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江戸時代の幕府や各藩は財政が逼迫して大商人からの借り入れに頼る事がよく見受けられます。
でもいくら商人が経済的実力を持っているといっても、権力を握っているのはお上なのですから、
商人が儲けているならその分を強制的に吸い上げる事も出来そうなものです。
しかし幕府や藩が商人から取っていた税や冥加金は、商人の経済力からすればわずかなものに過ぎません。
いつの時代のどこの政府だって、国庫が苦しくなれば増税は一つの選択肢になりますし、倹約や貨幣の改鋳に
頼るよりは妥当なことだと思いますが、何故幕府や藩はそうはしなかったのでしょうか?

A 回答 (6件)

自分の藩の商人に税をかければ、商人はよその藩に逃げ出します。

商人が減ってしまえば藩の経済は急激に衰退します。難しいことはない、今の世と同じです。田んぼが収入源の農民と、この点が決定的に違います。よって税の取れる相手は、その藩の特産品(つまりよそでは仕入れができない)を扱う商人に免許を与え税をとるしかなかったわけです。薩摩の黒砂糖が有名ですが、江戸時代の中期ごろから各地でこういった対策がみられています。
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商人に重税をかけなかった理由は、商人に重税をかけると言えば、「もう金は貸さない!」と言う重税を拒否する強力な武器があったからではないでしょうか?昨日も言った通り、金の力には勝てないのでしょう、悲しい事に…では、何故農民が被害に遭うか?江戸時代は、農民が年貢として米を代官所に納め、その米が商人によって米問屋に売られ現金に換えられ、そのお金が代官を指揮する勘定奉行に納められ、武士の給料(当時は切り米と呼ばれました)として支給されるのです。

つまり、幕府や藩は、米が無ければ金を手にする事ができなかったのです。八代将軍・徳川吉宗は、江戸があまりに不作だった時、各地方の米を幕府が買占め、それを各地方の大名に高い金で買わせ、何とか危機を乗り越えていたのです。商人はお金を持っているようですが、結局、農民が納める年貢米が無ければお金は存在しなかったのです。参考にして下さい。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8% …

【徳川家康は武士の支配構造の基本として重農政策を選んだため、支配者階級である武士階級は、その収入を米に依存していた。そのため幕府の経済政策の主力は米相場を安定させる事が中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がると言う様になかなか思うようにはいかず、商人たちが経済の主導権を握るようになる。また、町人階級の経済的躍進は、武士階級を困窮させる事になり、幾度も倹約令が出される事になる。また18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)の所も出てくるようになる。これを見て田沼意次は、重商政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。幕府は18世紀以降、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって財政を持ち直そうとしたが失敗に終わる。】


庶民の使う農具・日用品・衣料品・木材・装飾品、武器・鎧などはどこで誰が作っていたのか。
米以外の畑作・畜産・養蚕農家の製品や、山海食品はどのようにして普及したのか。

農民にとってもそうですが、大名達にとっても戦の武器は自分達で作れませんので、商人から買うしかないわけです。
映画もののけ姫ではタタラ場から生産されたものが、ふもとに届けられ、代わりに食料が荷台に詰まれて戻っていく。
その一群の中に、柿色の服、高下駄のおじさんがついています。
彼が商人だと思います。
商人を通さずに直接タタラ場に来た武士たちは、門を通してもらえず追い払われてしまいました。

恐らくこの異形の商人は町の商人に品物を納めていたと思います。
ということは、町に商人に重税をしても、あまり効果がないし、町の商人もこの異形の流れる民次第だったと思えるのです。
彼らのご機嫌を損ねたら、品物が手に入らず、幕府に納めることができない。
異形の民はどこでもいけたので、こっちが値切ったら、別の藩の土地の商人と取引するまでです。
そして生産者に食料を今まで通り届け、商売を続けられる。
農機や武器が不足すると、収穫も減るし、勢力も弱まります。
手綱の引きぐあいを誤まると、領土も藩も他の藩にやられてしまう。
という具合に、手綱裁きが難しかったのではないでしょうか。
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だんだんとシステマチックに納税させるようになったのが、田沼時代です。



