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ご存知の方、宜しくお願いします。

「動機付け」とは「生活体に行動を起こさせ、目標に向かわせる心理的な過程をいう。」とありますが、完璧な理解に至りません。

具体的な実例で教えてください。

A 回答 (5件)

こんにちは。


ANo.4です。質問者さんの真剣なお考えに回答の価値ありと感じています。

>質問ですが、「動機付け」という命名は妥当だと思いますか?

何とも言えません。
問題なのは名前ではなく、その解釈が妥当であるかどうかです。質問者さんも既に感付いておられるのではないですか。
これは本来、心理学の分野で行動の機序を論じたものです。ウィキペディア辺りの動機付けに関する説明はご覧になりましたでしょうか。幾つかの論説があり、異なる立場から行動の結果としての目標達成にそのプロセスを分析しています。そして、これはみなほとんど人間の行動を対象にしたものであるだけではなく、明らかに社会行動を前提とした解釈と思われるものもあります。
しかしながら、行動の動機付けというものを動物としての本質的な営みと捉えるならば、そこには必ずや何らかの生理学的解釈が必要なはずです。果たして、古典心理学においては当然のことながら、多くの理論においてこの部分がほとんど手付かずに終わっています。このため、社会学や経営学、あるいは「能力開発講座」などでは「動機付け」や「マズローの欲求説」などは使いたい放題に使われています。これは全て、きちんとした結論を出すことのできなかった心理学の責任です。
最初の回答で触れましたように、もし「生活体」という言葉が必要に応じて用いられたものであるとしますならば、辞書の定義は極めて安易にゆがめられたものです。同様に、「目標に向かわせる作用」といいますのは何の学術的根拠もなく、ただ現象を説明するために当てはめられただけという可能性があります。ですから、質問者さんはそこに「衝動」という言葉を用いなければならなくなってしまったのではないでしょうか。矛盾点のあることもご承知おき頂きたいと申し上げました。欠陥は吊り橋だけではなく、向こう岸にもあります。
私がそれに拘らなかったのは、前回答で申し上げました通り、動機付けには生命現象としてのより本質的な捉え方があるというのがそもそも持論であるからです。ですが、それに関する直接の論議を避けましたのは、如何に生物学的な解釈が必要とはいえ、私の独善で従来の心理学における検証を否定してしまうなどということはとてもできないからです。
解釈しろとは申し上げられません、納得できないかとお伺いしたのはこのような理由からです。そして、質問者さんがそのようにより深くお考えであるならば、実は、ずいぶん以前から私はそれを支持する立場にあります。ですが、そのためにはより多くの情報を集め、ひとつひとつ冷静に検証してゆく必要があります。冷静にといいますのは、辞書も百貨辞典も、決して鵜呑みにしてはならないということです。なぜ自分自身の手でそこまでしなければならないのかと言いますならば、それは、従来の心理学の教科書には、恐らく質問者さんの求める答えは書いてないからです。
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こんにちは。


ANo.3です。長い回答を全部読んで頂き、ありがとうございます。

>現象→刺激→衝動の誘発(=動機付け?)→衝動の発生→行動の選択→実行→結果

そうですね。
これでゆきますと、動機付けとは「衝動」を発生させるものであり、行動とはその衝動によって選択されているということになります。恐らく質問者さんは、衝動とは目的に対する行動の選択に「働き掛けるもの」として考えておられるのだと思います。私も最初は、あれっ? と思いましたが、良くよく考えましても、質問者さんがそうお考えになることに何の矛盾もないんです。全くその通りですね。
ですが、飽くまで行動とは刺激入力に対して下される内的要因に基づく価値判断に従って「何を目的に」「どのような行動」が決定されるものであり、動機付けとはそのプロセスであります。では、「衝動」とはいったい何処に、どのようにして発生するものなのでしょうか。
念のため「衝動」という言葉を辞書で調べますと、このようなっていました。

