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神聖ローマ帝国とは国なんでしょうか?
オーストリアやプロイセンなどにまたがってますが、どうして色々な国を含み、かつ存在できるのでしょうか?
あと、神聖ローマ帝国の王は何者なんでしょうか?

質問ばかりですみませんがお願いします。

A 回答 (10件)

オーストリアやプロイセンなどはドイツ人を中心とする領邦国家(諸侯の国)で、支配者は王や公、伯を名乗ります。

多くの領邦君主(諸侯)のトップに立つのが「ドイツ王」で、もともとは東フランク王から始まり、教皇のお墨付きによって「皇帝」を名乗りました。

皇帝と諸侯は封建的主従関係を結んでいて、一応君臣の関係ですが、皇帝の権威は時代によって変化しました。中世の封建制については、教科書を復習していただければ良いと思います。

優秀な皇帝は強いリーダーシップを発揮しましたが、諸侯の力が強まって当たり障りのない凡庸な人物が皇帝に祭り上げられることもありました。基本的には17世紀のウェストファリア条約以降、皇帝は自分の直轄領以外には影響力を持てなくなったのです。

皇帝は諸侯の中から選挙によって選ばれます。皇帝家として有名なハプスブルク家は、もともとスイス地方の小国出身でしたが、13世紀以降オーストリアを支配するようになり、皇帝に選ばれるようになりました。

つまりオーストリアを中心にあちこちの領邦の君主だったハプスブルク家はそれらの称号とともに「皇帝」の称号も持っていたことになります。難しいですね。
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「国家」という概念がまだ確立していない中世にできて、おまけに800年も続いた「神聖ローマ帝国」を、現代の概念で理解しがちな我々が、神聖ローマ帝国を『わかりやすく』理解しようとすればするほど、現実からかけ離れていってしまいます。

そういう限界を知りつつも、あえて、無理に「わかりやすく」するなら、
1.神聖ローマ皇帝は、ドイツ王がもつ称号の一つ。(但し、ドイツ王になると、必ず皇帝になれた訳ではない)。
2.ドイツ王(あるいは神聖ローマ皇帝)を名目上の君主とする地域は、大まかに言えば、現代のドイツとまぁまぁ一致するので、「ドイツ」という国と思っても、さほど問題は無い。(但し、国家組織を持つ国としてのドイツは、962年から存在していたと思うよりは、1871年のプロイセンによる統一までは存在しない、と考えた方がまし。)
といったところでしょうか。
但し、ドイツ王という言い方をしましたが、現代のドイツと領域が一致する部分が多いのでわかりやすからそう読んだだけで、実際の称号は、東フランク王であったり、ローマ人の王であったりと、色々です。

>オーストリアやプロイセンなどにまたがってますが、どうして色々な国を含み、かつ存在できるのでしょうか?
>あと、神聖ローマ帝国の王は何者なんでしょうか?

まず、↓の地図をご覧下さい。18世紀末の神聖ローマ帝国を表すものです。
http://www.hoeckmann.de/germany/index.htm
この地図では、神聖ローマ帝国の領域は赤線で囲まれていますが、その中に「Kingdom of Bohemia」っていうのがあります。現代的感覚からすれば、もし神聖ローマ帝国を『国』と考えるのなら、国の中に国があるみたいで変に感じられると思います。「皇帝は王以上の存在だったから良いんだ」という事で納得したくもなります。しかし、実際の経緯は、もう少しややこしいです。ボヘミアは、10世紀半ばにドイツ王(より正確には東フランク王と言うべき)オットー1世の圧迫を受けて、その宗主権を認めさせられます。その後、オットーが神聖ローマ皇帝になったので、ボヘミアも神聖ローマ帝国の一部になりました。しかし、ドイツ王の宗主権はさして強くなく独立性の強い地域に留まります。
12世紀の末に、ボヘミア公オットカルが、ドイツ王=神聖ローマ皇帝の地位をめぐる争いに乗じて、ドイツ王を称する二人のうち一人(神聖ローマ皇帝ではない)から王の称号を得た事で、ボヘミア公領はボヘミア王国になります。(その後、ドイツ王としては二代後の神聖ローマ皇帝から王位を確認される)
つまり、ボヘミア王が王になったのは、神聖ローマ皇帝から王に任ぜられたからではなく、緩やかな(=名目上の)宗主権を持つドイツ王に、ボヘミア王と言う称号を名乗る事を認めさせたからです。「王と王は同格でなければならない」というのは、皇帝を中心とするヒエラルキーが概念としては確立していたアジアでの常識であって、ヨーロッパには単純には当て嵌まりません。

