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般若心経を代表する言葉の色即是空、空即是色の
意味についてなのですが「物質は絶えず変化し実体が
ないのだから五感に拘るな」と言う意味は理解できます。

ただ精神に関して言えば心は自分の中に間違いなく存在
していますし自分の気持ちまで実体がなく拘る必要がないと
言いきってしまうのが、ちょっと良く分からないのですが
なぜ精神まで実体がないとされてしまうのでしょうか??

ただ昔の武道家が禅を必要としていたり心の執着を
なくせば不安を解決できるというのは理解できます。

的外れな質問でしたら申し訳ありません!

A 回答 (13件中1~10件)

えっとですね。


色は<形>あるいは<肉体>

色即是空と空即是色は同じことを言っている。


カオスというバスケットがあり、そこにはいろんなパーツが入っている。
それぞれのパーツを繋ぎ合わさって色(形)となっている。
色(形)は一つの部品だけで成り立っているわけではない。
つまりそれ自体で成り立っているものは何一つないので、色即是空。

つぎに空(無のことじゃなく形になる前のカオスの状態が近い表現かな?)が形あるものになっている空即是色とは、実体としてではなく、諸条件や諸要素に支えられ、寄り集まっているからこそ、そのものが存在する  という意味らしいです。

色即是空も空即是色も全く同じことですが、反復することによって、いっさいの存在は空であることを強調している。

固定観念、先入観を排除し、煩悩や執着など一切とりはらうと、それによって引き起こされていた迷いが取り払われる。
そこから、新しいものの見方や、考え方が生じ、自由な境地、自由な生き方が生まれる。
<空の思想によって、さまざまな縁によって生かされ生きているという自己の存在に気づく>  だそうです。


>自分の気持ちまで実体がなく拘る必要がないと
>言いきってしまうのが、ちょっと良く分からないのですが
>なぜ精神まで実体がないとされてしまうのでしょうか??

心 気持ちもいろいろなパーツ(因果律など)により形となって感情や精神が生まれますよね。(この場合 色 ではなく 識)
精神が実体が無いというより、執着しない状態が空で、執着、固定観念、煩悩は生きていく上で必要だと考えるのなら、それはそれで一つの思想だと思います。
精神に実体が無いと言っていると考えるより、心は移ろう性質を持っており、「絶対」としたものが、後には絶対の気持ちが消えうせる可能性があるわけで、できれば頑なな心より柔らの心の方が、自分の思想と逆のことに出会ったとき、苦が生じにくいからではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど。

心の意識も絶対に変わらないという保障はないですし
その時の環境などで様々変化してきますもんね。
やはり、心も曖昧なものと考えれば少し納得出来ます。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/22 20:37

仏教では物質は空間を占め、意識は時間を占める、と考えます。


この為、毘婆沙部では、無方分極微とか無刹那分識を立てます。
これに対して、中観派ではどのように小さなものでも必ず部分をもつと考えます。
(私は中観派が最上の学派だと思っています。)


ある空間には、ある物質があり、別の空間には、別の物質がありますが、
どの物質も自性を欠いている為に、無常であり空であるように、
ある瞬間には、ある意識があり、別の瞬間には、別の意識がありますが、
どの意識も自性を欠いています。精神も空です。

例えば、車を部品に分解してばらばらにしても車の実体を見出せません。
同様に、自分の心から様々な感情を取り除いてみても心の実体を見出せません。
感情と心とは不可分一体で、一味です。
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この回答へのお礼

返事が遅れてしまい申し訳ありません。

物凄く考えさせれる回答です。
新しい発見が様々ありました。

心の実体てなんなんでしょうか??
悲しみや怒りなど様々な感情が集まって「心」に
なるんでしょうか??
それとも悲しみ=「心」、怒り=「心」とも
考える事も出来る気がします・・・

また暇な時に回答して頂けると非常に嬉しいです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/13 19:04