(1)強く心をつき動かすこと。また、そのように働きかける力。ショック。
(2)よく考えないで、発作的・本能的に行動しようとする心の動き。

これは意外でしたね。私はてっきり心理学用語かなんかで、それにはきちんとした定義があるものだとばかり思っていたのですが、どうやらそうではないらしいですね。取り敢えず、「衝動という心理現象」は具体的には存在しないようです。
では、まず(1)の定義に従いますならば、それは「外的刺激の強さ」や「内的欲求の深さ」に比例するものであると考えることができます。ならば、「衝動」とは動機付けのプロセスにおけるボルテージを指すものであります。ですから、このレベルが高ければ行動の選択に対する「働き掛け」はより強くなるわけですから、図らずも(2)の定義とも一致することになります。ですが、一般的にはこれを「理性的な行動」とは言いませんよね。ならば、「理性行動の選択」というのは何の働き掛けもなしに行われているというのでしょうか。
そんなことはありませんよね。何らかの行動が選択されるということは、間違いなく知覚入力に対する反応が発生し、内的規準に従った判定がきちんと下されているということです。ですから、動機付けとは「外的誘因」と「内的動因」の両方を成立させる条件が一定のレベルに達し、行動の選択に対する働きかけが既に可能な状態であると解釈するべきではないでしょうか。ならば、動機付けによる行動選択のプロセスにわざわざ「衝動の発生」というイベントを組み入れる必要はないわけです。

この「働きかけが可能なレベルに達した状態」を「衝動の発生」とすることができないことはありません。ですが、お腹がペコペコの状態で大好物を見せられるならばそれは衝動ですが、昼飯時だからラーメンでも食いに行くかというのは、これはちょっと衝動の発生とはし難いように思います。このように、どうしても客観的な解釈に乏しくなってしまうのは、それは「衝動」というものの定義があいまいであるからです。
それはともかく、これはもはや解釈の問題ではないでしょうか。私は何の抵抗もなく受け入れられますが、質問者さんは動機付けの定義における「行動を選択させ、目標に向かわせる」という最も不可解な部分を「衝動の発生」によって解決しようとしています。
どうして不可解なのかと言いますならば、何の衝動も発生しなければ行動が選択され、目的に対して動けるはずがない、ということですよね。全くその通りであり、何処も間違ってはいません。ですが、当初から気に掛かっていたのですが、私はそのことが返って質問者さんの動機付けに対する理解を混乱させているように思えてなりません。
動機付けが成されるということは、目的に対する行動の実行は既に可能な状態であるということです。この解釈では納得できませんでしょうか。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。

その文章としては理解できます。が例えば、理解に至る吊橋のあるとして、吊橋の所々に欠落があり、その欠落も自分の中で漠然としていているために自己解決することも、他者に投げ掛けることもできない……。

質問ですが、「動機付け」という命名は妥当だと思いますか?

お礼日時:2007/05/03 21:59

こんにちは。


ANo.1です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。
たいへん意外なご返答を頂きましたので少々驚いています。ですが、これで質問者さんが「動機付けの定義」に就いて完璧な理解に至らないと仰る理由が分かりました。

>報酬系神経回路を刺激するように「動機付け」がなされている。(この文章自体が不適切な表現かもしれませんが)