次に、プロイセンですが、形式的には、ブランデンブルク選帝侯領(=神聖ローマ帝国の一部)と、プロイセン王国に分けられ、上の地図は、それに従っています。
一方、ほぼ同時期の状況を示した↓の地図では、プロイセン王国として同じ色で描かれ、その中に神聖ローマ帝国の『国境』が走っています。
http://www.ieg-maps.uni-mainz.de/gif/pEu789Serie …
これは、↑の地図が誤りと言うよりは、実態と建前のどちらに従って書くか、の違いです。ドイツ王や神聖ローマ皇帝の地位は、オットー大帝の戴冠後300年ぐらいは、まぁ、一応の意味はありました。(勿論、その中にはボヘミアのように、ほぼ独立した地域も含まれているので、現代のような「国家」をイメージしてはいけません。また、ローマ皇帝の地位を口実にイタリアでの勢力拡大に熱心だった為、かえってドイツでの権力確立が疎かになった、という要素もあります。)しかし、13世紀半ば~後半の約20年のいわゆる「大空位時代」、1356年の金印勅書(皇帝は7選帝侯の選挙で決め、教皇の承認は不要とする。選帝侯の領内での完全な裁判権の承認、等々ただでさえ弱かった皇帝の権力の弱体化を決定付け、帝国が事実上分裂)、1648年のウェストファリア条約(事実上独立国家に近いレベルに達していたドイツ諸侯の主権を、正式に確認)、といった出来事を経て、ドイツ王=神聖ローマ皇帝の権力は、単なる名目上のものになっていて、18世紀末のそういう状況を、事実に即して表すならば、帝国外のプロイセン王国と帝国内のブランデンブルク選帝侯領を、まとめてプロイセン王国と表示しても、少しもおかしくありません。

因みに、オーストリアは、最初の地図ではArchduchy(訳せば大公領か?)としています。「大公領なら、国ではないから、存在してもいい」というのはあまり意味がありません。大公領でも、事実上、国家主権はもっているし、当時の国際政治を理解するには、プロイセン王国とブランデンブルク選帝侯領をともに支配するホーエンツォレルン家、オーストリア大公領もボヘミア王国もともに支配するハプスブルグ家、という単位で考えた方が、ずっとよくわかります。

そもそも、ヨーロッパの封建制度の基本は、庇護を受ける代わりに軍役等を負担する、という個人対個人の契約です。この契約が代々続く事で、慣習的に王の権威が確立していきます。ただ、封建領主及びその領内に対して、どの程度王が権力を行使できるか、というのは慣習の積み重ねとその時々の力関係によります。そういう長い過程を経て、今日のような国境内で明確な主権をもつ「国」が出来上がっている訳です。神聖ローマ帝国を考える場合、現代的な意味での「国」ができる前の、その過程を見ているのだ、という事に注意する必要があります。
ドイツor神聖ローマ帝国の場合、他の国と違って、王権あるいは帝権が弱くなる方向に動いた、という事が更に理解しにくくしているのですが、現実には、例えばフランスのカペー朝の成立時には、事実上パリ周辺にしか王権は及ばず、それ以外ではほぼ名目上の存在だった、とかいった様な例は、他にもあります。歴史を記述する場合、フランス史とかいった国単位で記述される事が多いので、なんとなく昔から、明確な境界線をもった『主権を持つ国家』があるように誤解しがちなのですが、歴史上の事実はそういう事です。学問の上では、「皇帝だから、領内に独立した諸侯が存在しえたのだ」と言う風に無理にアジア的な発想にあてはめず、現実に主権と呼べるものを行使した諸侯は、国家(orそれに近いもの)と考えるのが普通です。

長文失礼しました。

追記)ヨーロッパには「皇帝は一人だけ」という概念はありません。ローマには、東西両皇帝がいたし、中世にも東ローマ皇帝がいたからです。また、皇帝が地上での神の代理というのと、同じ意味で、皇帝の権力が及ばない地域では、「王は地上での神の代理」という概念が存在しました。
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ここは一つ 日本語版wikipediaか


英語版wikipedia を熟読してみて下さい
当時は 教会、大学、ギルド、都市国家が並立しており一つの権力がなく
その後の中央集権国民国家が成立する 一種のアンチテーゼ・前提のような
社会状態であったように思いますが・・・
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キリスト教世界では、教皇と皇帝がセットであるべきである。


