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趣味のサークルの活動予定から、国会の決議まで、ことごとく集団的決定の場は「多数決」かもしくは「独裁」であるように思います。「独裁」の中には「複数の独裁」例えば、市町村名を決定する公募などで、「有識者」というような人が、少ない意見かまったく候補にないものを採用あるいは、創作して、結局公募は意味がないという場合も含めてよいと思う。

これ以外の、純粋な少数者意見が、一般的コンセンサスを持って採用される事態は、決してありえないのでしょうか?権力を持たない少数派は、つぶされるだけなのでしょうか?

A 回答 (9件)

こんにちは、bossambaさん。




(1)純粋な少数者意見が一般コンセンサスをもって採用される事態は、決してあり得ないのでしょうか?
(2)権力を持たない少数派は、つぶされるだけなのでしょうか?


問い(1)…ありえますよ。問に(2)…生き残りますよ。


問い(1)が何故あり得るといえるのか?


キーはいつの時点かで変わってくると思うのです。現時点ではあり得なくとも時間が経過した後にはあり得ないと扱われ、捨て置かれた純粋な少数意見を多数が支持することが十分あり得るからです。



たとえばですね、種痘、これを人体に投与することで広がる流行病をくい止められると。このワクチンが日本に入ってきたとき誰もが牛から採ったものを人の体に入れるなんてとんでもないと大きな抵抗がありましたよね。この場合の純粋な少数意見はワクチンを投与することでバタバタと亡くなって行く人の死をくい止めたい。すぐには理解されなかったのではないでしょうか?しかし、時間が経過した後、公的な予防接種のひとつになりましたよね。



問い(2)が何故生き残るといえるのか?


ちょこっと参考URLを
http://homepage3.nifty.com/web_site/GAIKOKU/1-2. …


日本語使用のキボード、棄てるしかないか?
いえいえ、異文化交流徐々に徐々にですが多方面からはじまっています。諸外国で日本語を覚えたいと外国人のかたを増やす取り組みなされています。たとえば、アニメ、歌舞伎、スポーツ…etcと海外輸出もその一環。日本という国に興味を関心をまずもってもらう。日本語への理解が深まれば、変換アダプターではないですが、現地で日本語を用いても会話が通じる。翻訳が容易になれば、いまある日本語キーボードを破棄することもなくなります。何でもかんでも破棄しちゃうとすくなからずや環境にも影響がでるものです。エコロジーと全世界的に環境への配慮が叫ばれています。ならばなおさら日本語はなくなりはしません。


少数者ということを考える上で、次の参考URLをあげておきます。
画面下から七行目から『酵母菌…云々…』のお話があります。
少し目を通しておいて下さい。


http://wwwsoc.nii.ac.jp/msj7/publish/mycoscience …
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この回答へのお礼

現在採用されなくても、将来事態が変わればと言うことはありますね。今ここで、という条件をはずせば、確かにあります。ただ、会議か何かでものごとを決定するという、一時的な場面においてと思いました。でも、種痘はいい例ですよね。正しいことは非難されてもいつか認められるのでしょう。

キーボード、アミノ酸なかなかいい例だと思いました。超民主主義的という状況かもしれませんね。特にアミノ酸は印象深いですね。

お礼日時:2007/04/02 00:21

政治システムで言えば、近代政治思想家の先駆けともいえるマキャヴェッリは、以下のように言ってます。


「全ての政体は、(中略)、昔も今(十六世紀)も共和政かさもなければ君主政である。」

彼が亡くなってから、480年経つのに未だに人類はこの二つの政体しか見つけていません。
もちろん、単純な二項対立ではありませんが、「独」か「多」かしかありえません。
まぁ、古代アテネのようにくじ引きで選ぶシステムなら少数意見もくみ取られる可能性があります。
しかし、国家や所属する団体の重要事を運を天に任せるというのは、、、。
また、少数意見をくみ取るという意味なら、「多数決」よりは「独裁」の方がくみ取られやすいです。
「独裁」であっても、「独裁者」が全て考え全て判断するなんてのはあり得ませんから。
政治的な事を言えば、いったん決まった事は多数意見だろうと少数意見だろうと粛々と進めていくことが求められますね。


>権力を持たない少数派は、つぶされるだけなのでしょうか?

権力を持たない少数派でも、しぶとく生き残る場合が多々あります。
歴史的に一番良い例は、キリスト教でしょうか。
キリスト教が広まりだした頃の古代ローマ帝国は、多神教の国であり一神教を信奉するキリスト教は少数派でした。
しかし徐々に市民権を得ていき、ついには古代ギリシア・ローマの神々を地獄へと突き落としてしまいました。(天国や煉獄にもいますけど)
産みの親ともいうべき、ユダヤ教はさらに少数派なのに生き残ってますしね。
いつ市民権を得るか、どのように生き残るかは、その少数派意見を堅持する人々の気持ちや戦略しだいでしょうか?

もっとも、一つの意見に固執せず、柔軟に対応するのが本来の合議制のあり方であり、ひいては民主主義のあるべき姿だと思うのですが。
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この回答へのお礼

この2つの方法と言うのは、そんなに古くから絶対的と思われていたんですね。そして、これから決して脱することができないとは!よほど、人間の基本原理的な決定版を出してしまったのでしょうかね。

少数者が生き残ると言うのは、やはり潜伏してという道しかないのですよね。なにか決定する場面において、決して明るみに出ないという運命ですね。

民主主義は、どうも公正なようで残酷に思います。

お礼日時:2007/04/02 00:01

興味深いご質問ですが、その前に素朴な疑問です。


「純粋な少数者意見が、一般的コンセンサスを持っ」た場合は、多数派の意見になりませんか?=多数決になってしまうような気がします。
コンセンサスを合意の意味でお使いですよね?だとすると、純粋な少数意見が多数に受け入れられただけ、です。

なので「純粋な少数者意見が、一般的コンセンサスを持」たずに採用される事態をお探しなのではないでしょうか?