私の失言だったでしょうか。

混乱させてしまったのなら申し訳ありません。私は、空についてはこのように理解しています。
高下駄を履いたなら、千尋の谷を渡れるか?
この、高下駄の部分が解空です。空の理解と覚りの境地とは、直接的には関係しないだろうと言うのが、今の私の感想です。下駄を履こうが履かまいが、道のないところは行けません。
 覚りの境地へと向かう道は、広く平らかです。下駄も必要ありません。危険なものは落ちていません。どこか遠い所にあるのでもありません。ただ、自己をよく整え、直ぐなる自己を確立した人が、安らぎへと通じる道を、安らかに歩んでゆくのです。
私の失言に惑わされること無く、ご自身を拠り所として、道を見出されてください。
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この回答へのお礼

返事が遅れて申し訳ありません。

やはり難しいですね。
もっと勉強したいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/13 18:50

自分の手でその手を掴めるか?例えば右手でその右手をつかめるか、目でその目を見れるか、空のように掴みがたいもの、それを知ったなら、執着を離れることができる、こういうことを般若心経は言いたいのだと思います。

自分は、自分になることができるか?不可能を可能とする道、それは決して狭いのではなく、大道、広い道と言われています。
仏教では、何処からでもよいから、この広くて平らかな道に合流して、苦悩から離れることを勧めています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり難しいですね。
しかし、これも拘りすぎてはダメだと言う事でしょうね。
自分の存在も確かではないと考えたのでしょうか。

参考になりました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/01/02 22:57

なるほど・・・



極簡単に述べます。

実体が無いものを実態があると勘違いして拘っている(執着)のならば、実態がないから拘る必要はないと説くのは筋が通ります。しかし実態の有無にかかわらず拘っているわけですから、実態の有無を根拠に拘る必要性云々を説くのは筋違いです。

さて、本題に入ります。

ご質問は“物体に実体が無いのはわかるけれども、精神には実態があるはずだ”ということですね。
実態が在るか無いかなんてことは、本来どうでもいいことのはずです。つまり、実態の有無に拘っている段階では、実体が無いということを理解することは出来ません。

また、悟りは精神作用であると定義するならば、仰るとおり精神に実体が無いのなら、精神作用である悟りにも実体は無いということになります。

強いて言えば精神は実体が無いから移ろい易い・・・というところでしょう。

実態の有無について拘る必要はありませんし、色即是空・空即是色の解釈も一様ではありません。

合 掌
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

精神は移ろいやすいというのは良く分かりました。
私もこの解釈が自分にはあっている気がします。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/02 22:51

私の解釈なので、正しいかどうか、事実かどうか解りませんが、参考になれば幸いです。



「空」と「色」

空とは根本を意味し、

色は、根本によって生じるものです。

まず、空=色ではありません。
空という根本に様々なものが影響して、色が生じるのです。

人間という感情は、それは周りの影響、自分自身の影響により生ずるものです。
しかし、人間という根本は、根本で変るものでもないと。

色即是空、空即是色の場合、根本は、根本の存在であって、人間とか精神とかではありません。それを言葉で言い表すのは難しいのですが、根本なのです。そして、それらは、人、物すべて同じなのです。

しかし、様々な条件、様算な生き方により得たものにより、それが目に見える形は違い、目に見えた存在から受ける影響も違う。

しかし、根本は皆同じであるので、今、見えることに捉われてはならない。今、見えること、感じることではなく、今、見えるもの、感じることの根本を悟ることが大事であり、その根本を悟り、それの周り覆うものを無くせば、根本の良さを感じ、涅槃に入ることができるというものではないでしょうか?

