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諸行無常とは、どういう意味で、何を指し示しているのですか。悟るとは、何を、悟るのですか。悟ることがない、と言うことを、悟るのですか。誰が、悟ると言う言葉を、使い出したのですか。その意図はなんですか。教えてください。

A 回答 (12件中1~10件)

質問者様のご質問に対して、諸行無常とはどのような意味なのか、ということについて回答させていただきます。



余り知識がないのですが、イメージができるように説明をしてみます。


まず、諸行無常とは、

「世の中の一切のものや現象は、常に変化し生滅し、不変のものはないということ。
仏教の根本思想の一つ。
「諸行」はこの世の一切の事物。
「無常」は、常住(一定のまま)ではないこと。」(言葉の作法辞典)です。

この世の一切のものはつねに変化しているのだ、変わらないものはない。
という考え方です。

この原理から出発して、物や人に執着せず、煩悩を断じて心を鎮めることで人は幸せになれる、という涅槃寂静の教えを生み出したのだと思います。


『平家物語』は諸行無常の考え方をイメージでよく表しています。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

口語訳

祇園精舎の鐘の音には、
諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、
春の夜の夢のようである。
勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、
まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。

http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/jugemu/gio …


そのむかし、平家一族はとても栄えていました。それがしかし源氏により滅亡に至ったのです。
全てのものは常に変化している。人間も例外ではない。永遠なものなどなく、すべてがうつろい、儚いものなのだ。というようなイメージだと思います。

諸行無常は諸行無情とよく間違われるようですが、このような全てが無常である世の中が、人間の無力さをしめす、情け容赦のないものに映るのでしょうね。

>祗園精舎の鐘の声、
 諸行無常の響きあり。

とは、私の推測ですが、鐘の音を聞いた人は、
「平家が栄えていた当時も、こうやって鐘の音がなっていたなぁ。あのころはこんなことになるとは思わなかったなぁ。平家の栄華はずっと続くと思っていた、、」と思ったのだと思います。


また、養老孟司『バカの壁』新潮文庫にはこのような解釈が載っています。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文から、どのように読み取るべきか。
鐘の音は物理学的に考えれば、いつも同じように響く、しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。それは、人間がひたすら変わっているからです。聞く方の気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。『平家物語』冒頭は、実はそれを言っているのです。(ページ56)


だらだら続きました。すみません。

参考になればうれしいです。
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諸行無常という事は、誰でも何時かは死んでゆく。

という事です。その事を、強く意識した事が「一切皆苦」という世界です。がんになった訳でもないのに、「死」を現実のものとして、今にも死ぬのではないかと、常に「意識」して生きてゆく事です。その事で悩みが生じます。

悩みの中には、救いが在ります。希望が在ります。それは何かと言いますと。自分の心の矛盾が、悩みだからです。自分が「死にゆく事」は決っています。それで悩みが有ると言う事です。自分は死にたくないと言うことです。その事に矛盾が有ると言う事は。自分の中に「永遠のもの」が有るという「証明」なのです。

「禅問答」を持ち出すと、説明しやすくなります。これは、分からないものの代名詞にもなっています。これは私達の分別脳では、解けません、それで、禅者は、分別を捨てろ。と言います。

それでは、貴方の質問の答えを言います。それを唱えたのは「お釈迦様」です。悟ると言う意味は、禅問答が解けたと言う事です。言い方を替えれば、人生問題が解決したと言う事です。

あの難解の禅問答が解けたことを、確認する時の言葉に、「生死の問題は解決したか、どうか?」という問いかけで、確認します。その時に、解けた人は、生まれぬ前の自分が何ものか分かった。という返答をします。自分が生まれる前の気持ちが分かったといいます。

それは、分かってもらう方がムリなのですが、あえて、言います。死にたくないと苦しんでいる自我が、自分の中のもう一人の者に出会う事です。それは「仏性」です「神様」と云っても良いのです。

自我が自分の有限性を、悩みとして受け取るのは、「仏性」が永遠そのものだ、からです。有限の自我が永遠そのものである仏性に抱き抱えられることによって、今度は、肉体としての死は、本当の事ではない。その事を知って、仏性に全てを任せて。安心して生きてゆく「絶対肯定」という「境涯」になります。「絶対の安心。絶対の心の自由」を獲得出来ます。

その事が、有り難い事として、全ての経典が成り立っています。その事のために、仏教経典が存在します。仏教というものは、本当は宗教ではないのです。知っている人が少なすぎて、認知されていませんが。本当は「究極の心の癒しのための精神療法」と言えます。中でも「禅宗」が悟りというものを、代々伝え続けていると言えます。

