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東京人なので、「哲学堂公園」という場所に結構いったことがあるのですが、そこでいつも腑に落ちないことがありまして、質問します。
そこは、公園内の池とか坂とか山とか建造物とかに哲学のテーマ(唯識だとか唯物だとか経験だとか)を与えて、「哲学」という目に見えない空間を、公園という実空間を借りて実感できるように、あたかも公園を歩き回ると、その哲学のテーマを「体」で体験出来るよう図られたところです。

そこで、そこにいる人々はどうか。

暇つぶしで過ごす人がほとんどですね。休息中の営業マンとか、人生に疲れたような老年期の釣り人とか、無心に遊ぶ子供とか、あとは知的障害者の集団散歩なんて言うのもあります。そして、たまに、標識を読んでなにか夢想している人がおります。あるいは、友達同士できてプチ議論∩散歩とか。

哲学を取り巻く、人間界の様子が見える気がするのですが、そういう風な考えはどうなのでしょうか。創始者の意図を超えたところで、より深く広い認識に至れる気もしないでもないですが、心がさむいことも確かです。

A 回答 (4件)

「そういう風な考え」とは、ご質問文のどの部分ですか?


「公園の日常風景から、哲学を取り巻く人間界の様子が見える気がする」というgarcon2000さんの洞察のことでしょうか。それならまったく問題ないですね。garcon2000さんは立派な「哲学する人」。
「見える気がする」だけでそれを「考えた」ことになるのか疑問ですが。私が矛盾してますね。

リンク先について「哲学」してるかしてないか?ご意見いただけたら幸い。

参考URL:http://ncode.syosetu.com/n1517d/novel.html
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この回答へのお礼

ヒステリーの考察については、う~んというか。
名文だと思います。
そして、納得できます。世の中の惑わし理論、言説、それらは常にか結果的には、経済原理に沿うように回っているように感じます。それを内心では「是」感じるか「否」と感じているかで、登場人物のように割り切れるか、潜在的な嫌悪感を残すことのなるか(私は後者)じゃないかと。

しかし「流行」語、思想、言説は嗚呼!なんという醜悪さなのでしょうか。そして「哲学堂公園」で学問的哲学に興味を示さない、己の快楽原理だけに沿って休息しようとする人も、同じように醜悪さを内に秘めています。わるいですが。

お礼日時:2007/12/12 15:04

「唯識堂公園」とは面白いですね。


唯識には造詣が深いので、楽しそうです。

哲学をするかしないかは「哲学」という名の言葉に、
縛られ過ぎではないでしょうか。
別にもの思いに耽ることは誰でもありますし、
私はそうした時間は幸せだと思いますよ。
標識のいい加減な表現や、またそれに捉われる人は少し滑稽な気もしますが
それでも友達同士で議論できるのなら
コミュニティとして役割を果たしている訳ですね。

さむいと感じる理由は人それぞれでしょうが、
まあ自分だけの世界に籠っている姿を見ていると、
私の場合は確かに哀しくはなります。
またキモイとか奇妙だとか思うのであれば、
それはその人が人生を深く考える位置にいないからだと思います。
時に深い造詣は、誰かを苦しみから放つことができたりしますから。
学は楽しい。それでいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

哲学ってあまり幸せには思えないですね。そこが私の余裕のなさかもしれないんですが、ああ、考えないでも一生済むなと。
「学」というものを、疲れ果ててか怠慢でか、興味を示さない人々を見るのがつらいという感覚ですね。

お礼日時:2007/12/12 14:56

>暇つぶしで過ごす人がほとんどですね。

休息中の営業マンとか、人生に疲れたような老年期の釣り人とか、無心に遊ぶ子供とか、あとは知的障害者の集団散歩なんて言うのもあります。そして、たまに、標識を読んでなにか夢想している人がおります。あるいは、友達同士できてプチ議論∩散歩とか。

いやいや、この公園の趣旨がどういうもので、そこから作者の意図から外れていても、「考える」行為はそれぞれしているのかもしれませんよ。
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この回答へのお礼

そうですね。主催者側の意図とは離れたところでということですね。

お礼日時:2007/12/11 20:51

 私も#3様の意見には賛成です。

たしかに、暇つぶしで過ごす目的で来る人が多いのは事実です。知的障害者の集団散歩や、友達同士できてプチ議論∩散歩とかはその良い例だと思います。しかし、本当に、「創始者の意図を超えた」ところであるのかを判断するのは早いのではないでしょうか。
 一言で哲学といえども、哲学とは目に見えない空間であり、その言葉の意味する範囲も広大でしょう。例えば、休息中のサラリーマンであっても、自分が仕事をすることの意義とか、果たして自分が人間社会において如何なる役割を果たしているかとか、所謂瞑想をしているのと似通った状態にある可能性を否定することはできません。人生に疲れたような老人など得にそうです。釣りというのは同じ場所にずっと座っているのが普通です。その間に何も考えないでいられる人間がいるでしょうか。恐らく、人生に疲れた人であればあるほど、不可能なことでしょう。寧ろ、私のような若者の考えを遥かに超えた何かに至っているかも知れません。質問者様は「無心」に遊ぶ子供とかかれましたが、この言葉の使われ方自体がおかしな気もします。本当に「無心」な子供はいません。「哲学堂公園」に行ったことは無いですが、写真等を見る限り、日常とはかけ離れた感じのする場所です。子供ならば寧ろ何かを考えざるを得ないと思います。それと、先ほどは友達同士できてプチ議論∩散歩についても否定的な立場をとらせて頂きましたが、質問者様が見たのは「プチ」に違いないのですが、中には真面目な議論をしている方もいるだろうと思います。
 私のような考えの人もいれば、#1様、#2様、#3様のような考え方の方もいます。哲学というのは、自分の問いに答えられるのが自分だけである場合もありますので、この問いかけに対して明確な答えというのは出せないのかもしれません。
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この回答へのお礼

どうも、ご丁寧にありがとうございます。
私が引っかかったのは、この場合もちろん何も規範はないに等しいのですが、たとえば飲食店に入って体操をするとか、カラオケに入ってキャッチボールをするとか、そんなことを「哲学堂公園」でしている人が多いのではないかと。つまり、唯識論とか経験論とか哲学三哲人とかなんとか説明があって、それに全く沿わないで休息している。で、プチ議論している人は沿っているわけですよ。

もちろん、こういう解説をしているんで、読みたきゃ読めというスタンスで運営設計されたのでしょうが、近年?あまりに無節操な個人主義に走る人が多くないだろうかと。つまらない哲学をここでやって頭痛めて空気吸って帰宅してもいいのではないか、それはギャンブルとかなんかで暇をつぶすという生き方と少なくとも対立すると思うので、そういう静かな思索というものが多数派になったら世のよくなるのではないかと、想像してしまうからです、

お礼日時:2007/12/12 15:11

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