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大名行列は、大名とその家臣が国許と江戸を往復することですが、大名の家臣は、一人で行列に加わったのでしょうか。
歴とした武士は、外出の際には必ず供連れだということですが、主君の参勤交代の際には、自身も供連れなか疑問に思いました。
また、上級家臣の家来(大名からみれば陪臣)は、どうだったのでしょうか。

A 回答 (4件)

No.2の回答ほどではないですが、大名行列には今でいうパートが大勢加わっていました。


淡野史良氏の書かれたものによると、天明元年二万二千石の人吉藩の参勤交代の行列の約半数が日雇だったといいます。    江戸ー人吉 通しで雇われた「道中通日雇」でした。
文政6年52万石の福岡藩の国許へ帰る行列が、雑司が谷でかなりの数が江戸へ戻ったといいます。  「日雇」を使ったわけです。
また小山誉城氏によると、天保4年の紀州藩の行列中には、道中で集めた助郷人足1680人、宿人足など232人が居たといいます。
別に藩の小者、人足も同行しているので、上士はその家臣、小者もつれて行きました。
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この回答へのお礼

行列の半数が日雇いとは驚きでした。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/06 14:04

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D% …

ほぼ 参勤交代と同様な意味ということで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4% …
参照

基本的な考えとしては
「これより、出兵するから、将軍の元に集まれ! けど 実戦がなかったから、国元に帰れ!」というのが参勤交代です。
そのまま、戦場に行ける人員を整えて江戸に行くことが基本です。
戦場に行くと言うことは、全体の指揮官である大名と、部隊の指揮官である上級家臣そして、部隊の戦闘要員である一般家臣、陪臣全部セットで移動です。
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この回答へのお礼

大名行列は、形式的ではあっても軍事的な要素もあったのでしょうか。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/06 14:03

大名行列ですが、国を出るまでは家臣(直臣と家臣の家来)で編成されましたが、国境を越えた後は殿と家老、下人の数人による駆足の旅です。



箱根・白河の関前で口入屋に頼んで規定数を編成、越えたらアルバイト料を支払い解散します。次に品川・千住・板橋・新宿などに到着したらまた口入屋に頼んで江戸屋敷に向かいます。そして解散時に江戸城登城の日を伝えて登城の日にまた雇用して登城するのです。

参勤交代が廃止になり仕事が無くなった彼らが幕府の作った陸軍に入隊しています。
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この回答へのお礼

行列の裏話のようで、大変、興味深い回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/06 13:58

供の武士もそれなりの身分のものであれば当然に自分の家臣をつれていました。


ですからたとえば加賀前田家の参勤交代の行列は数千人の規模でしたが、大名直属の家臣は1/10足らずで、直属の家臣の数倍の家臣の家臣が参勤交代の人数の中にいました。(もちろん家臣などいないクラスの供回りや荷物を運ぶ人足もいましたが。)
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この回答へのお礼

考えてみれば、国許に残る家臣もいるわけですから、直臣だけで行列の人数をそろえることは、不可能かもしれませんね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/06 13:56

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