自分自身に存在する、自分自身を悩ませている者に出会うことが「悟りを開いた」と言います。それは「無意識」を使って自分自身を巧妙に「働かせています。」その「働きそのもの」に出会うことを「見性成仏」した、と言います。
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「諸行無常」は全ての現象は常に止まることなく移ろい行くという意味。



悟るとは全ての苦しみの原因を見つけを無くした状態の事。
苦しみとは「欲・怒り・無知」によって生まれるもの。

お釈迦様=仏陀が最初に発見したと言われている。

使い出したい意図は苦しみから抜け出す為の方法を語るため。

その方法は「八正道」といわれるもの。

「言葉・行動・想い」において今までやってない善いことをし悪い事はせずに、今までにやった悪い事を止め善いことはする。ちゃんとした社会的な役割をこなし生きる。今に気づく、集中力つける。そしてものの在るがままの状態を見極める。

道徳的にもなれるし人格も高められ、悟りにも至れる。
形だけでも仏教国なんだから義務教育に入れたら善いと思うもですが、宗教アレルギーがありますから難しいのですかね・・・

もっと細かく方法が書かれているので徐々にでも実践してみてはいかがでしょうか。

参考URL:http://www.j-theravada.net/index.html
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諸行は無常、つまりすべてのものは無常であり空なのです。


空ならば仮我であり、無我でもあるのです。
無我をあらしめているものも無我であるのです。
つまり悟りはどこにもないということです。
これが「空」であり、「無」です。
ではなぜ「空」があるのか。「真空妙有」があるのか。
それは「縁起」があるからなのです。
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「変わらないものはなく、全て変わってゆく」と  いう意味。


何を意味しているかは、
人間、人生、境遇、環境、国、世界 全て
悟るとは、
全ては変わるものであり、変わるものに心を囚われすぎてはならない。
囚われの心に、苦の原因がある。
という趣旨
教えの根本はお釈迦様
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この回答へのお礼

 おくれました。ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/26 03:49

「諸行無常」は佛教の根本定理です。



 通常、「無常」と略されます。 
万物が変化流転する事、誰もが認められる真理でもあります。
"Everything must change" "Nothing stay the same" ジャズの歌詞にもあるなぁ…

 人の心も、石の様な固体も凡て変化します。 人間の観念だけが固定と見なす故に不幸と感じたりする原因にもなります。
 
 凡ての森羅万象・自分の肉体も精神も生命も無常と認識出来たら、これを「悟り」と言えると思います。

 「悟り」とは、
 佛教で云う成仏(仏に成ること・無常と縁起の法を悟る事です。また、空と云う言葉でも顕されています。)

 佛教は人間の釈迦が、2500年程前に 仏陀 buddha(真理に目覚めた人)になる教えを説いたものと言えると思います。

 従って、人間の私たちが、「無常」「縁起」等、佛教の法を学び体得することが、悟りで悟った人を、仏と言います。
 故に、根本佛教は仏に成る教え悟ることです。

 私の経験では、「悟ることがない」って意味は、佛教で言う悟りとは、通常の学問のように何かを発見して身に着けると言うより、

 何かを捨てる・放すに近い感覚で、我執を捨てたら其処に元々あったモノ、って感じかなぁ…

 理屈っぽくなりました
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。気持ちいいです。

お礼日時:2007/02/26 03:53

諸行無常とは、自然の摂理を表している言葉と解釈して良いと思います。


つまり、「常なるものは無い」です。
留まり続けているものは、この自然界においてない。。という意味です。
それは、季節であったり天候であったり、私達の感情であったり。。
だから、執着をなくせ!という意味です。
移ろい、留まり続けるものがないこの自然界の中で、
何一つ変わらないでいて欲しい。。という執着心をなくせ!という意味です。
悟るとは、そのようなことを、明らかに自覚し気付くという意味で
間違いないと思います。

私達人間も、自然界の一部に過ぎません。
どんなに強い感情を抱いても、それは、ずっとそのままではありません。
すべてが、うつろい消えていく。。
それは良い感情も悪い感情も然りです。

諸行無常は、仏教用語です。悟りも、そうだと思います。
ただ、この教えは天然自然の教えだと思っているので真理だと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%A1%8C% …
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi79.html

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%A1%8C% …
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。もったいなく、うかわがせていただきます。