根本(空)

根本に付くいろいろなものにより(煩悩など)

今、見えるもの、感じるもの(色)

空がなければ色は存在せず、色がなければ空も存在しない。
空があるからこそ、色は生じ、色があるからこそ、空はある。

空は色であり、色は空である。
皆は、同じと考えることは難しいが、根本、条件、現象を知るなら、
空=色であり、色=空であり、違うのは、条件であり、条件が違えば、現象も違う、だから、皆違う。

現象を見て、すべてと言うなら、仏と人々は違うものということになり、成仏することは不可能となる。現象により、仏と人々に分けることはできるが、根本にある仏性は皆同じものであり、ただ、空を悟るところに、自分も成仏できると悟る。空を悟るところに、成仏していない自分を悟り、どうして成仏に至らないのか、それは、煩悩などが空の周りにあるからであり、その煩悩を除けば、空のまま存在することができる。すなわち涅槃、解脱に至り、一切の苦に悩まされることはないと。

一切の苦に悩まされるのは、空を感じることができず、現象によって生きるからである。また、空を感じずに、空に様々な条件が加わることにより生ずる現象を知らないからである。

空を感じ、空に様々な条件が加わることにより現象が生じることを悟れば、様々な条件を軽視せず、しっかりと生きようと思う。

時に怒り、時に憎しみ、時に殺意を抱くかと思えば、時に愛し、時に犠牲になっても守りたい、尽くしたいと思い、時に穏やさに生きる喜びを感じる。すべては、自分自身の状態と周りとの絡み合いによって生じたものである。
 空を悟り、生き方をよくよく考えて見れば、現象が変る。それは感情であり、意識であり、精神などである。故に生き方次第では、仏の境涯を感じることができる、つまり成仏することができる。しかし、生き方次第では、自ら命を断つような苦しみに合わなければならない。

 空、仏心は生まれることも消えることもない、故に空を悟れば、生死の悩みもない、空を悟り、空に加わる様々な条件により現象(色)が生じることを悟るなら、病と老の苦しみは消え、苦を感じる生き方もしなくなる。

以上、私の解釈です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

返事遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
条件が違えば見えるものも違うというのは良く分かりました。

やはり気持ちはコロコロ変わりますし、それが空だという事
でしょうね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/02 22:47

No.3です。



直接の答えじゃないのですが、、、、

色即是空 空即是色 であって 識即是空 空即是識 ではないことに注目してみてください。

色はあくまで物質世界なので、<色即是空 空即是色>は物質について語っていると思えます。

例えば、体 とか 財産 とか。
これが色。

ユダヤ聖書に<コヘレトの言葉>というものがあります。
この哲学者?は「全てが空である」と延々と述べています。

色について述べている個所があります。

『金銭を好む者は金銭をもって満足しない。
富を好む者は富を得て満足しない。
これもまた空である。

財産が増せば、これを食う者も増す。
その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。

働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。
しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。

わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。
すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。

またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。
それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。

彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。
彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。 』

色(所有財産)のためにヘトヘトに疲れて夜もおちおち眠れない状態。
ドロボウが入らないか、株が暴落しないか、オロオロオロオロ。
色(肉体)を持つため、病気になったらどうしよう、あと何十年したら寿命で死ぬかもしれない オロオロオロオロ。


<色即是空 空即是色>の後にくるのが、<識>のことについて述べている個所。
それが<受想行識 亦復如是>

「感受することも、思い巡らすことも、分別することも、認識することも、またこれと同様である」
これと同様の<これ>とは何か。空のこと。

先に<色>について述べて、今度は<識> 心の働きも空ですよ と言っている。

色と識は全く別々ではなく、繋がっている。
色のために識まで影響を受けて弱ることもあるわけです。

得られたもので満足して生きる心、足るを知る心になったとき平安が訪れる。


コヘレトの言葉もそのように述べています。

人は死んだ後まで肉体や財産を持っていけないし、名声もあの世に持っていけない。
裸で生まれ裸で死んでいく。
なんら動物と変わりが無い。
空しいことだ と。
が、人間に与えられた唯一のすばらしいこと、 それは<自分が労苦したことに満足すること>。
労苦を推奨しているのではなく、労苦したことに満足する。
この満足が無くては、平安は訪れない。

と、預言者でもある彼(名前はわかりません。ソロモンとなっていますが、ソロモンの名前を借りて語っていると思えます。)が悟りにいたる軌跡が、このコヘレトの言葉のようです。

