていったんじゃないのかなぁ。

 僕の大学のサークルでは2,3年前まではかなり上下の区別がはっきりしていました。そしてよく上回生は『お前が社会に出たときのため』に厳しく接しているんだといいました。

 でも、そもそも『人のため』なんて正しい日本語なんでしょうか。本当に『その人のため』を思っているんでしょうか。もしかしたらそれらは全部『自分のため』じゃないのでしょうか。
おぼれている人を見て、その人のためといって飛び込む人がいるとしても、それはあとから「その人を見捨てた」という罪悪感を持ちたくないからではないでしょうか。
『子供のため』・『家族のため』・『仕事のため』といった言葉も結局は自分のためでしかないのではないかと思うのです。

自分でも何を言っているのかわからなくなってきましたが、要するに『~のため』といっても結局は全部自分のためにやっていることなのではないかということです。
皆さんは、どう思いますか。

A 回答 (21件中1~10件)

>自分でも何を言っているのかわからなくなってきましたが、要するに


>『~のため』といっても結局は全部自分のためにやっていることなの
>ではないかということです。

フム、よくわからなくなっているのは、「自己中心主義」と「利己主義」を混同しているからだと思いますよ。この点ではNo.1の方と同じ見解です。

その上で私の見解を述べますと、『~のため』つまり利他的な行動というのは、自分では意図していなくても、結果として全て自分のためになります。

詳しくは
「利己的って・・・」http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=152690
のNo.8で述べています。

『情けは人のためならず』ということわざを聞いたことがありませんか?
このことわざは「人に情けをかけてもその人のためにならないよ」という意味ではなく、
「人にかけた情けはめぐりめぐって必ず自分に返ってくるから、情けはどんどんかけなさい」
というのが本来の意味です。
昔の人はうまい言い方をしたものですね。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=152690
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>『~のため』つまり利他的な行動というのは、自分では意図していなくても、結果として全て自分のためになります。
 これが、僕が質問をした時に感じていたことだったのかもしれません。
 結局『~のため』という大儀名文をを振りかざしても、それは自分のためにやっていることなんじゃないかなと、感じていました。

 それが「悪いことだ」なんていうつもりは毛頭ありません。
 ただし、情けをかける方が、つまり『~のため』と優しくしてあげることは、自分のためにもなっているのだからと思えるようになれば、もう少し暮らしやすい世の中になるのかなと思いました。
 どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/03/23 10:18

「公共哲学第7巻:中間集団が開く公共性」173ページからの引用。



『日本の文化的な風土の中には「功徳の循環」という発想が古くからある。人のために何かをしてあげれば、それが回りまわって自分に帰ってくる。「功徳」は、ただ「無償の行為」というだけではなく、社会的な結びつきを通して必ず自分のところに循環してくる。こいう文化的な感覚も日本時にはある。』

これまでの皆さんの議論を突きつめていくと、上記の内容に収斂されるのではないでしょうか。
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すべては自分のため、自分がそうしたかったからやったとすべてにおいてやれば、後悔はないでしょう。

俺も3回おぼれている人を助けて2回死にそうになりましたが、何も考えずに体が勝手に動いていましたからね。今思えばあの時そうしなければその人は助かっていなかったでしょうし、今は良かったと思っていますからね自分の為にはそうして良かったんでしょう。これはあくまでも私個人の考えですからね、質問している方へあなたがそう思っていればそれでいいんじゃないですか。結局は決定権はあなたでしょ。
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単純に『自分のため』の行動が『人のため』にもなれば最善ですよね。


簡単でスミマセン。
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No.8です。

他人に対してしたことに対して見返りを思わない。確かにそうありたいとは思って行動しているつもりです。でも、人間は所詮人間なのです。いつも自分は他人の気持ちを考えて行動している!そのうちに それに比べて周りの奴らはなんだ! 最初は純粋に考えて行動していたのが周りの人の批判ばかりする嫌味な人間になってしまう。よくそういう人を見かけます。
あなたの考えていることは私も若い頃に悩んだ事柄でもあります。私の場合、古い本ですが、庄治薫の 狼なんてこわくない という本に回答がありました。暇な時にでもご一読ください。誰もが一度は考える大事なことだと思いますよ。
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No.2の者です。

再度、ごめんなさい。
いいえ、私は、全然気分を害してはいませんよ。No.4の方も多分、同じと思います(多分)。
私のような、医療に携わる者は、他者と自分との関わりに対して敏感であらねば、と思って日々過ごしていますし、たとえリタイヤしても、病む人たちの事を忘れることが出来ない職業です。
救命救急士の気管内挿管の是非ですが、私的意見では、彼らに認可して欲しいと思っています。 私の経験上では「もう少し、気道確保が早くできていれば…」と、思った例が何○○!例となくあったからです。 救命救急の現場に居る者としては、むしろ、ドクターもナースも、救急隊も本当に必死で救命に当たります。その場では、誰が、どのような立場か?など、考える余裕すらないです。目の前の人を「何とかしなければ!」しかないのです。   
往々にして、上の立場(規則や法律を作る側の人々)とは、意見が相違するのは、悲しいかな、社会の通例であるのでしょう(-_-;)