納税させるためには、誰が、どれだけ儲けているのかを把握する必要があります。これが大変。

では、どうするか?専売制です。
各藩は地方物産を専売制にすることによって利益を上げました。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%AA%E4%BB%B2% …
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江戸時代は商人天国だと思います。

 私も商人から何故、税を取らなかったのか疑問です。人頭税など、やり方はあったと思うのですが・・・
 個人的な見解で。

本来、儒教の価値観の中では、生産する人が偉くて、商人は、最低の服しか認められず、靴も履いてならない民。士族身分の人は携わってはならない民という考え方があります。
 日本の儒教は形だけで、商人は、おいしい身分なわけですが、儒教の考えを推し進めようとした幕府としては、携わるべきではない商人に対しては無関心という関係を政策としてとったように考えています。

 信長、秀吉は重商主義ですが、家康の場合、鎖国し、儒教を取り入れ、大多数をしめる農民からの租税による幕府の運営体制を確立しています。徳川幕府の時代は商業を押さえた人が、天下人になったことは皆承知しています。 
 徳川政権下で平和だった故に、商人に経済力がついたわけですが、ここで突然、商人から税を取り始めたらどうなるでしょう。収入を把握しやすい土地の租税に比べ、各藩で同様に商人から税を取り個別に台頭する藩や、幕府打倒に協力する商人。また、本来日本では商業の権益は寺社勢力のものでしたから、寺社勢力も収まりません。
 商人自体も、平和で今のおいしい生活が望ましいので、商人から税を取るなどと天下泰平を乱す考えを持つ役人が出ないよう。影ながら努力していたのではと考えます。
 結論としては、無用の混乱を招かないため、あえて取らなかったと解釈してます。
 
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確かに権力では武士の方が上ですが、いざ金を借りる時は武士の権力など関係ないようです。

本でも見受けられますが、士農工商の身分制度で最上級の武士が最下級の商人に金を借りるのに頭を下げています。武士の生活を支えるのは、農民が納める年貢米ですが、不作でなかなか武士に家禄(給料)が支給されないと、借金が返済できない為、商人を見ると怯えて隠れる始末…こんな事は言いたくありませんが、いつの時代も金の力に勝るものはないのでしょう…悲しい話ですが…では、国庫が苦しくなれば被害を受けたのは誰か?農民です。財政が苦しくなれば幕府や藩は年貢米を引き上げていたのです。通常は「四公六民」と言って、収穫の4割を納め、6割が農民のものとなっていました。しかし、財政が苦しくなると「八公二民」に引き上げと言う事もあったので、不作の年はたまったものではないでしょう…当然、農民は納得するはずもなく、一揆が多発しました。「生かさず死なさず」これが農民を支配する幕府の方針だったようで、建前は「四公六民」でも、農民の蓄えとなる残りも奪い、実際には「八公二民」になっていたようです。農民の不満を減らそうと乗り出したのは、八代将軍・徳川吉宗です。幕府は、豊作になれば年貢米を増やし、農民は不満でした。そこで吉宗はまず、「五公五民」に引き上げます。それだけでは農民は納得しないでしょう。そこで吉宗は、豊作の年も不作の年も五公五民、つまり納める割合を変えないと約束しました。これを「上免の制」と言います。いい事のようですが、豊作の年は良くても不作の年は厳しく、農民の不満勃発、長続きはしなかったようです。吉宗は1745年に将軍職を退いてますが、その直前に取り立てた勘定奉行が大変厳しく、農民のごまかしは通用せず、江戸時代を通じて最高の年貢米収穫を成功させたと言う話もあります。結局、武士と言えど金の力にはかなわず、いざと言う時の商人に優しくし、そのとばっちりは農民に行っていたのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

農民に重税をかけるのならば、何故同様にして商人からは取らないのでしょうか?
そもそも世の中が貨幣経済になってきたのなら、現物しか取れない農民よりも、金を持っている商人に税をかけた方が
理にかなっていると思うのですが。

お礼日時:2006/11/18 19:27

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