という、考えを当時のヨーロッパの支配層は持っていた。
教会側から考えれば、ビザンティン教会には東ローマ皇帝がいるのに、うちんとこにいないのは、なんか気持ち悪い。
俗世間の権力者にとっては、ローマ皇帝と名乗れば他の王より、ちょっと偉いぞ!と思える。
この教会側と俗世間の権力者の思惑の一致によって、「神聖ローマ帝国」が生まれました。
神聖ローマ帝国自体は、地上に国境はありません(もともとは)だって、キリスト教世界の唯一の皇帝ですから。
なので、フランスの王が神聖ローマ帝国になろうとした時代もあります。なっていたら、神聖ローマ帝国(≒ドイツ)という概念も変わっていたでしょうが、歴史の偶然で、ドイツの王が歴代神聖ローマ帝国になっていました。(まぁ、なかには、ドイツには行かないで、ほとんどシシリアにいた皇帝もいましたが、神聖ローマ帝国≒ドイツのあたりとイタリアのあたりというのが、最初のころの意識)
ドイツ人の皇帝が続いたモノですから、途中で正式な名乗りを、神聖ローマ帝国にしてドイツ人の王なんてしていた時代もあった。

ちなみにプロイセンは神聖ローマ帝国ではありません。
ブランデンブルグ辺境伯であった、ホーエンツォレルン家が、王様をなりたかったが、ブランデンブルグ王国というのが認められなかったので、神聖ローマ帝国外にあったプロイセンも領土にしていた関係でプロイセンの王と名乗っていたのが、いつのまにかプロイセン王国の王様となりました。
※ プロイセン「の」王という 「の」が食わせ物というか、玉虫色な表現で、神聖ローマ帝国の中にあるブランデンブルグ辺境伯であってプロイセンの王であるホーエンツォレルン家の当主が統治している領土が、慣行的にプロイセン王国と呼ばれています。

というように、現代的な国家意識で理解しようとすると、ぐちゃぐちゃになるのが神聖ローマ帝国です
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神聖ローマ帝国と呼ばれるようになるのは、神聖ローマ帝国の大空位時代以降の事で、それ以前は、単に皇帝とか帝国とか言われていました。


神聖ローマ皇帝は、古代西ローマ帝国の後継者で、基本的には王の上に立つ存在でした。
(神に代わって地上の統治を行う存在)
西ローマ帝国滅亡後、保護者を失ったローマ教皇が、フランク王国のカール(シャルル)を皇帝にした事が始まりで、フランク王国分裂・滅亡後、ドイツのオットーに帝位を与えた事により、神聖ローマ帝国が始まります。
初期の神聖ローマ帝国は、ドイツ、イタリア、ブルグンドの王国がありました。
現在の、ドイツ、チェコ、オーストリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、北イタリア、フランスのプロバンス、ロレーヌ、アルゾスなどが、領土でした。
つまり、帝国は、最初から色々な国を包括する存在だったのです。

時代が経つにつれ、皇帝の権力が衰え、領内の諸侯が自立してゆきます。
自立した諸侯の中には、帝国外にも領土を持つ諸侯が現れます。
ドイツ騎士団領(プロイセン)を領有したブランデンブルク辺境伯や、ハンガリーを領有したオーストリアなどです。
これらは、本来神聖ローマ帝国内の領主(ブランデンブルク辺境伯やオーストリア大公)が、帝国外にも領土(プロシアやハンガリー)を領有したため、これら両国は、帝国内と帝国外にまたがる国になります。

両国が、帝国を離脱しないのは、離脱しない事による利益があったためです。
オーストリアは、皇帝位を事実上世襲し、帝国の君主としての地位を持ち続けました。
プロシアは、勢力を帝国内に拡張し、帝国自体をプロシアに統合する事を目的としましたので、両国とも帝国内の地位に留まりました。
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まず、皇帝と王の違いを理解してください。



皇帝とは、ローマ帝国を統べる者です。
しかし、286年にテオドシウス1世の死後に帝国は東西に分裂すると、
徐々に二つの国の関係は遠のいていきました。
そして、476年に西ローマ帝国は自然消滅します。(皇帝の後継者がいなかった)
その頃には、皇帝よりもローマ教皇が力を付け始め、さらに東ローマ皇帝に対抗するためにゲルマン諸部族の族長を利用します。
そして、フランク王国のカール大帝が800年のクリスマスにローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠を受け(カールの戴冠)、西ローマ帝国の皇帝となりました。
以後、皇帝の冠は教皇が与えるという慣習が根付くことになりました。

フランク王国も分裂すると、幾つもの諸侯に分かれ相争う封建時代に入っていきます。
そんな中で、力を付ける人々が現れました。
そして、フランク王国の東では、オットー1世が戴冠され「神聖ローマ帝国」が出来上がりました。
しかし、実態は諸侯の寄せ集めでありお互いに反目しあっていました。

一方、フランク王国の西では、シャルル1世が受け継ぎましたが、こちらも諸侯の力の方がつよく互いに反目していました。
しかし、徐々にフランス王家の力が増していき、国内を一つにまとめ上げていきました。

神聖ローマでは中々上手くいかず、歴代神聖ローマ皇帝は弱小でした。
特に、ドイツ王が対立するなど混乱をきたします。
そんな中で台頭してきたのがハプスブルク家でした。

