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果たして真実とは何ぞや?
全ては偽りによって掻き消される。
偽り剥いでもまた偽り。

自分で自分の真実、正義を作り出す事は容易ですが、人の合わせる事も大切。しかし。甘っちょろく見られるのも嫌。浅はかだと謗られてもつまらないと言われても嫌。

1.「自分が悪くなくても一旦は自分が悪かったと相手に謝るように出来る事こそが大人である。自分中心である事はまだまだ子供だ。」
とは言いますが。

↑でももしかすると、2.「そのような "ハッタリ" に、いつまでも惑わされている方が、子供。」なのかも知れない。

1のような人間が「大人」だと褒められた例(ためし)があるか?
そりゃあ、幼稚園児ではないので「褒められなければ気が済まない。」と言いたい訳では決して無い。
世界の何処かで、ひょっとすればひょっとしする。所詮は1が生涯子供とされている事も在り得るのではないのか?
裏舞台は解らない。
だから「性格だけ良い人間は、頭だけ良い人間より損をしている。」

謙遜したかて、その人が気付いてくれるとも限らないし、尚且つ振り回される事にもなるかも知れない。
きっと神はいないのだから、一生のうちに報いが来るとも限らない。
人が平等であるとも限らない。
良い事をしても天からの褒美はないし、悪い事をした者にだってバチは当たらない。

もう一つ。
1で何ぞ、どないでしょう?
このままですと、無秩序な自然状態である「弱肉強食」と言う事に関する概念は何処へ行くのでしょうか?

複数質問を伴いますが、人によっては一つしか質問がない事もあり、逆に言えば無限に質問が存在する事もあるのではにでしょうか?
では御願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

事実の信憑性やその価値よりも


それについて語る(ハッタリも含む)
そのパフォーマンスのうまさや、
いかに会話など折衝の場の
リードを取るか。
そこが主眼だと思います。

おとなとかこどもという判断も
その基準も、
そういうパワーゲームの中から見出すこと自体が
無意味で虚しいものだと思います。
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#6さんに同意致します。


貴方の言っていることは「真実」には関係ありませんね。

私はアメリカに住んで長いので最近の日本人のことを言えませんが、アメリカに来て驚いたのは、彼等は「謝る」ことを恐れます。私が日本にいた頃は交通事故に巻き込まれた時に一先ずお互いに「ごめんなさい」と言ったものです。これは決して非を認めているわけではなくて、「私は冷静に貴方と交渉をする用意ができていますよ」という信号を送っているものと捉えられていました。

それはちょうどお土産を持って行く時「つまらない物ですが」という言葉で「こんな物で貴方に対する感謝の気持ちを帳消しにする積もりなどありません、それほど感謝しています」ということを暗に表現しているのと同じです。ですから「ごめんなさい」と言わないと、喧嘩になってしまいました。きっと今では裁判と言う喧嘩になるのでしょうか。

一方アメリカでは決して「ごめんなさい」とは言いません。もし言ったら非を認めたことになり、それを言ったら最後、殴られようが、唾をを吐かれようが、文句は言えなくなります。「ごめんなさい」と言わないかぎり殴られません。

ですから、貴方の言う1とは、大人の態度とか子供の態度とか言うようなものではなく、#6さんの言うように、単なる生きるための戦略だと思います。そんなもの、真実云々というレベルではありません。

これは文化の違いから来る物であり、貴方が自分の埋め込まれている文化を何れだけ理解ているかどうかの問題です。文化の違いとは価値観の違いのことです。自分の埋め込まれている文化を体得していない人は、必ず「疎外感」という虚無感を味わい 、幸せを感じることが出来なくなります。

ですからこの問題は真実云々の問題でなく、貴方がはたして幸せを感じることが出来る人間なのか、そうでないのかという問題だと思います。
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《1.「自分が悪くなくても一旦は自分が悪かったと相手に謝るように出来る事こそが大人である。

