アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

パットン将軍の業績について教えてください!

A 回答 (4件)

北アフリカ戦線では、まだドイツ軍の戦車は強力な物ではありませんでした。

敵将のロンメル将軍は、敵から捕獲した戦車まで修理して使用していました。
また、巧みな戦術で戦力不足と火力の不足を補い戦い抜いたようです。

実際には、米軍から供与された英陸軍のM4シャーマンを重戦車と記録する程苦悩していたようです。

得意の大迂回から背後を突く作戦でしたが、地雷原に入り込んしまい、
電撃戦が出来ない消耗戦に陥り、エルアラメインで敗退します。

その後、トーチ作戦で米軍が上陸。
北アフリカ戦線は崩壊します。

かなりおいしい部分に登場したボーイです。

ノルマンディーは、偵察機を執拗にカレーに飛ばさせ、ドイツ軍を北部に移動させていますし、この頃のドイツ軍戦車は怖くなく、牽引88ミリ対戦車砲が怖い程度でした。

M4は欠陥があり、ドイツ軍の一部では連合軍のストーブと呼ばれていました。これは致命な欠陥であり、最後まで完全な解決が出来ないまま使用し続けます。

タイガー戦車などは、牽引88ミリ対戦車砲を流用して末期に製造された物で、生産台数も活躍期間も実は少ないのです。

最終的には、#2様のおっしゃる通りで、

アメリカは、ソ連と友好的な関係を結ぼうとします。「ロシア人とは酒は飲めない。」こう言う言動が大きな問題になります。

ダグラスマッカーサーは、台湾島で、台湾の独立を承認した事が理由で朝鮮戦争で戦闘中に解雇されます。

将軍アイクだけが器用で、大統領になります。

しかし、冷戦と共産勢力の拡大からベトナム戦争に突入。
米軍は、パットン戦車を次々投入して行きます。
    • good
    • 0

知る人がほとんどないチュニジアの戦いについて、少し補足を↓


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC% …

アフリカ上陸直後の米軍は、戦い慣れたドイツ軍からみて、素人同然の指揮だったようで、ファイド峠をめぐる戦いの一部、シディ・ブ・ジドの戦いでは、わずか6両のティーガーを主力とする部隊に打ち負かされ、44両のシャーマンを撃破されています。
1ヵ月間の戦闘で、米軍兵士2千人以上が捕虜となる惨状を聞いたルーズベルトは「我々のボーイたちは戦争ができるのか?」と嘆いたとか。
    • good
    • 0

パットンはかなり特色のある将軍で多くの逸話が知られています。



北アフリカ戦では野戦病院に自ら乗り込み、戦闘に耐えうる負傷兵や仮病人を見つけ次第前線に復帰させましたが、この時の強引さで有名になりました。

ノルマンディ上陸後は、「ガソリンの続く限り前進せよ」と命令しドイツ軍防衛線を突破、猛進撃を継続した事で勇名をうたわれました。

バルジの戦いで包囲された連合軍の救出に成功したのも彼の猪突猛進のおかげです。

パットンは戦後のソ連との関係について強硬意見をもち、どちらかといえばソ連と協調姿勢をとっていた上層部に反抗し、ソ連に徴発的言動をとった為ソ連との戦争を恐れた軍上層部から危険視され、事故死した事になっていますが暗殺説もあります。

彼はラッキーボーイでシチリア戦でもドイツ軍の防備が薄い地区を担当して、ドイツ軍の防御が厳重な東部山岳地帯を避ける事ができました。
    • good
    • 0

アフリカ戦線:チュニジアの戦いで、ドイツ軍により大損害を受けた米第2軍団の、後任司令官に就任。

士気阻喪した軍団を立て直した後、進撃を重ね、英第8軍(モントゴメリー)らと共同で枢軸軍を包囲するも、アフリカから叩きだす直前に、米第7軍司令官へ異動。
シチリア上陸作戦:米第7軍は、英第8軍の側面支援を命じられたが、英軍の苦戦を尻目にシチリア島西部を制圧、さらに東へ進撃し、英軍よりも先に枢軸側最終拠点メッシナを占領する。
ノルマンディー上陸作戦:米第3軍司令官となったパットンは、連合軍のフランス上陸を許した後、ようやく態勢を立て直しつつあったドイツ群の戦線を突破、崩壊させる。以後、ドイツ国境まで快進撃。
アルデンヌ攻勢(バルジの戦い):ドイツ軍の反撃で包囲された友軍を救出し、ドイツ軍の攻勢を頓挫させる。

と、米軍の参加した大作戦のほとんどで、先頭に立って戦った名将です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!