もし、そうだとしたら全く愚かしい方法ですが「くじ引き」や「占い」などの人智と無関係な決定方法が考えられますね。
(室町時代に将軍をくじで決めたケースもあります)

余談ですが
>権力を持たない少数派は、つぶされるだけ
マキャベリは「武器なき予言者は滅びる」と言ったと伝えられています。残念ながらいつの時代も少数派が生き延びるのは難しいのでしょう。
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この回答へのお礼

そうですね。言葉の選び方が失敗でした。失礼しました。
意味するところは、少数意見なんだけれども、その少数と言うことが決定権を持たないと言うことにはならず、逆に少数だからこそ採用されるというような考え方はないかという事なんです。
つまり、「多数だから」採用するべきだという常識的感覚を疑ってもいいのではないか?と言う問題です。少数者はどうしても哀れですから。

くじや占いは、少数意見でも採用されますね。なるほどです。神頼みってやつですね。でも、これも確率の問題ですのでちょっと意味が違ってきます。

武器なき”預言者”とは預言者が何か力ないものという感じなんでしょうかね。

お礼日時:2007/04/02 00:13

それ本心なら


彼方が見える.
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この回答へのお礼

いかにも本心である。

お礼日時:2007/04/02 00:09

個人的には少数意見とかコンセンサスとかはそれほど問題ではないと思います。


決議というのは選択ではないでしょうか。何のための選択でしょうか。それはよい結果を出すための選択なのではないでしょうか。つまりよい結果が重要なのであって少数、コンセンサスは問題ではないと思います。
選択とは未来予測ではないでしょうか。明らかに結果が分かっていることに対して選択するでしょうか。例えば、この高さから落ちれば怪我をすると分かっていれば、飛び降りるかどうかの選択はしません。
予測の段階では少数、多数、コンセンサスは実のところあまり意味はありません。予測が外れたときに少数意見を取り入れていたら、ほら見たことかと言われます。だから多数意見とコンセンサスを重視するのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

多数意見とコンセンサスがあっても、かならずしも怪我をしない選択をしたとは保障できないですね。でも、多数であったから納得できる、というのはなんか釈然としない。というかどうも好きになれないんです。
未来予測のお考えはとても納得いたします。

お礼日時:2007/04/02 00:08

有り得ないことはないと思います。


主に国会のような場面を想定して書いていますが、
以下のように考えています。

議題内容に関与している様々な立場の人達が会議に参加する。
代表者である場合は、あらかじめ「議題における、その立場の人達にとっての問題点等の共通認識」を用意する。
第1回の会議を「現状における共通の認識を得るための会議」として始め、
あらゆる立場からの意見を聞き、問題の全体的把握に努める。
現状において、共通の認識が得られるまでやる。
データ不足等の場合は、後日改めて行う。
第2回の会議を「では、どうしたらよいか」について話し合う。
共通の目的意識が持てるまで話し合う。

卓上の論理的なところはあるかもしれませんが、
一応「多数決」でも「独裁」でもないと思います。
いい質問だと思いました。
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この回答へのお礼

民主主義的に、参加者全員に対して広く意見を求め参加する、と言う姿勢は大事です。ただ、決定場面において、少数者がなおざりにされないことはできないだろうかと思いました。

お礼日時:2007/04/02 00:06

いままで行っていた方法を変えるときに全会一致が条件になるというようなルールがローカルな所ではあるらしいですよ。

死刑に関しても裁判官の意見が分かれた場合には死刑にしないというルールが提案されたことがあるらしいです。
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この回答へのお礼

全会一致も、一種の民主主義的多数決ですよ。条件付と言う感じですけど。でも、たしかに少しでも納得できるのをという表れなんでしょうね。

お礼日時:2007/04/02 00:04

本来の意味での


談合.
民主主義が真に機能するすがた.
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この回答へのお礼

談合は民主主義とは相容れない関係ないでしょうね。

お礼日時:2007/04/02 00:03

民主主義の理念からすれば、少数意見を尊重しなくてはいけませんが、あくまでその時点で一般的なコンセンサスが足りないから少数意見となるのでしょう。

そこで十分議論を重ねるしか方法がないでしょうね。十分議論を重ねた上でそれでも多数派を説得できないのならば、一般的にコンセンサスを得られなかったということで、多数派の意見が通ることはしかたないでしょう。
また国会等では政党、派閥などの縛りもあります。必ずしも自分の意見と同じではなくても同意しなくてはいけないこともあります。そういうシステムなのである程度はしかたないことでしょう。できるのは、できるだけ派閥などら拘らない、個人の意見を尊重できる雰囲気作りをしていくしかないでしょうね。無理を言って(自分が正しいと信じる)少数意見をゴリ押ししたら、それもまた「独裁」となります。
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この回答へのお礼

やはり、仕方ないですよね。それが「人間的」常識と言うものなのでしょう。少数者が勝ち取れるような、なにか超常識的なシステムはないかと思いました。

お礼日時:2007/04/02 00:02

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