自分中心である事はまだまだ子供だ。」》

この文章を解釈し注釈を施します。
・《自分が悪くない》場合 《一旦は》としても《自分が悪かったと相手に謝る》必要はありません。

・この《1》のように言う人はいますが 常識(一般性を持つ妥当な判断)ではありません。

・《まだまだ子供だ》と言われないようにし 《大人だなぁ》と言われるために生きたいのなら 自分で考えてそうすればよいでしょう。その場その場を切り抜けつつ すべての場面での言動に整合性をつけるということです。うそでも それが出来れば もう《子供だ》とは言われず《大人ですね》と言われるかも知れません。ただ おそらく あなたご自身は その成果が むなしいものだと知っているかも知れません。

・《わたしが悪うございました》と言って謝るのは 悪いという気持ちで述べればよいでしょう。《一旦は》という条件や 《謝ることができるように》という気遣いは要りません。《悪いという気持ち》に関係なく一旦は謝ることができるほうが 《大人である》と見るかどうかは 人それぞれです。その人の顔色をうかがって それに応じて どちらかを選ぶのは どうでしょう? 

・もし 行きつく先をどうしても知りたいというのでしたら たとえば 成るように成ると捉えればよいでしょう。
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この回答へのお礼

どうも。まるで大よそが私の想いを代弁してくれたかの様なコメントだと思いました。
今後の参考にさせて頂きますね。

まあ、実は、品行方正な1の男性が、「単純」、「馬鹿だなあ。」等と決まった事を言われ、品行方正な1の女性が、「浅はか」、「馬鹿だなあ。」等と決まった事を言われて謗られっ放しの様に思えたもので、つい…………ですね。^。^;
でも、何を言われようと根拠も無い事を言って謗る方が子供であるのでしたら、言われても気に留めず流しておける方が大人と呼ぶべきかと。
そう考えておけば帰結されなくもないですね。
ではどうも御恩に来ます。

お礼日時:2007/11/10 21:28

>真実は人の手によって自在に捻くり回せますし、生きている限り真実は掴めないものだとも思います。



その通りだと思います。つまり人の作りだした真実は偽物です。真理とは無関係です。
1であるか2であるかは主題にもあるように誰がどのように真実を作り出すかでしょう。
つまりその人が1だと言うか2だと言うかというレベルの問題です。決して真理とは無関係です。
後は作り出した人はその価値観によって生まれる結果を背負って人生を歩んでいくだけです。
またそれは1や2だけに限らず全てに言える事です。そして主題にもあるように決して人間は真理に辿り着く事は出来ません。
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私は、個人的に2の立場です。


しかし、ハッタリだと自分で言いながら、
実際そのハッタリに憧れて生きています。
1であることも少しずつ分かってきました。
敢えて2から1を学ぶ姿勢もあるでしょう。
逆は余り好きでないですね。


>複数質問

水心あれば魚心ありといったところでしょうか。
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この回答へのお礼

やあどうも。

はい。実は、また大方、
「1の男は最後まで『単純だなあ。』等と謗られている。」、そして「1の女は最後まで『浅はかだなあ。』等と謗られている。」とこんな気がするんだがね、間違いかな?
なんて吐きそうになるところだったのです。(^^)
まあ根拠も無い事を言う人が一番子供でしょうとは思いますが、生きている限り、人は騙されます、騙し合います。
全ての面で賢くなる事も悟る事も無理なのですから、人を謗る事、争う事自体が本当にくだらないと思うんですよね。

お礼日時:2007/11/07 03:05

生きるための戦略をもって「真実」と呼ぶなかれ。


損だとか嫌だとかいった私情は真実と一切関係ありません。
そういう意味で真実は私情に対しては非情残酷なものです。


なお、<無秩序>な自然状態なのに、「弱肉強食」という秩序があるのはおかしい。
時には柔よく剛を制することもある。
ゆえに弱肉強食は普遍ではない。
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> 性格だけ良い人間は、頭だけ良い人間より損をしている。


まだそんなことに拘泥してるの?と正直おどろきました。
まだ損得勘定から離れられないの?
あなたは褒美が欲しくて良い事をするの?

