

武田信虎は武田家家臣団から駿河に追放されたことになっており、ほとんどの文献がこの見解で一致しております。
武田信虎は追放されたのでしょうか。信虎の実績、当時の甲斐の情勢、隣国(今川氏・北条氏)との関係を勘案すると追放されるような人物ではないような気がします。
自分の国の歴史に関することですから、価値ある歴史的資料がないことを理由に考察を放棄するのではなく、考えるべきことは考え、理論整理したく、この度質問いたします。
甲斐を平定し、信濃侵攻の足がかりを築いた信虎は、国力をつけるためには西に勢力を拡大せざるを得ないことを痛感し、やむなく自ら追放劇を自作自演し、巧妙に駿河に潜り込んだのではないでしょうか。迎え入れた今川義元は義父の信虎に対してなんら疑念を抱くことがなかったのでしょう。駿河攻略の戦略を練り、今川軍の尾張侵攻(桶狭間)の際には、今川家家臣を予め味方につけて義元討伐の段取りを整え、自身の実績(飯田河原合戦)を引き合いに出して本陣を攻撃する手段を織田方に進言。義元を討ち、武田の駿河侵攻を可能にした。
以上が私の考えですが、信虎追放に関してはどのように考えるのがよいかご教示願います。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
信虎追放後の武田家中に家臣団の足並みの乱れがあった場合、お考えのように信虎の求めに応じて諸国の勢力が甲斐へ侵攻する事はあったかも知れません。
しかし、現実には信虎追放後の甲斐国内は乱れませんでした。いくら名分が立つとは言え、この状態では今川にせよ北条にせよ、本格的に甲斐侵攻を行う事は無いでしょう。甲斐国内の国人衆が晴信の下に早期に結束してしまった為、頑強な抵抗を受ける事が目に見えているからです。当時の大名はそのような無理押しの戦を最も嫌います。たとえ勝っても大損害を受けてしまえば、自家の支配力がてき面に低下してしまうからです。現に信虎自身がそれをやろうとして嫡子晴信や多数の家臣に背かれたではありませんか。当時の戦争の基本は、敵地に味方を作り(調略)、敵が弱っている隙につけ込むのが常道であり、この原則を無視した時には信玄ですら大敗しています。上記のような事を考えると、追放後の信虎に周辺諸国の大名を動かす実力は無かったと断定しても良いでしょう。
さらに言うなら、前線の今川軍から遠く離れた場所にいる信虎が、織田信長に対して適切な情報を提供する事が可能であったとは考えられません。百歩譲って密書が送られたとしても、そんな情報は大雑把過ぎて役に立たないでしょう。常に移動している野戦部隊の位置情報が、後方地域で正確に把握出来るようになったのは、たかだかここ20年位の事に過ぎません。軍事常識からしても貴方が主張される説に実現性はありません。
ご回答ありがとうございます。たいへん参考になりました。定説が正しく、スパイ説は奇矯な説という部分で、専門家の意見が一致したところで敗北宣言です。たいへんお騒がせいたしました。
No.3
- 回答日時:
信虎が追放された直後に、諏訪頼重が武田晴信を攻めています。
諏訪頼重は信虎の三女を娶っていますから、申し訳ないですがこの時点で貴殿の説は破綻していると申し上げていいと思います。いいや諏訪頼重が武田方を攻めたのは義元を騙すための自作自演だったというかもしれませんが、それなら後に諏訪頼重が滅ぼされたことのつじつまが合いません。それは武田方の裏切りで陰謀だというのは我田引水といわざるをえないでしょう。
それに、永禄3年に義元が討たれてから実際に武田軍が攻め込むのは永禄11年で8年も後のことです。いくらなんでももし事前に何らかの計画や陰謀があったならもっと迅速に事を運ぶはずです。
さらに、信虎追放時と武田が駿河に侵攻するときの両方とも武田家中は大変に動揺しています。諏訪頼重や小笠原長時が侵攻してきたのもそこにつけ込んでと考えるのが自然ですし、後に駿河に攻めるときは嫡男の義信と側近の飯富虎昌を失っています。特に飯富虎昌の反乱は一歩間違うと武田家中が空中分解しかねない(というか、かなりしかかったのですが)大事件でした。
ではなぜ信虎は殺されずに追放されたのか、そしてなぜ義元は受け入れたのかについてですが、追放という「穏便な手段」によって武田家中の動揺を最小限にしようという意図だったと思われます。殺してしまうと信玄には「親殺し」の汚名がついてまわります。追放も「禅譲」と言い換えることは可能ですから、汚名が少ないほうを選んだのでしょう。
また、受け入れた義元ですが、義元としても「利用価値」はあったと思います。甲斐が不安定であれば「失われた立場を回復する」ことを名目に信虎に兵を与えて介入することが可能です。その場合実際の軍勢は今川が提供するので新信虎政権は今川の傀儡政権になります。