不適切などということは決してありません。これは事実ですし、むしろ極めて正しい理解だと思います。
ですが、ここでひとつはっきりとさせておかなければならないのは、報酬系の賦活といいますのは「動機付けのプロセスには含まれない」ということです。ですから、これをそのまま定義の解釈に当てはめようとしますと様々な矛盾が発生することになります。前回答で申し上げました通り、動機付けとは「外的誘因」と「内的動因」に従い特定の目的に対して行動の選択が成される過程を言います。そして報酬系の賦活とは、そのようにして動機付けが行われ、飽くまで目的に応じた行動の実行が可能な状態になったあとで発生するものです。
それからもうひとつは、動機付けによって発生するのは報酬系の反応だけではないということですね。「報酬系回路(幸福回路)」といいますのは「中脳辺縁系路」における「DA(ドーパミン)投射」によって賦活され、脳内に「快感反応」を発生させるというものです。この反応は「報酬刺激」の入力によって発生するものでありますが、我々高等動物においてはそれを「未来報酬」とした高度な行動の選択が可能です。では、「動機付け」とはこの報酬回路を刺激することによって目的に対する行動の選択を可能にするものであるということでありますならば、それは明らかに間違った解釈です。何故ならば、まずこの反応は動機付けが成されたあとに発生するものですし、報酬系では報酬刺激に応じた行動は実現できても「攻撃行動」や「逃避行動」に動機付けを行うことはどうやってもできないからです。ですから、仮に報酬回路を刺激することが動機付けであるとしますならば、我々は嫌悪刺激の入力に対しては一切の行動を選択することができないということになってしまいます。
では、同じ「DA系投射路」でありますならば「中脳皮質路」が嫌悪刺激に対する反応を発生させます。これが回避行動を実現するための連絡路は未だ特定されていませんが、これによって接近行動に抑制が掛けられるというのは間違いありません。そして、嫌悪刺激が入力された状態でありますならば、「攻撃・逃避」の判定を下す「中脳中心灰白質」に対しましては、別に「NA(ノルアドレナリン)系のストレス対処反応」として「青斑核NA投射」がきちんと働き掛けます。
これがどういうことかと申しますと、つまり報酬系の賦活が報酬刺激に対する動機付けによって発生するということは、即ち何らかの動機付けが成されることにより、我々動物はその結果として「目的に応じた適切な身体反応」を発生させているということですね。そして、取りも直さずこれは「外的誘因」と「内的動因」によって目的に対する特定の行動が選択されるのと全くの同じことでありまして、定義を明確にしようとするならば、これを「動機付けの役割」と解釈する必要があります。
ということでありますので、報酬刺激に基づく動機付けによって報酬系に反応が発生するというのは紛れもない事実ではありますが、飽くまでそれは動機付けのプロセスに含まれるものではないと申し上げた理由はこれでご理解頂けると思います。本来、DA(ドーパミン)やNA(ノルアドレナリン)といいますのは「修飾系伝達物質」と呼ばれており、これらは何らかの情報をやり取りするための神経伝達物質ではなく、標的の神経系広域に対して一斉に投射され、その働きを変化させるというものです。
働きを変化させるというのは「修飾作用」を施すということでありまして、何らかの機能を持つ神経系に「活性投射」が行われるならばその反応は発生しやすくなりますし、連絡系統に「抑制修飾」が掛かりますならば信号が伝わりにくくなります。ですから、中脳辺縁系路におけるDAの分泌といいますのは、何らかの報酬情報を伝達するものではなく、「前頭前野」「扁桃体」「側座核」など、報酬回路を構成する神経系の活動を一斉に修飾し、その反応を活性化させたり、発生した幸福信号のやり取りをコントロールするためのものなんです。従いまして、このようにDAなど修飾系伝達物質の投射によって活性化する報酬系の反応といいますのは、実際に行動の選択を行うためのものではなく、飽くまでそれに関わる神経系の働きを修飾・支援することにより、動機付けに従って決定された目的をより円滑に実現するため、与えられた状況に応じて発生しているものであるということになります。

>報酬系神経回路を刺激するように「外的刺激から特定の衝動が誘発されるような仕組み」がなされている。
>という解釈は間違いでしょうか?

何処も全く間違ってはいませんよね。そして、これまでご説明致しましたように、報酬反応の発生は「結果」であり、「外的刺激から特定の衝動が誘発される」というのが「外的誘因」と「内的動因」によって「目的と欲求」の決定される「動機付けのプロセス」に当たるわけですね。
質問者さんがご指摘をなさいます、この外的刺激から報酬反応が誘発される機能といいますのは、
「知覚入力―大脳辺縁系―側座核―淡蒼球―前頭前野―側座核」
という経路で実際に存在します。
この内、淡蒼球と前頭前野から「腹側皮蓋野」に活性投射があり、これにより腹側皮蓋野は報酬系に対してDAの広域投射を行います。
前頭前野から再び側座核に戻っていますのは、このようなループを作ることによって学習を行い、その学習結果を再びこの回路で使うためです。そして、ここから腹側皮蓋野に連絡がゆくわけですから、この回路は学習結果に基づいてDAの分泌を行うというたいへん便利な機能を持っているということになります。
ここで最も重要なことは、知覚入力に対する価値判断は「大脳辺縁系の情動反応」に従って既に行われているということです。その下の側座核といいますのは大脳辺縁系の反応を運動神経系や自律神経系に出力するものです。ですから、動機付けはこの過程で既に終了しており、報酬系が働かなくとも行動を実行することは幾らでもできてしまうというわけです。
空腹の状態の動物に餌を見せますと、「側座核」におけるDA(ドーパミン)の分泌量が増えます。即ち快感反応が発生するということですね。ですが、「腹側皮蓋野」からDAの分泌があるということは、取りも直さずこれは空腹の状態という「内的動因」と餌の知覚刺激という「外的誘因」によって動機付けは既に行われているということです。従いまして、動物は別にその快感に対して摂食行動を選択しているわけではないということになります。そして、この動機付けは生命中枢における生得的な「無条件反応」によって行われています。では、このDAの分泌に伴う快感の発生そのものを「内的動因」として動機付けを行うためには高次中枢における必ずや学習が必要となるわけですが、このことは上記の解剖学的事実と一致します。利益獲得の結果が成功報酬としてひとたび学習されますならば、次からはそれを「未来報酬」とした行動の選択を行うことが実際に可能となります。
ですから、これにより我々人間は段階的な目標を設定して最終的な目的に到達するというたいへん高度な計画行動を実現することができるわけですから、このプロセスを目的に対する接近とする考え方は別に間違いではありません。ですが、これまでくどくどと申し上げました通り、それではやはり動機付けの本質的な構造とは異なる解釈と言わなければなりません。何故ならば、その学習結果に対して動機付けを行っているのは報酬反応ではなく、飽くまで大脳皮質や大脳辺縁系であり、ここでも動機付けの要素となるのは「外的誘因」と「内的動因」以外の何物でもないからです。ですから、動機付けの定義に対する解釈といいますのは、やはり何処から見てもこの原理に基づいて成されなければならないということになると思います。
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この回答へのお礼

