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宗教、哲学、科学の定義があったら教えてください。

A 回答 (8件)

科学と宗教の関係を中心にして書かせて頂きます。



人間は意味を求める動物です。世界に「意味」を与え、整理分類し、納得しようとすることが人間の根本的な性質といってもいいでしょう。科学も宗教も、この世界の意味を求めようとする人間の理想に奉仕するもの、という点では共通しています。まずこのポイントは押さえておく必要があります。

そのうえで違いを考えるとすると、科学が追求する意味とは「普遍性」に関わるものであり、宗教の求める(あるいは要求される)意味とは、「個別性」に関わるものである、とまず分けることができるのではないでしょうか。

科学の態度というのは、「対象化」による「客観性」を要件として、主観を排除しながらものごとの関係を探り、意味付けをしていこう、というものです。典型的には、自然の中から繰り返し起こる現象について、そのメカニズムを発見し、法則として記述する行為が科学的とされるわけです。
村上陽一郎氏は、科学を「事物のあいだの相対的に安定した関係を探求することだ」と定義していますが、同じことをやや控えめに述べたものととっていいでしょう。

ただ、もちろん人生に普遍性はむしろ少ないでしょうし、常に主観を排していては生きていけません。科学は「この私の、ただ一度きりの現象」に意味を与えることは不得意です(というより、はなからそれを排除したところに成り立つものです)。
従って、科学が対象とできる範囲は、実は極めて限定的だということでもあり、そのことが、宗教の存立意義ともなっています。私たちは好き嫌いを問わず「この私」という主観のなかで現実を生きざるを得ないし、同時にそれについての意味付けを求めずにはいられないからです。

例えば、自分の家族や恋人が交通事故に遭って亡くなったとき、私たちは「どうしてこんなことになったのか」という意味を求めるでしょう。科学はせいぜい、どういう要素が(事実としての)事故をもたらしたのか、どういうメカニズムで(生物的な意味の)死が訪れたのか…といった「事実」を提示してくれるにすぎません。
それで納得できれば結構ですが、多くの人を満足させることはできないでしょう。なぜなら、求められているのは、「なぜ、私の家族が今死ななければならなかったのか」という個別性の意味を説明する答えだからです。

宗教の定義は昔から議論百出で、決定的な解釈はないのですが、一方に主観を排除するところに成立する「科学」をおいて論じれば、このように「この私」を含めた世界の意味を説明しようとするものが「宗教」だ、ということができるでしょう。
またこう考えれば、科学と宗教は明快に棲み分けがなされていることになります。啓蒙主義的に見れば、科学が発達すればするほど非合理な宗教は弱体化するはずだったのが、現実はそうなっていないことも、この見方を裏付けるものでしょう。
むしろ科学が進むほど、「この私」を含めた世界の意味を求める動きが強くなっているのではないでしょうか。科学は「なぜ私は生まれたのか」「なぜ私は死んでいくのか」といった人生の意味を語らないからです。

私は「科学」「宗教」のどちらがいいということを言いたいのではなく、むしろ科学と宗教どちらも「世界の意味づけ」に奉仕するもの、という点では優劣がない、ということを強調したいと思います。

宗教が与えてくれる人生の意味についての「答え」は、普通イメージされるような科学的な意味の答えではなくて、むしろ「物語」といってもいいものです。物語とは、ある限定された条件下で矛盾のない説明体系という程度の意味ですが、大事な点は、(文化相対主義的に見ると)科学的な説明も大きく見ればひとつの「物語」に過ぎないのであって、一見科学的な説明も、一見宗教的な説明も、同じ「物語」として単純に優劣を決められないということです。
なぜなら、どのような「物語」を選択するか、ということそのものが「この私」の主体的選択であり、生きるということはその選択の積み重ねに他ならないからです。

例えば、先の交通事故の例で言えば、「なぜ私の愛する家族が死ななければならなかったのか」という問いに、ある者は「前世が悪かったから」と意味付けて納得するかもしれませんし、またある者は「誰かが呪いをかけたから」と意味付けるかもしれません。また別の者は「劣悪な交通事情など社会的要因」を、あるいは「神の思し召し」を挙げるかもしれません。
これらはどれも、今現在の世界で実際に意味を持っている「物語」です。いずれの「物語」を採用するにせよ、おのおのの人間がその説明体系のなかで納得して世界の意味づけをできるのであれば、その個人にとっては宗教も科学といった分類は既に必要のないことだ、ということも言えるかも知れません。