>本陣を攻撃する手段を織田方に進言
残念ながら説得力はほぼ皆無と思われます。もしあなたがロシアに亡命して、プーチン大統領の暗殺方法をモスクワに住みながら誰かに進言するでしょうか?万が一ロシアの官憲にバレた場合あなたが「謎の事故死」を遂げてもロシア警察は事故で処理をするでしょう。そう思いませんか。
ご回答ありがとうございます。大変説得力がありますが、私はやはり納得できません。殺さずに追放する選択肢を採ったと仰いましても、追放されたのであれば、信虎は今川家のみならず、北条氏・信濃の豪族に大号令をかけ、甲斐攻めの大逆襲に出ることが可能な人物と考えます。今川義元は実力未知数で若年の晴信(信玄)に甲斐の統治を任せ、ダメになったら信虎を戻そうとする意図があったと言っても、今川義元は信虎の支持を受けて当主の座を勝ち取った人物。信虎の意に反して勝手に信虎を利用することはできなかったと考えます。やはり信虎追放の定説は支持できません。
No.2
- 回答日時:
#1です。
> 織田家に通じていなければなりませんという部分だけは疑問
ということなので少し補足します。
> 密使を尾張へ走らせ、書状の一本送り届けること位は仕事人信虎の得意技でしたでしょう。
これは充分に可能だったでしょう。しかし問題はその後です。
その密使の通報および作戦指示を受けて、織田側はどう考えるか、です。まして、その人物は表向きは「今川家の庇護下にある人物」です。
予め織田側に通じていなかった場合、敵国に住む人間からの作戦指示通りには、絶対に動きません。偽の通報を行った例やそれに載って大敗した例なんて、歴史上いくらでも見つかりますし、作戦が敵側に漏れていて大敗、というのもそんなに珍しい話ではありません。
> 織田方も元甲斐国主の進言は無視できなかったはずです。
無視はしなかったかも知れませんが、したがうこともまたしなかったであろう、とは思います。元甲斐国主、という肩書きは立派ですが、要するに追放され今川の世話になっている人物(と表向きはなっている)なので、今川側に有利に動く、と考える方が自然です。
ならば、作戦を指示してきたとすれば、それにしたがうのは危険であると考えるはずです(相手方が知っていて待ち伏せされる危険性が高い)。
下手に籠城されるよりも、多少作戦を漏らしても野戦を行った方が今川側にとって相当に有利(尾張で終わりではなく京まで攻め上る予定なので時間をなるべくかけたくない)な桶狭間直前の時期にあっては、なおさらでしょう。
したがって、作戦を指示できるということは、少なくとも、予め織田側に自分が今川にとって獅子身中の虫であると報せなければならず、それはとりもなおさず織田側と通じていた、ということになります。
再度のご回答心より感謝いたします。対外的には尾張の代表選手としての地位であっても、国内では守護代家の家臣と身分が低い織田氏は、対今川戦に試行錯誤していた。甲斐源氏頭領の武田信虎の作戦指示には反意を示すことはできず、結果的に指示どうりに行動した結果が桶狭間ではないか。というのが私の考えでしたが、この点は、はっきりと回答者様の説明に分があると思います。今川家庇護下の信虎と織田家との関係については、仰ることで了解ですが、問題はやはり「追放」だったのかということになります。
No.1
- 回答日時:
> 義元討伐の段取りを整え、自身の実績(飯田河原合戦)を引き合いに出して~
ということは、彼は織田家に通じていなければなりません。そういう節はありませんね。
義元討ち死に後、今川家を追われ、伊勢の北畠に身を寄せ、後に京を経て信玄病死後に信濃高遠に移り、そこで死去しています。駿遠三の平定のためのスパイということであれば、織田か松平、または美濃の斉藤に身を寄せるのが普通ですし、西を平定する間の東への備えという意味で北条でも良かったでしょう。
特に(戦略を授けられるほどに)織田側に通じているとすれば、織田に行くのが普通ですね。
今のところ、通説がもっとも信憑性が高いし行動的な矛盾も少ないです。したがって、通説の通りと考えるのが妥当と考えます。
ご回答ありがとうございます。私には全く思いつかない推論ですが、織田家に通じていなければなりませんという部分だけは疑問です。密使を尾張へ走らせ、書状の一本送り届けること位は仕事人信虎の得意技でしたでしょう。
織田方も元甲斐国主の進言は無視できなかったはずです。やはり、私の疑問は解決しません。
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