ここでのいくつかの質問は
各々の理念で、自己責任で対処していく内容だと思います。
損が嫌なら卑屈に生きればイイ。
褒められたいなら偽善を働けばイイ。
理性を軽んじるなら弱者を犠牲にして生き残ればイイ。
その審美を問うのは自分の美意識以外の何モノでもないと思います。

政治理念を持たず、政権を執ることだけに執着する
小沢さんを思い出しました。
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真実は複数あるかもしれませんか、そのひとつに「諸行無常」があります。

これは絶対真実でしょう。

何が正しいのかなんて自分で判断することでしょう。
周りに合わせることが正しいと判断するのもよし、反発するもよし。
そんなの自由です。
他人の評価なんて気にしないでください。
自分が自分自身の出した答えに納得できるかできないかでしょう。

相手が間違っててもそれにあわせるのは、大人だということではなくて、賢いのです。でも賢ければ幸せになれるとは限りませんよ。

この世には、努力しても報われないことなんて腐るほどあるし、また、たいした努力もしないのに果報を得てる者もいます。
人間の思い通りにはいかないのです。
だから幸せになりたいのなら、多くを望みすぎないことです。

断言すると、「弱肉強食」なんて論理は糞です。
それを振りかざす奴は、それがどんなに下卑ていて、陳腐な論理であるか気付いていないだけです。
人間は理性をもつ生物なのに、動物と同じ、自然界と同じ論理をまかり通らせるなんて、どこぞの馬鹿でしょう。

私たちは、間違った考えを、打破することを、虎視眈々と狙うべきです。
強ければなんでも許される、法に触れなければ許される、そう思っている阿呆は、いずれ駆逐します。
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交渉のテーブルにつかせるために
まず謝罪という態度もありますよ。
謝罪というのは『無条件降伏』ではありません。
譲歩できないラインというものがあります。
謝罪することと、はったりに惑わされることは
同じではありません。
典型的なのがクレーマー対応ですね。


弱肉強食から脱却するのが、人類の知恵です。
人間は仁義をを大切にしなくてはなりません。
 仁:慈しみ、いたわりの心、惻隠の情
 義:正しいことを正しいと主張する勇気
これ無しに、強者の論理を振りかざす者は信用されません。
そういう人が落ち目になれば『カネの切れ目が縁の切れ目』
とばかりに、皆離れていくでしょう。
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回答にはなっていないかも知れませんが・・・



「子供」とは なんぞや?
「大人」とは なんぞや?
こういう疑問に出す答えは、人それぞれにあるように感じてます。

「真実」とは「存在」そのモノだと、私は考えます。
その「存在」の全てを全ての人が把握できている訳でなく
それを知る手段や機会を得る事ができるとは思えません。
人間の五感や知覚も万能ではなく、生活(生きる)の為の
必要な部分があるだけだと思います。
ですから、「存在」する全てを知る能力は人にはありません。
その能力があるのは「神」のみ・・・
私の個人的な解釈では、こうなります。。。
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この回答へのお礼

純粋な子供より、大人の方がやたらと人の物を盗みますし、やたら人を殺します。
大人の定義とは何でしょうか?
あと戦争と言う行為。溜め込んでいた理性が破裂し、ハチュウ類の脳しか残っていない状態と言うべきでしょうか。
本来は合理的な偉い大人が、突然小学生でも解るような事が解らなくなる。いや、躍起になる。とは言え、もう少し時間を費やしてじっくり違う方向へ持って行っても良いのではないかと。
ではどうも。
表も裏も平和にする事は難しいですが、不完全ながらも、整理し直す体制があります。
神について云々と言う事についてならば、私も最早議論する気はありません。
神はいません。この地上に、一人一人幾つもの違った神が存在します。

お礼日時:2007/11/08 04:23

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