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世界史を学んでいてる受験生です。

教科書をみてて疑問に思ったのですが、「コンスタンティヌス帝がコンスタンティノープルへ遷都し、巨大な官僚体制を築いた。官吏の力は強大となり、皇帝が官吏を使って帝国を支配する体制が出来上がった。ローマは官僚制を土台とする階層社会となり、人々は官吏としての出世を望むようになった。こうして、ポリス以来の市民の自由は、完全に失われた。」(○川出版)

との記述があるのですが、最後の「ポリス来の・・」がよく理解できません。今の日本みたいに、官僚制の国だってそれなりに自由もあるというのに、別に官僚制だからといって自由が完全に失う、とはならないと思うんです。御教授宜しくお願いします。

A 回答 (5件)

高校レベルまでの教科書は大雑把にしか書いていないので、色々と誤解してしまいそうな記述になる傾向があります。


引用されている記述にも、「用語」を正しく認識していないと誤解したりしそうな記述ですね。

例えば、「自由」という用語ですが、これは「共和制」あるいは「都市国家」という意味に近い言葉です。
つまり、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノポリスに遷都する時期と前後して、ローマ帝国から「ローマらしさ」が失われていく時代となっていきます。
ここで言う「ローマらしさ」というのは「市民中心社会」とも言うべき概念です。
他の回答者も言及されていますが、もともと「都市国家」から出発したローマ社会は「市民権」というモノを中心とした「アイデンティティー」というかそういうモノがありました。
そして、元老院と市民権を持った人(平民)を中心に統治されていました。(もちろん、緊張関係や相互依存関係などあります。グラックス兄弟の改革やカエサルが民衆派代表などは典型的ですね。)
また、ローマが中心ではありますが、基本は「地方自治」的な社会です。
ローマに反旗さえ翻さなければ、各都市のある程度の自治は認められていました。
これは初期の帝政ローマになってからも、変化は少ないと言えます。(実際、初代皇帝のオクタヴィアヌスも皇帝とは名乗っていません。実質上権力を握っていたのが彼であったのです。それが一時世襲となって、その後やっぱり世襲はイカンといって軍人皇帝時代に入ります。その先にあるのがコンスタンティヌス帝による遷都です。)

つまり、「市民権」に代表されるような「市民中心社会」というのが、東ローマ(ビザンツ帝国)になってからは、外敵(ペルシア・オスマンなど)の影響を受けて、「専制君主制」になってきます。
「専制君主制」では、トップ以外は皆手足となって働く「官僚」となります。
つまり、「ポリス以来の市民の自由」とは、「市民権・市民意識に裏付けられた政治関係」と考えると良いかと思います。

因みに、「官僚=日本の省庁に勤務する人」のイメージで考えると、これまた誤解・誤認の要因となります。
「用語(日本語)」のイメージに欺されず、個々の言葉が何を指しているのかをしっかりと確認しましょう。
日本での世界史の用語は、初めて日本語に訳した人の感性で訳したのがそのまま定着しちゃったりしているので、イメージだけで判断するのは注意が必要です。
(例・(ローマ史での)騎士階級→中世フランスなんかの「馬に乗ってラブ・ロマンスする人」をイメージすると、大間違いです。どっちかっていうと、大富豪とか現在の日本で言うヒルズ族の方がイメージに近いかも。)
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この回答へのお礼

お礼を申し上げるのが遅れて大変申し訳ございません。

他の皆様同様、世界史の教科書だけではわからない事がたくさんあり、非常に勉強となりました。

本当に厚く感謝しております。

お礼日時:2008/02/27 12:14

山川出版の書き方がおかしいように感じます。



大きな流れとして、
ギリシャ・ローマの市民権の伝統が長くあった。
市民と言っても、今の市民ではなく、それを支える奴隷等の存在は無視できません。ローマ市民のパンと競馬もエジプト始めとする、属洲からの収奪があったからこそ成立する魔術です。
ビザンツ帝国の場合はそのローマ理念と、オリエント伝統の王を頭とするヒエラルキーが融合した社会制度となっていきます。
キリスト教も西のローマ正教に対比されるギリシャ正教はオリエント的色彩を濃厚にしながらローマ皇帝権と一体となった社会が出来て来るわけでそれが、一官僚制度を作ったからではなく、それに適合する官僚制度どなっていった、のが正しい記述のはずです。
ビザンツ帝国はそのご千年継続します。領土を失いながら永らえる秘訣は時代に即応した体制に自らを変えていったわけで、山川の記述がその後ズット続いたわけではありません。
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この回答へのお礼

お礼を申し上げるのが遅れて大変申し訳ございません。

オリエント的色彩も見逃せませんね。確かになぜビサンツが千年も継続できたのもよく納得できました。

貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/02/27 09:38

東ローマ帝国についての理解が足りませんと、質問のような疑問を持つ事になります。


東ローマ帝国は、別名ビザンツ帝国とも呼ばれるギリシャ人による、ギリシャ風のシステム、言語を持った帝国です。
ローマ帝国が東西に分裂した時点では、東ローマ帝国もラテン(ローマ)的システムを持った国家でしたが、次第にギリシャ系が優位となり、実質的にギリシャ帝国となります。

教科書の書き方が悪いため、教科書の記述では、官僚による政治システムを作り上げたのがコンスタンティヌス帝のような書き方になっていますが、官僚制が確立するのは、ヘラクレイオス朝以降になります。

それは、東ローマ帝国が、シリアやエジプトをイスラム諸国に奪われ、一時首都コンスタンティノープルまでイスラム軍に攻め込まれています。
その事により、東ローマ帝国の社会システムが変化し、官僚を中心とした政治システムへと移行してゆきます。

それまで地方における政治に関しては、各地方ごとの慣習にまかせられていましたが、地方の高級官僚も皇帝が任命する事となり、その任命された官僚が、多大な権限を握る事により、皇帝独裁の傾向が強まります。
教科書の記述は、その事を言っているのです。
古代ギリシャの民主制、コンスタンティヌス帝の遷都、ビザンツ帝国によるテマ制導入と、千年の時間をたった数行にまとめてしまったため、分かりにくくなってしまっているのです。
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この回答へのお礼

お礼を申し上げるのが遅れて大変申し訳ございません。

確かに東ローマについての知識がもう少し必要でした。
イスラム諸国との関係も見逃してました。

貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/02/27 09:34

個人的な見解なのはもちろんですが。



ここでの「自由」は現代の我々が身近にイメージする個人的なそれというよりむしろ
自分達のことを自分達で決める、市民集団・市民社会の伝統とでも考えた方が通りやすい気がします。
所謂「ポリス的なもの」の象徴とでもいうか。

「ペリクレスの民主制は去り、皇帝専制の時代となった」
の別表現と思っておけば大筋で問題ないのでは。
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この回答へのお礼

お礼を申し上げるのが遅れて大変申し訳ございません。

そういえばペリクレス時代の自由の全盛?と対比するとよくわかるようになりました!

貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/02/27 09:31

官僚制とは何か?


もともと、皇帝個人の奴隷です。
オスマン帝国の宰相も皇帝の奴隷です。
官僚を辞めるときは、(場合よっては、言葉のそのままの意味で)首を切られるときです。
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この回答へのお礼

お礼を申し上げるのが遅れて大変申し訳ございません。
貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/02/27 09:30

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