<自分がやった労苦(悩み 苦しみ もがいたこと)に満足する> 確かにそれができればいいな。。。と思います。
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この回答へのお礼

返事遅くなって申し訳ありません。

確かに満足できれば幸せになれると私も思いました。
ありがとうございます

お礼日時:2007/01/02 22:42

 おっしゃるように物質に実体がないということは


 理解しやすいですね。
 たとえば、私の指は炭素や水素などが
 (縁によって)寄り集まって形成されたものであり、
 その中の一部は2000年前にはエジプトの
 砂であったかもしれないし、10億年前は
 火星で燃えていたガスの一部だったかも
 しれないことは、割合に想像しやすいことでしょう。

 釈迦が説いた教えを、ぎりぎりのところで一言で
 要約しろと言われれば
 「すべてのものには実体があるわけではない。
 すべては「縁」によって形成されたものである」
 ということになるはずです。
 ところが、このことを「精神」あるいは
 「意識作用」「認識作用」にまで
 及ぼすと、おっしゃるように大変な困難が
 伴います。
 つまり、さっきの物質の例と同じことだとすると
 「今、私が認識しているこの精神作用は
 2000年前にアフリカで(私が)なめくじだった
 時に感じた、あの感覚が移転したものだ」
 というようなことにならざるを得ず、
 それは、「相当に」想像しにくいことだからです。
 
 しかし、他人との心の共有を考えてみてください。
 「私が感じているこの心」
 をほぼ、共有できる人間が(少数ながら)いることは
 想像できるでしょう。
 「あ、この人、次にはこういうことを言おうとしているな」
 と「感じ取れるような」場合です。
 一般には「波長が合う」とか「縁がある=深い」
 とも言いますね。
 
 あるいは、もうとっくに(生身の肉体としては死んでしまった)
 人間が残した書物や行動などに触れて
 「あ、この人の気持ち、分かる」というような
 場合もあるでしょう。
 
 それをもう少し押し広げて考えていくと
 私たちの表面上の(個人しか持っていない意識に見える)
 意識の底(あるいはそれを超えた部分)には
 全人類あるいは全存在とつながる意識が
 広がっている可能性があることに気づきます。
 
 それが、(精神まで含めたレベルでの)色即是空
 空即是色、=「精神といえども、個人に特殊の実体では
 なく縁によって寄り集まった集合体である」
 ということの意味であろうと思います。
 (思います、ということばでしか語れないのは
 私自身も、「絶対にこうである」とは断言できない
 部分が残っているからです。)
 
 

 
 
 
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど…

みんな同じ精神をもっているということでしょうか。
縁が重なれば、それによって同じ気持ちになったり精神
を作る粒子は物質と同じでどの人間も共通していると言う
事ですね
 
分かりました、参考にします。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/24 19:48

私も以前、ご質問者さまのような疑問を持ちまして、少し調べたりしたのですが、よく分かりませんでした。

意味が分からなかったというよりは、いろんな解釈があって、どれが正しいのか分からなかったという感じです。困ったので、その後に少し仏教の歴史の知識を入れてみました。仏教というのは時代を経て、他の文化思想と交わりながら、次々に変容していくのですね。私の母方のお寺さんは浄土真宗ですが、浄土真宗は「念仏して阿弥陀仏の浄土に往生する」ことを説くのですから、これだけ聞くと仏陀の言ったこと「逆じゃん!」とか思っちゃいます。

仏陀(仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタ)は、思い通りにならないこの世界を「苦」であると感じるのは自分自身の「執着」が原因だと考え、その執着が何から発生しているのかを徹底的に分解しました。例えば当時のインドの人たちが頑なに信じていたものに「輪廻」のような生命観があったのですが、シッダールタは輪廻も執着の発生源であると考え(正確には当時のインドの庶民を苦しめていたものこそ輪廻だと考え)そんなものや思い込みは理性的に考えれば何の根拠もないことだとして、いったん全部「白紙」に戻して考えてみたら(諸行無常、諸法無我、etc.)これが大成功しました>悟りに繋がっていきました。これが「空」観のベースになっているようです。