さて哲学ですが、一般的に言われるように「考えることをも含めて考える知の営み」を指すのだとすれば、確かにその対象に例外はありません。歴史的にも、また名称としても「哲学(=フィロソフィア;智恵を愛すること)」は世界と向き合う学問の総体であったことは事実です。
しかし現在、対象の無限定性が必ずしも哲学の特権的立場を意味するわけではないでしょう。
「哲学や科学や宗教について考える私」のその頭の中の現象について、大脳生理学や人工知能(AI)といった複数の科学的研究がアプローチしています。また仏教の中観などの歴史は、ある種の宗教的情熱の中で哲学(形而上学)が徹底的に批判され、それがさらに宗教的エネルギーとなった実例でもあります。
現実には哲学・宗教・科学それぞれが、相互に関係しあう入れ子構造になることもあることは指摘しておくべきでしょう。

そもそも、ゲーデルを持ち出すまでもなく、経験則から言っても、私たちは自分で自分のことを正確に記述することはできません。真理という言葉を使ってもいいかも知れませんが、人間にとっての根拠、あるいは深い意味をもたらすものは常に外部からやってくるもので、単に論証できる、というものではありません。
そうであるからこそ、どんな形を通じてであれ、世界の意味、生の意味を求める私たちの「意味への希求」が止まないのである、ということが言えるのではないでしょうか。

※長くなって恐縮です。 あくまでも私見としてご覧下さい。また、私はこの文章で誰かを批判したり論争を求めているものでないことを明記しておきます。
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こういう決め付け方は自分でも危険を感じますが、


以下のような考えは参考になるでしょうか。
宗教は、物語。
哲学は、論理。
科学は、実証。
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 三者、「より正しい」事を見つける方法としては一致していると思います。



 で、歴史的な概説を省く為に、三者を現代の用語と置き換えて見ますと、
偏に認識論の違いかなと思います。大きく分けて、思弁的な原因追求と、
観察的事実追求という所で、現代の科学は宗教や哲学とは性質を異にすると
思います。
 で、哲学と宗教を分かつなら、実践と理論という事になるでしょうか。
五感を酷使する事(実践)で、それらから解脱する事を目的とするのが宗教。
哲学は、五感に頼らず、知覚で物を識る事で、両者が思弁だというのは、
その目的とするものが言葉で語られない事には認識できない領域に存在する
からです。
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宗教とは、過去・現在・未来へと意識性の流れているところで、哲学とはどちらかといえば、今、現在に意識性が集中している分野で、最後の科学とは、圧倒的に未来・将来へと意識のベクトルが向いている分野だと思います。

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 それを加藤周一というヒトが、すばらしく明快に語ってくれている気がするのですが。

読んでみては?
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なるほど、宗教「の対象とする分野」も科学「の対象とする分野」も


哲学「の対象とする分野」の集合の部分集合ですね。
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●数学でいうところの 集合をイメージしてください。


 宗教も科学も哲学の集合の部分集合なのです。
 したがって 宗教や科学では哲学を論ずることはできません。
 しかし 哲学において宗教や科学を論ずることは当然のことで
 哲学をおいて他に概念を扱う考え方で哲学以上に守備範囲の広い学問は
 ありません。哲学を部分集合にできるのは芸術(ART)だけです。
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多少暴論ですが,



科学者は,考えてわからないことは実験して確かめる.
実験して確かめた論理に基づいて考えを組み立てる.

哲学者は考える.考えによって真実を追求しようとする.

宗教の信者は,ただ信じる,考えない.
(教祖となるような人はある程度考えているでしょうが)

科学者は,実験などで実際に到達できる範囲のことしかわかりません.

哲学者は,(大昔から)宇宙のはてや,無や,死など,
 科学ではわからないことを対象にできましたが,
 (だが,確認はできないので,正しいかどうかはわからない.
  人によって,色々な考え方がありうる.)

宗教は,信者が救われる.

教祖となる人はある意味哲学者でないかなと思います.
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