お礼日時:2007/02/26 03:56

いやぁ~、難しい質問ですねぇ。


>>。悟るとは、何を、悟るのですか。悟ることがない、と言うことを、悟るのですか。
 悟りとは何なんでしょうねぇ。実際のところ私にもトンと分かりません。私は仏教でも浄土真宗という宗派を信仰している者ですが、少なくとも私自身は今のままでは悟れないと思っています。
 そもそも悟りとはサンスクリット語で「bodihi」という言葉で覚り・覚悟・証・修証・証得・証悟・菩提・道と訳されます。真理(法)に目覚めることという意味で、「迷い」の対義語として使われます。
 我々は煩悩(欲望)に左右されているから迷いが生じ、迷いから離れられません。それは何事も思い込みや・先入観をもって判断し納得しようとする結果だといわれます。
 そこで迷い(苦・輪廻等のものを含む)から智慧(知恵とは意味が異なります)をもって、解脱(抜け出し)が求められます。その知恵とは、物事を思い込みや先入観から離れ、あるがままを洞察することといわれます。ゆうなれば、現実から真実を見抜く力をつけるということでしょうか。『大日経』では「如実知自心」と言って、あるがままに自分の心覚知することが悟りであると説きます。
 仏教では知恵を得ること悟りというのではなく、その知恵を体現することを「智慧」と呼ぶようです。そんなこと言われてもって感じですねぇ。なかなか体現できませんねぇ。どうしても、コンビ二などに行くとレジはきれいなおねぇさんのレジに並んでしまって、思い込みや・先入観といった執着に左右されてしまいます。それできれいなおねぇさんに応対してもらえればいいのですが、隣のレジのそうでもないおねぇさんから「隣のレジへどうぞ」と声をかけられたりします。煩悩ですねぇ。

 「迷い」とはどうしても自分の執着によって判断してしまい、またそれによって生じる「苦」も指す言葉のようです。そういった執着が輪廻を生むということにもなります。苦とはサンスクリット語で「duhkha」といい、直訳は「圧迫して悩ます」となり、意訳すると「思い通りにならないこと」ととなるそうです。自分の思ったとおりになるという判断に執着してしまい、結果的に違うことが起きると苦しみってことです(先ほどのコンビニの話がまさにそうですね)。そういった、思い込みによる判断はしないようにして、あるがままを受け止めて善いほうにだけすすんでいくことができるというが悟りであり解脱ということのようです。

>>誰が、悟ると言う言葉を、使い出したのですか。
 迷いを離れ「悟る」という概念自体はお釈迦様が生まれる以前より存在していました。代表的なのは「ウパニシャッド」の思想でしょうか。ヴェーダ(アーリヤ人が伝えたインド最古の聖典郡の名称。バラモン教徒の精神生活の権威になっていたもの)を中心とする時代に最終的なヴェーダーンタ(ヴェーダの極意)といわれるものです。もともとウパニシャッドは「近くに座す」という意味で、師弟が間近に対座して「秘密の教義」を伝授したということから秘義を載せた聖典郡の総称になって行きます。
 基本的な教義は「梵我一如」の思弁です。「梵(ブラフマン)」という語は多くのヴェーダで頻繁に見られます。もともとはヴェーダの祈祷の言葉ならびにその神秘の力という意味でしたが、このころには「宇宙の根本原理・絶対者の一人称」として使われていました。「我(アートマン)」という語は見解はさまざまありますが、個人の本体を表す術語です。この個人の本体であるアートマンと最高の存在であるブラフマンと同一であるというのが「梵我一如」となります。この、梵我一如の真理を直観しブラフマンと一体となることで、輪廻(仏教で説く六道説はなく「五火・二道説」が説かれます)という迷いの世界からの解を脱究極な目的とします。
 また同時期に、ヴェーダによるバラモン至上主義に対して自由思想家と呼ばれる人たちも登場した。その目的もやはり、世界全てのものの法則を悟ることにあります。お釈迦様もその一人と言う事ができるでしょう。
 このように輪廻や悟り解脱といった思想はお釈迦様以前から存在し、インド人の思想根底には常にあるもののようで、インダス文明のころからヨーガや沐浴などが行われていたようです。

>>諸行無常とは、どういう意味で、何を指し示しているのですか。
 どういう意味ですかね。一般には「諸行無常」は現実存在なんていわれるもの全部姿だとか本質なんてのも、いつもに流動的に変化しつづけるもの、一瞬といえども次の一瞬には違うものになってしまうい、同一性を一瞬たりとも保持することができないことをいいます。この場合、諸行とは一切のもの、有為法をいいます。
 私の勝手な解釈ですけど、善いことも悪いこともそのままじゃなく移り変わっていくって事でしょうから、「そのうち何とかなるだろう。」てなくらいでいいんじゃないですかね。