仏陀の教えでは「空」はOne of themぐらいの位置づけだったようですが、大乗仏教の時代になって「空」が思い切りフォーカスされます。中心人物がナーガルジュナ。彼は「空」と「縁起」を結びつけた「中観」思想なるものを打ち出しました。ここに「空」という発想は「色即是空、空即是色」に変化します。ここのロジックは結構、難解です。私にはよく分かりませんでした。ご興味がありましたら、この辺の本をご覧になって見て下さい。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0846.html
上記リンクで評者は、暫定的な結論として以下のようにまとめています。『すなわち、「空」を感じるにはその「空」をめぐる言葉を捨てながら進むしかなく、そのときなお、仮の言葉の意味を捨てながらも辛うじて残響しあう互いの「縁起」だけに注目すれば、本来の「空」を感じる境地になるだろうと説いたのだ』。大乗仏教以前は上座部(小乗仏教)の時代でしたが、上座部は解釈に囚われすぎており「理屈ばかりこねまわして庶民の役に立ってない」と大乗側から非難されるのですね。そこで大乗側から出された発想が「色即是空、空即是色」ということなのだそうです。

> 物質は絶えず変化し実体がないのだから五感に拘るな
「五感にこだわるな」というのは違うと思います。実体ではないのだから、物質にはこだわるな、ということだと思います。このときの「物質」とは「心に写るモノすべて」ぐらいでしょうか。
> 自分の気持ちまで実体がなく拘る必要がないと言いきってしまうのが、ちょっと良く分からないのですが
仏陀の教えは執着の払い方です。気持ちのこだわりも執着ですから一旦捨てろ、というのは私には理解できます。「必要がない」のではなく、一旦「白紙」に戻してみないと、実体は見えないぞ、ぐらいのことではいでしょうか。言説のみを取り上げて哲学と較べてみると、現象学でいう「超越論」における「エポケー」に近い考え方ではないかと思います。我々にとっては「無の境地に至れば、見えなかったものが見えてくる」ぐらいの言い方の方がしっくりくると思っているのですが、どうでしょうか?
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この回答へのお礼

なるほど丁寧にありがとうございます。

心の実体を考えるより、まず物質には実体がない
と考える事で自然に心も執着する必要性もなくなる
と言う事でしょうか??

つまり心の実体というより物質は「空」であると
考える事で意識に拘る必要性がなくなると言う事でしょうか??

心自体を考えれば何度か回答して頂いている通り
心も曖昧なものと考えれば、ある程度は納得出来ます。

意味が分からなかったら申し訳ありません。

お礼日時:2006/12/22 21:09

これは2つの意味があると思います。



1)霊あるいは魂に関すること

No.2さんの回答にあるように、転生輪廻の意味です。つまり、肉体を持って3次元で生きているけど、しばらくしたら(死んだら)「空」つまりは、あの世での生活が始まるってことでしょうね。旅客機のパイロットが、平日はエアバスを操縦し、休日は自家用車に乗るような意味です。主体としての「人」つまり魂は、実体としてあるけど、それが乗り物を変えているってことです。その主体が空(霊界)にあったり、地上(現世)にあったりするわけです。

これを間違えて、「精神(霊)の実体が無い」と解釈すると、過去においてインドで仏教が「転生輪廻の主体が無いなら、転生輪廻はありえないじゃないか?」と既存宗教に攻撃されて、「霊は無いけど識がある」なんて言い訳したように、「論理(教え)の破綻」になる可能性があります。

2)物質に関すること

現在の量子力学や素粒子研究実験では「粒子が消えたり、突然現れたりするように見える現象」が見られるそうです。アインシュタインが「E=MC**2」と述べたように、物質とエネルギーは変換可能です。(まだ、よくわかっていませんが・・・)

この場合でも、「無」になるわけではなく、それらを構成するもっと根元的な何かが主体として存在し、それがぐるぐるまわっているってことだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

物質に関しては良く分かります。
ん~、これも心身二元論ですね。

分かりました、ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/22 20:48

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