有り難うございます。

度々申し訳ありませんが、間違いでしたらすみません。

(かなり大雑把ですが)現象→刺激→衝動の誘発(=動機付け?)→衝動の発生→行動の選択→実行→結果

不適切部分の指摘をお願いします。

お礼日時:2007/05/02 18:24

ある事柄が自分にとってどれほど「重要か」で変わってくると思います。


潜在意識が重要な影響を与えていると思います。
人間は潜在意識=(主人)顕在意識(召使)の関係になっています。
その人がある事柄をどれほど「重要」と感じるか・・・それにより潜在意識にすり込まれる度合いが違ってきます。
例えばタバコを辞めようかと考えている人の場合。
体に悪いから辞めたい・・・・とはわかっていても、まだ周囲では吸っている人もいるし、自分でも少し調子が悪いけど、それほど重大な自覚はない。それにニコチンと精神的な依存もあるので、結局辞める事ができません。
顕在意識の目標は「タバコを辞める」ですが、潜在意識には「吸いたい、特に辞めたくない、吸っていても大丈夫」という思いがすり込まれていますから顕在意識や体は潜在意識の言うとおりに行動する事になります。
つまり潜在意識は絶対的な力を持っています。体に悪い・・・という情報は入ってきても、本人にとってはそれほど重要な事ではない・・と認識した場合、潜在意識を書き換える事は不可能です。なのでタバコを辞める動機付けに失敗しつづけます。
しかし、ある時健康診断でレントゲンをとったら、医者に影が見えるから1週間後に精密検査をします・・・・と言われたらどうでしょう。
もし本人にとってそれが「大変重要」な事でしたら、一発で潜在意識が書き換わり、「タバコは体に悪い、吸ってはいけない」となり、直ぐに辞める事ができます。タバコを辞める動機付けが出来たのです。
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こんにちは。


「動機」とは行動の原因や理由であります。原因とは「外的要因」として発生するものであり、理由とは行動を選択する側の「内的要因」として存在するものです。何らかの行動を選択するためには、まず原因が発生し、それが行動の目的となるための理由が必要です。これが揃わなければ我々は行動を選択し、それを実行に移すことはできません。そして「動機付け」とは、これによって実際に行動の選択が可能となるプロセス、即ち「内的過程」を言います。

我々動物の「行動」といいますのは、知覚入力に対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって選択されます。
行動の原因となります「外的要因」の発生は知覚情報として中枢系に入力されます。中枢系には「生得的な反応規準」や「生後の学習結果」など様々な「判定基準」が獲得されており、「利益・不利益の価値判断」はこれに基づいて行われます。そして「目的」とは、「生物学的利益の獲得」であります。
従いまして、「目的」とは「外的要因」に対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって決定されるものであり、「行動」はより価値の高い結果に対して選択されます。これにより、我々動物は与えられた状況に対応した適切な行動を選択することが可能となります。
「動機付け」とは、このような手続きによって目的が決定され、それに対して「行動の選択が可能となる内的な過程」を言います。そして、外的要因として発生した原因が目的対象となって実際に行動選択の動機として働くことを「外的誘因」といい、それを行動の目的とするための理由として「生活体の側」に内在する条件を「内的動因」といいます。そして、これは中枢系の価値判断であり、行動を選択する側の内的要因に基づいて行われるものであるため、それは「内的・心理的な過程」ということになります。

