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ユダヤ人が流浪の民となった歴史的原因は何でしょうか?教えてください。

A 回答 (3件)

私の認識を書きます。



2000年近く国無き民となった原因は、ローマ帝国とのユダヤ戦争ですが、その前からディアスポラ(離散)したユダヤ人はいたんですね。
というより、エルサレムに住むユダヤ人より外に住むユダヤ人の方が圧倒的に多かった。



歴史でみますとヘブライ人の祖はアブラムで、アブラムはウルの出身で、軍隊にくっついていた商人だったそうです。
軍隊が遠征すると同行していた。
定住していなかったわけです。

そして75歳の時神の啓示を受けたことで集団から離れて、妻と甥とハランの人たちとともにカナンの土地に向かった。
この神の啓示を受けたとき、神聖文字Hがついて、アブラハムと改名。


しかし、飢餓にみまわれエジプトに避難、そこで妻を妹と偽り、妻はエジプトの王の妻となり、その夫(兄)はのアブラハムはその恩恵を受けて一財産を築いた。

エジプト王家に不幸が起こったとき、その原因はアブラハムの妻を娶ったからとなり、王はアブラハムと妻をエジプトの支配地であるパレスチナに遠ざけた。

アブラハムは長年移動していって、とうとうヨルダン川西岸にたどりついた。

ヘブライ人という意味は「川(ユーフラテス)向こうから来た人々」って意味もあるそうです。
ヘブライ人が流れる民ということをも意味する理由は、彼らは移動する民だからのようです。

実際神殿は移動式で、日本の神輿みたいなものだったらしく、どこに移動しても奉りができたんですね。

やがてパレスチナに定住することになり、12支族でそれぞれの土地を分配した。
これがイスラエル民族。
(ヤコブの子孫)

で、祭祀たちによって統率されていたが、王を立てる気運になり、サウルを王に立て、イスラエル王国を作った。
ソロモンの時代まではイスラエル王国で、神殿まで建設して定住していたんですが、ソロモンが死ぬと北と南に分裂。

北のイスラエル王国が後にアッシリアにより攻め落とされ、民はアッシリアに連れ去られた。

南のユダ王国はバビロニアの攻撃により王を殺され、有力者3000人ほどがバビロンに連れ去られた。


で、ユダヤ人というのは、恐らく南ユダ(ユダヤ)王国にいた人々のことだと思うんですね。

南王朝の有力者がバビロンに捕囚されたユダヤ人がペルシャによってパレスチナの土地に帰還することとなり、バビロン捕囚によろディアスポラ(離散)させられたが、元のユダ王国のあった土地に戻った。
(ただし、バビロンでかなりの地位についたユダヤ人もいて、開放後に戻らなかった人たちもいた。)


この後も絶滅計画により絶滅の危機にさらされるんですが、生き残り、ユダヤ人ではないヘロデ大王が神殿を建設して、結束をはかりつつ、大帝国ローマとも良い関係を築いていった。
ローマ皇帝はユダヤ人の宗教について干渉しなかったかわりに重税を置いた。


このヘロデ大王が死去すると、またイスラエルはローマ帝国の中に組み込まれることになり、ローマ帝国の属州になったんですね。

ローマ帝国の拡大は続き、エジプトのアレキサンドリアと並んでディアスポラユダヤ人最大の拠点であったシリアの首都アンティオキアもローマの属州に入った。


ユダヤ人にはいろいろローマ帝国から特権を与えられていたんですね。
それが気に食わないのが、派遣された属州の統治者たちだった。
ユダヤ人の感情をあおりまくりました。


ユダヤ人が蜂起するときは、きまって自分達の信仰を奪われそうになるとき。
エルサレム神殿にユピテル(デウス、キリスト教は神をデウスと呼ぶ)を置こうとしたり、神の子ユピテル すなわち皇帝を崇拝させようされたりなどしたとき。


黙って陵辱されるがままなことに我慢ならなかったユダヤ人の中には、信仰を守るてめにはレジスタンスを作るしかないとして、できたのが熱心党(ゼロテ党)。

提督のピラートスは赴任当時からユダヤの民を刺激するような行動に出た。
彼は強い反ユダヤ思想の持ち主で、最初のエルサレム入城の時から、皇帝の胸像が描かれている軍旗を掲げ民衆の前を行進したり、皇帝礼拝を強調するような硬貨を発行したりして、ユダヤ人を挑発していた。

ガリラヤ地方の熱心党グループは、下層階級の立場から、メシアの来臨を期待する終末論を、その行動の原理とした。

紀元31年春、エルサレムの神殿に巡礼に来たガリラヤ人一団はメシアの待望から世俗支配を打ち破って神の支配を実現しようと暴動を起こしたので、ピラートスによって鎮圧され殺された。

36年ピラートスはサマリアのユダヤ人を虐殺したかどで、ユダヤ人提督の地位を失う。
その後も何人も総督は変わったがユダヤで騒乱は絶えることはなかった。
どの総督も悪政すぎた。
自らの悪行を覆い隠すために、ユダヤ人を挑発して、ローマに蜂起させようとしたんですね。


そしてとうとう機会がやってきた。
皇帝に納めるという口実でフローロスが使節を送り、エルサレムの聖なる神殿の宝庫から金を奪ったとき、至聖所を犯されたユダヤの民はもはや耐えることができなかった。

今まで怒る民をなだめてローマと仲良くしようととりもっていた祭祀たちだが、とうとうなだめきれなかった。

ユダヤ戦争勃発。

そして第二次ユダヤ戦争勃発。


神殿は破壊しつくされ、至聖所は汚された。
虐殺はすさまじく、虐殺を免れ生き残った人はみなローマ帝国の領土に奴隷として売り飛ばされた。


こういうわけで、南ユダヤ王国の子孫は、住む土地を失ったわけです。


ですが、先ほども言ったように、ずっと前からヘブライ人は各地にディアスポラしてイスラエル以外に多く住んでいたんですね。

ユダヤ戦争で土地を失ったのは、神が自分達に与えてくれた土地として カナンに住むことにこだわった南ユダ王朝の子孫たち。

神は自分と供におられるなので、住む場所を特定しない人々の方が多かったんです。

こう理解しています。
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この回答へのお礼

丁寧な説明ありがとうございます。ユダヤ戦争か!私も調べてみます。

お礼日時:2007/05/26 19:38

ユダヤ戦争当時ローマはユダヤの統治にかなりの自由を認めていました。


しかし多神教のローマに対し、ユダヤ人は一神教でしかも信仰による統治の形を固執していました。
この相違から色々な軋轢が生じ、ユダヤ人が反乱を起こした為、ローマは鎮圧に乗り出したのがユダヤ戦争です。

当初はユダヤ軍は強力でローマ軍をうち破る勢いを見せましたが、ローマ軍の司令官がユダヤの首都エルサレムを孤立させる戦略をとった為、次第に圧迫されて各個撃破されてゆき遂に首都エルサレムも陥落しユダヤという国はなくなりました。  その後ローマはユダヤを直節統治しユダヤ国家を認めませんでした。

この為ユダヤ人は帰るべき国のない難民となり世界中に散らばっていったのです。
基本的にはユダヤ人の風俗、習慣に固執する排他的な姿勢が原因といえましょう。  これがユダヤ人の迫害の原因にもなったとおもいます。
彼らは今でもヘブライ語による教典を信仰し独特の習慣、風俗を保っています。
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ユダヤ戦争でローマ帝国に負けたから



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80% …
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