私(私達)の現場における状況や、それに関する法律・義務的な観点からも、azariさんに、納得のゆく詳しい説明が出来ないことが申し訳ないです。
私の表現能力の問題も有りますが、元のご質問ともズレましたし、オープンな場でもありますので、いずれ、どこかでこの問題が取り上げられて、論議されることを私も望みます。

他の方のご意見も、私にとって考え直しの機会となりました。
このような場を持って下さった、azariさんに、深く感謝します。
ご自分を、大切になさってくださいね。
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No.4で書き込みをした消防業務に従事するものです。


返答の文中についてコメントします。

>ただ、ひとつだけ言わしてほしいのは(あまりいいた
<くないのですが)、もしあなたが非番だったときに近
<所で火事があったとします
> そのときでもあなたは仕事中と同じようにバケツを
<担いで、燃え盛る炎の中に飛び込んでいけますか?と
<いう話です。

非番であっても、火災を覚知すれば現場へ行きます。
その時、消防隊が現着していなかった場合、当然、人命救助が最優先されます。いかなる場合にあってもです。

私は、市民から助けてと言われれば、最善を尽くして助けます。そのための技術を身につけるためなら毎日の訓練も耐えられます。ただ、人よりその行為をすることに、ためらい無く出来る立場にいるからでしょうね。
補足的に説明しておきますが、我々消防士(だけではありませんが)は非番というものがありますが、休日はありません。
消防職員のまま、自宅で待機するという意味で仕事中と同じですから、火災が近所であった場合は、現場に行き、消火、人命救助のための活動をすることも当たり前のことです。
自宅待機なので、上司の許可無く市外に行くことは許されません。そのことについて私自身不愉快に思ったことは一度もありませんよ。いつ災害が起こるか解らないのに、自分の居場所さえ明確に出来ないならば、消防職員としての自覚さえない、ただの税金泥棒です。
公務員とは市民に対し奉仕する職業です。
あなたの質問にある「人(市民)のため」を前提とした職業なのですよ。
ちなみに、我が市では、市民が人命救助に協力した場合は表彰されますが、消防職員が非番で人命救助をしても表彰対象とはなりません。何故か・・・当たり前のことだからです。
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No.7の返答についてのコメントです。



>これが、僕が質問をした時に感じていたことだったのかもしれません。
>結局『~のため』という大儀名文をを振りかざしても、それは自分の
>ためにやっていることなんじゃないかなと、感じていました。

うーん、ちょっと私の言いたかったことと違います。

私は社会人を始めて13年になります。
普段はビジネスをしていますから、『~のため』と思って行動しても
ビジネスの上では、心のどこかで見返りを期待していることがほとんどです。

しかし仕事を離れると、なるべく見返りを期待せずに「自分なりボランティア」
をこころがけるようにしています。なかなか思うようにできませんがね。


世間を知れば知るほどわかりますが、(自分も含めて)自分中心の私利私欲の人間
がほとんどです。「会社のため」「家族のため」などと言っても、結局は自分
本位の行動になっていることが多い。ムネオ君は国会議員ということもあり
有名になりましたが、身近にもムネオモドキの人間はけっこういますよ。


しかし、歴史を学んでください。
大人物であればあるほど、本当に「人のため」「国のため」に生きています。
無実の罪で牢屋にぶち込まれたり、さらには暗殺されたりすることもありますが、
それでも「他のため」に生きた結果、立派な人格と偉大な業績を残しています。

だから人並みのつまらん人生をおくりたくないならば、少しは「~のため」と
いう生き方も必要ではないかと思うのです。(この辺、かなり利己的かも)



>>『~のため』つまり利他的な行動というのは、自分では意図していなくても、
>>結果として全て自分のためになります。

しかし見返りを期待しないでいる、というのは本当に難しいですね。
心のどこかで有名になりたい、金儲けしたいという煩悩が渦巻いています。

見返りを期待しない利他的な行いのことを、東洋哲学では「陰徳」というのですが
見返りがあった時点で「陰徳」ではなくなっちゃうんですよね。

「陰徳」を積んでいくと自分も他人も幸せになれる、ということは理屈ではわかっ
ているのですが、実践がなかなか継続できずにいます。
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他者とわたしの間になぜ人は、区切り設けようとするのでしょうか?他者とわたしに区切りを持たせた考えで者を見、者を考えているとその範疇からぬけだせないのではないでしょうか?



区切りをなぜ設けようとするのでしょうか?
区切りを設けることによってなにを得ようとしているのでしょうか?


他者はそのままこのわたしです。かけがえのないわたしです。あなたはわたし、わたしはあなた。そして、あなたとわたしという小さな世界にとどまらず森羅万象、大きな世界―――宇宙そのものです。小さなものの集まりりによって大きなものをかたちづくり、大きなものは、小さなものによってつくられる。必要とし必要とされているかけがえのないもの。人は、一人では生きれない。あなたがいるからわたしがいる。ただそれだけ。


大切なものが何か?見えてきましたか?かんじてください。
あなたの中の大切なものを.....見失わないで。
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人のためにと思って善行を重ねる人でも、人のために行動した自分を評価してもらうか、もしくは自分はいい事をしたと自己満足するために行動しているのでしょう。


ですから、それ以上のものを変に期待すべきではないのでしょうね。
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