さて、例えば摂食行動の場合、「餌の発見」という知覚入力が「外的要因」に当たります。そして、「空腹」という生理状態が「内的要因」であり、即ち行動を選択する側の「理由・事情」として内在するものであります。
学習行動でありますならば、知覚入力に対する「利益・不利益の価値判断」というのは生後環境から獲得された学習結果に基づいて行われます。これに対しまして、本能行動の場合、生命中枢の反応規準はその目的までが遺伝的に予めプログラムされているものであり、結果を変更するということは絶対にできません。では、「餌の発見」という外的要因が発生しているにも拘わらず、空腹でない場合には摂食行動が選択されないのは何故でしょうか。それは、「動機付け」が成されていないからですね。
外的要因に対する利益・不利益の価値判断は行動を選択する側の内的要因に基づいて行われるものです。ならば、空腹という内的要因が発生していない場合には餌の発見という外的要因に対して「利益」という判定が下されることはありません。従いまして、利益という判定が下されない以上、例え外的要因が発生しましても、それが行動選択の動機としては働かないわけですね。では、空腹という内的条件が加わり、餌の発見という外的要因に対して利益という判定が下されますならば、ここで初めてそれは行動選択のための「外的誘因」として機能することになります。そしてこれにより、摂食行動に対する「動機付け」は成されたということになるわけですね。

行動選択の動機として働く「外的誘因」と「内的動因」とはこのような関係にあり、原因と理由が両立しなければ動機付けは成されません。
目的とは生物学的利益の獲得であります。そして行動とは、その目的を達成するために選択されるものです。従いまして、利益・不利益の価値判断が行われなければ目的そのものが成立しませんので、我々は如何なる行動も選択することができないわけです。「内的動因」とは、この価値判断を行うために行動を選択する側に内在する内的要因に基づくものであります。そしてこれにより、我々は「外的誘因」を目的対象とした行動の選択を行うことが可能となります。
テレビのコマーシャルで「この商品は安い!」などと強調するのは、消費者に価値判断を行わせることによって動機付けを促しているということです。ですが、消費者の方に特にその事情、即ち内的要因が存在しなければそれが利益と判定されることはありません。ですから、この場合は幾ら「安い!」と訴えても、それが購買行動を選択するための「外的誘因」にはならない、ということですね。

さて、質問者さんがお持ちになりましたのは「動機付けの定義」としては極めて一般的なもののようです。ですが、「生活体」といいますからには、厳密にはここには動物も植物も、その両方が含まれるわけです。試しにgooの辞書を調べてみましたら、ここでもやはり「生活体」という言葉が使われていました。ですが、植物には行動も心理もありませんので、これは明らかに矛盾しますよね。ならば、動機付けが「生活体」を対象としたものとして弁別されるためには、
それは、
「動機付けとは生体活動を変化させ、生物学的目的を司る内的過程」
と定義されなければなりません。
そして、これに従いますならば、それは動物の行動選択に限定されたり、神経系の情報処理として行われる心理的な過程と言及されるものではなく、「動機付け」とは、それはあらゆる生命現象が成立するための極めて本質的なメカニズムを指すものであるということになります。
ですが、恐らく一般的な心理学的解釈でありますならば、飽くまでそれは人間や動物の行動選択を対象にしたものであり、そこまで解釈を広げる必要はないのかも知れません。では、何故「生活体」などという言葉があちらこちらで不用意に用いられるのかは分かりませんが、敢えてそう表現されます以上、私はこのような生物学的解釈も十分に可能であると考えます。
理屈っぽいことを言うようですが、このような矛盾点があるということと、それ以上の解釈も可能であるということも、一応ご承知おき下さい。
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この回答へのお礼

間違っているかもしれませんが、いや、間違っていると思いますが

報酬系神経回路を刺激するように「動機付け」がなされている。(この文章自体が不適切な表現かもしれませんが)

報酬系神経回路を刺激するように「外的刺激から特定の衝動が誘発されるような仕組み」がなされている。

という解釈は間違いでしょうか?

お礼日時:2007/04/30 18:29

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