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大番は京・大坂への加番の道中、江戸を出たら10万石の格式だったそうですが、10万石の格式というと具体的に一般の行列とどういう点が違ったのでしょうか?

大番の道中は50人にのぼる番士は皆、馬で移動したのでしょうか?

大坂への加番には、大番与力・同心も随行したのでしょうか?

A 回答 (3件)

No.2です。


番頭4人は誤りで組頭4人でした。
石高は本により異なりますが、吉川弘文館の「旗本」によりました。   組頭は600石になっています。   与力は200石、番士(番衆)は知行でなく米80石で、給与としては与力と同じですが、格下です。 
 ただこれは原則で人数が不足なら、高禄の旗本が番衆になったかどうか、他の本では番士は300俵(米105~120石)給与としては与力より多くなります。   「旗本」によると与力は10騎、番士は50人と書かれています。
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この回答へのお礼

文献によって違うのですね。
下の御礼ではウィキを引用しましたが、以前読んだ三田村鳶魚のお弟子さんの書いた「江戸の旗本辞典」では組頭の役高は600石だった気がしました。

米80石というのは知行80石ではなく切米で80石という意味だったのですね。失礼しました。
でも中には一千石クラスの旗本も就いている由緒ある番衆が与力より格下というのは腑に落ちません。大番与力は町奉行配下の与力同様に御家人の職ではないのでしょうか。
同じ番方でも、小十人組の組頭すら大概順の上では大番の番衆より格下だったようですし、大番の番衆が与力より格下というのは疑問があります。
ド素人の私が僭越なことを言って申し訳ありません。


ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/27 21:06

十万石の大名行列は騎乗武士10騎、総人数240~250人と定められていたようです。

  
大坂在番を命じられた大番衆は大番頭の下に、番頭4人、与力(200石)10人、これ等が騎乗武士で番士(米80石)50人、同心20人は徒士です。  他に中間や荷物運びの小者など160~170人を引き連れ総勢240~250人の行列が許されたのでしょう。  騎士が少し多いが、戦時体制ということですから。
大番頭は気分がよかったと思いますが、大坂では江戸の貧乏旗本とさげすまれたでしょうから、行きかえり位はよい気分をしないと。
なお大坂加番は大坂近くの小大名が命じられ、江戸から行くのは在番といいます。
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この回答へのお礼

すみません。間違えました。
加番は小大名でしたね。大坂城の警固は大番がメインで、加番が補佐的なポジションだったようですね。
役料として一万石が与えられたおいしい役だったようですね。

大番は1組につき、番頭1(高5千石)、組頭4(高三百石)、番士50(二百石~千石台)、与力10(二百石)、同心20の陣容で、番士が大番のメインだと思っていました。

中間や小者なども多くつれていたのでしょうね。250人となると結構な人数ですね。

大番頭は五千石・菊間詰で、譜代大名が就任することもあった番方最高位の要職ですから大坂で貧乏旗本とさげすまれたというのは?な感じがします。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/27 17:23

上方在番は軍事行動でしたから武具、馬具一式を用意し行軍形式でした。


2組が移動しますので、1の組の番頭が先手として番衆、与力、同心を率いて出発し、翌日には2の組の組頭、番衆、与力、同心が出発し、3日目に2の組の番頭が殿をつとめました。
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この回答へのお礼

上方在番は道中も軍事行動だったのですね。
武具・馬具を運ぶ小者は重くて大変だったでしょうね・・・
軍事行動となると用人など士分の家臣も引き連れていったのでしょうか。
3日に分かれて出発したのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/27 17:27

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