少々分かりにくいと思うのですが、

皇帝・・・ローマ帝国の後継者。教皇によって戴冠される。
王・・・各諸侯に推され、諸侯の中の諸侯として認められた者。

と、考えると分かりやすいかと思います。
そして、神聖ローマ帝国とは大体いまのドイツ・オーストリア辺りの諸侯の集まり。
諸侯に推戴され、教皇に戴冠された者が神聖ローマ皇帝を名乗れる。
と、理解したら良いかと思います。
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 こんにちは。

私の大雑把な理解では、ハプスブルク家が自分たちの血筋の者を送り込んだ王家のうち、ローマ・カトリック教会の庇護者として自分たちで認定したものが、神聖ローマ帝国の皇帝になるというものです。ほぼすべての歴代皇帝は、どこかの王様を兼任しています。

 少々乱暴な例えですが、いまでもオーストリアやカナダなど多くの国が大英帝国時代の伝統を引きずって、イギリスの女王を国家元首としているのに似た印象を持っています。

 ハプスブルクは数百年にわたる近親婚が重なったせいか、数多くの変人を生み出したようですね。金も武力もなくて、どこかの哲学者から「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、帝国ですらない」とまで言われました。

 でもいかにもヨーロッパらしくて、私は好きです。雑駁な感想ばかりですみません。
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ドイツ史に存在した国家は理解が難解ですね。

「神聖ローマ帝国」も難解なものの一つだと思います。専門家の回答がまだないようですので、参考までに回答します。

・神聖ローマ帝国とは国なんでしょうか?
  「国家(こっか)は、一定の土地または領域と人民とに排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体のこと(ウィキペティア)」
 世界史の歴史地図にもありますとおり、神聖ローマ帝国は領域と人民を有しています。1648年以降も諸侯(オーストリアやブランデンブルク選帝侯(後のプロイセン王家)も含む)に対して一定の権限を残しています(ウェストファリア条約第65条参照)。もっとも厳密な定義で国といえるかどうかは、議論があるかもしれません。専門家の回答を期待したいです。

・オーストリアやプロイセンなどにまたがってますが、どうして色々な国を含み、かつ存在できるのでしょうか?
  分かりにくいのですが、オーストリア(諸侯の地位・封土)にハプスブルク家に封じたのは神聖ローマ皇帝です。与えることができるのは、神聖ローマ帝国の領域だから可能です。いわばオーストリアは神聖ローマ帝国内の一諸侯の名称になります(日本の幕藩体制下の藩のようなものです)。またプロイセンについては、厳密には神聖ローマ帝国に含まれていません。プロイセン王は正確には「プロイセンにおける王」であり、プロイセン(今のポーランド北部・ロシアの飛地)は、神聖ローマ帝国の領域外です。

・神聖ローマ帝国の王は何者なんでしょうか?
  神聖ローマ帝国の領域の王で、選挙で選ばれました(1356年の金印勅書時代は7選帝侯から。その後選帝侯の数は増えています)。ローマ教皇の戴冠により皇帝になりました。
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>オーストリアやプロイセンなどにまたがってますが、どうして色々な国を含み、かつ存在できるのでしょうか?


神聖ローマ帝国において、皇帝とは王よりも上位の存在です。したがって、独立した諸侯が多数存在しても、それらを内包した帝国として存在できます。

歴史の流れでざっと説明します。
西ローマ帝国滅亡後、東ローマ皇帝を頂点とするキリスト教会の秩序を無視して独立し、ローマ・カトリックを名乗った連中が、東ローマと対抗するため、フランク族の族長を勝手に西ローマ皇帝として戴冠して以来、ローマ教皇が皇帝を戴冠するという慣行になりました。(聖書の「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」という精神とは、明らかに矛盾すると思うのですが・・・)
ただし、フランク族は東ローマと敵対はしてません。西ローマ皇帝にされた点についても、最後には東ローマの許可を得ています。
さて、フランク王国が分裂すると、カトリック側は東ローマに近い東フランク王国のオットーを西ローマ皇帝として戴冠しました。ここから神聖ローマ帝国となります。諸侯の上に立つ最有力者がドイツ王となり、ローマ教皇から戴冠されて、神聖ローマ皇帝となるシステムで、歴代の中には戴冠を拒否されたドイツ王も存在します。
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辞書を引くだけで、下記のような内容が出てきますが




しんせい‐ローマ‐ていこく【神聖―帝国】
(The Holy Roman Empire) 962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハンネス12世の手で帝冠を戴いて以後、1806年フランツ2世がナポレオンに敗れて帝位を辞するまで続いたドイツ国家の呼称。歴代の国王が神聖ローマ皇帝に即位。中世後期以来、諸侯が独立性を強めたため、大小あまたの領邦に分裂、国家としての実体を次第に失った。
        (ばい こうじえん)
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