 どうせ分からないんだったら、こんなふうに単純な言葉に置きかえてみても楽しいですよ。難しい言葉でで書いてあるなら、簡単な言葉にしちゃえばいいんです。もちろんこんな解釈学問的に間違ってるって言ったらそれまでなんですけどね。それでも自分で解釈するということにチャレンジしてみてください。
 仏教は「自覚の宗教」と呼ばれたりするそうです。知識として得ても、自分が納得しなくてはお話にならないってことですね。厳しいようですが、自分で考えることが大切です。もちろん、しっかりとした知識に基づいた自分の考えということですけどね。お釈迦様も「自燈明・法燈明」といって、「自分自身に由りなさい。その自分は法によって生きなさい。」と法とともにしっかり自分で考えることの大切さを説いておいでです。

>>その意図はなんですか。教えてください。
う~ん。これはほんとに難しいですねぇ。「仏意量りがたし」ってところですかね。悟ってみないとなんともいえません。申し訳ないです。それを求める作業のはてに、悟りがあるのかもしれません。
 何てのは逃げですかね。ほんとごめんなさい。

 長々駄文を連ねました。的外れな答えかもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。
  合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

 はい。わたしも、南無阿弥陀仏と、すがってます。ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/26 03:59

こんばんは、tirolinさん。




諸行無常、うーん、質問を眺めているとtirolinさんがあげておられる問い。そだよな、うん、うん、そう問われるとあらためて諸行無常ってなんなんだろう?とtirolinさんと同様に考えはじめています。



ない頭を右へ左へと振りつつ、あーじゃこーじゃとシャッフル。コキコキコキ。たいがいクビのコリもほぐれところで机に向かい正座。目つむって考える。



………



(@@)=☆パッチリ!



諸行無常につづく言葉に「悟る」をお書きでしたよね。コレ、考える手がかりになりそう。ええ、「悟」この文字を眺めてますとりっしんべんは心を表すとしましょうか、その横の吾は見たまま五かいて口。五かいて口、ごかいてくち。…むむむ…コレ、寿限無となんか似てませんこと?そそ、あの寿限無。


じゅげむ、じゅげむ、ごこうのすりきれ… …


ね、ごこうのすりきれ


この音からのイメージ。心は吾が消耗して行く様をづっとそばでみている。心と吾は一心同体だから吾が消耗しつづけていくと心もいつしか消えていきそうなものなのだけれど、心自体がもともと目には見えない形のないもの。あるともないともなんともいいようのないもの。あるのにない、ないのにあるといいつづけたとて目にはみえない形のないもの詮無い。詮無いのは人の生には限りがありその持ち得た時間の内にないものが存在として立ち現れてこない場合が往々にしてあるから。また、立ち現れかけたとしても時間という制約の壁に阻まれタイムアウト。



それ故にか…
途切れ途切れの時を繋ぐかのようにじゅげむじゅげむと人は言葉を紡ぐ



淡く切なく儚ない恋物語のように





なんの根拠もありません、ただ思いつくままに言葉にしてみました。

参考URL:http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/jugemu/jug …
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この回答へのお礼

 大好きですね。私も、恋してます。ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/26 04:02

「諸行」は、およそ人間が空想や抽象的理解を含めて知覚するありとあらゆるものを意味します。

「無常」は固定した実体がないということ、今この時、知覚している対象は知覚者自身やその環境の有様によって、そのように知覚するように仕向けられているから、そのように見える(思える)だけで、そこには本質的な存在の根拠は見出せないということを意味しています。

「悟る」ということは「諸行」が「無常」であるということを知って、それを受け入れ、そのままに生きるということです。
「諸行無常」は字面でその意味を知るだけなら、それほど難しくないのですが、それを受け入れ、そのまま生きるということは非常に困難です。それは私たちの生が「執着」とあまりに深く絡みついているからです。その執着から一瞬でも自由になること、その自由な状態を何とか維持することを指して「悟る」「悟り」の状態と呼びます。

「悟る」という言葉それ自体は、別に佛教の専売ではありませんが、佛教の文脈で言えば、お釈迦さまが教えの中で「執着を捨てなさい」という意図で、そのような意味の言葉を使われたのが最初ということになると思います。
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この回答へのお礼

うーん。もったいなくて、すみません。わがままな、質問で。空を、つかむようで、尋ねてしまいました。ありがとうございます、ではたりないと思いますが。

お礼日時:2007/02/26 04:09

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