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20世紀初頭に、モンゴル(外モンゴル)が独立宣言後、独立を成功させたのに対し、チベットが独立宣言後、うまく独立できなかった最大の理由はなんですか?

A 回答 (5件)

1.外国の大規模な軍事的支援を受けられなかった事。


2.軍の増強と近代化に失敗した事。

チベットの独立宣言というと1913年の事だと思いますが、チベットはそれから暫くの間は中国の支配を退けており、1950年の中国軍のチベット侵攻により完全に独立が失われました。

1913年、ダライラマは独立宣言後、チベット軍の増強を図り、翌年にはイギリスから5000丁のライフル等、多数の武器を購入しています。

1914年には第一次世界大戦が始まり、イギリスがヨーロッパでの戦いで手一杯になったところを見計らって中国軍がチベットに侵攻しますが、チベット軍はこれを撃退し、イギリスの調停による休戦協定が結ばれます。
しかし、翌年には、またもや中国軍が侵攻し、チベット軍がこれを撃退し、またイギリスの調停による休戦協定が結ばれます。
この2度の戦いにおいて、チベット軍が勝利できたのはイギリスから購入した武器による力が大きいと言われています。

1920年にチベットでは、中国軍の侵攻から国を守る為に1万5000人の兵力が必要との試算が出されますが、それだけの軍隊を保持するには予算不足で、増税の話が出て国内が揺れます。
兵力の増強は進まず、1930年にはまたも中国軍の侵攻を受け、一部領土を失いながらもイギリスの調停を受けます。

1933年あたりからチベット政府内部で権力争いが起こり、反乱が起こったり、軍の統制が乱れ大規模な脱走者が出て混乱が起きます。

そして1950年には大規模な中国軍のチベット侵攻となる訳ですが、2万から4万といわれる中国軍に対し、チベット軍の兵力は民間からの義勇兵を入れても8000人でしかありませんでした。1920年に出された1万5000人の軍隊というのは30年経っても作る事ができていなかったのです。

そして、以前チベットを支援していたイギリスは、この1950年の中国の侵攻時には、積極的に動こうとはしませんでした。
第二次世界大戦後の植民地独立運動の流れの中で、イギリスは多くの在外資産を喪失し、戦時中に累積された巨額な債務と、国内産業の衰退から経済を悪化させており、チベットへの援助に乗り気ではなかったのです。さらには、たとえチベットが中国の支配下に置かれても、イギリスの安全保障には大して影響は無いという事もありました。
また、隣国インドは独立したばかりで、国内のヒンズー教徒とイスラム教徒の対立の激化など、多くの問題を抱えており、やはりチベットに積極的に介入する余裕などありませんでした。

それに比べて、モンゴルはロシアと後のソ連に、経済的、軍事的援助を受けられました。中国が攻めてきた時は援軍も派遣してもらえたのです。
ロシア、その後のソ連にしてみれば、自国の領土の安全を保つ為にも、モンゴルが自国の影響下にある方が望ましいという事もありました。
もし、中国と本格的に敵対する事になった場合、モンゴルが中国に支配されていると、首都モスクワ方面から、シベリア、極東方面への交通網に重大な脅威を受ける事になるからです。

つまり。チベットは独立宣言後、国内を強固な一枚岩に纏め上げて軍備を増強するのに失敗し、さらには外国からの大規模な軍事援助をもらう事ができなかった為に、中国に支配され独立に失敗したのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
実に丁寧にわかりやすくご解説いただいて、感謝します。

チベット軍はなかなか強かったんですね。
中国(漢民族?)は拡張主義のわりには、結構いつも戦争弱いのは、規律が苦手で統率が取れない性格だからかなぁ、などと憶測しました。
でも、めげないたくましさも中国らしいような。

お礼日時:2008/06/29 21:27

 ANo.4へ補足させていただきますが,チベット側の独立の準備も,決して十分とはいえなかったようです.



 まず軍備ですが,軍隊の維持費捻出のため,僧院に課税しようとしたものの,僧院側が改革に反対に,これが叶えられませんでした.
 また,ダライ・ラマ14世の摂政レティン・リンポチェは,軍事費を切り詰め,私腹を肥やしていきました.
 詳しくは
http://mltr.ganriki.net/faq18m02.html#12412
に譲りますが,このページにあるチベット軍の写真を見ると,1940年代になっても火縄銃歩兵や騎馬弓兵が,主力であることがお分かりかと存じます.

 また,外交面においても,英国などごく一部を除いて世界各国と外交関係を結ぶこともなく,鎖国に近い状態だったそうです.
 国際連盟に加盟する動きも見られなかったようです.

 もしこの間に努力を重ねていたならば,その後の歴史はまた違ったものになったであろうことは,想像に難くありません.
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この回答へのお礼

補足とリンク、ありがとうございます!
これからリンク先をゆっくり読んでみます。
こういうことを知るにつれ、やっぱり軍事力は重要なんだなあと痛感します。

お礼日時:2008/06/29 21:30

モンゴルとチベットの違いはそのまま、ロシア(ソ連)とイギリスが支援のための武力をうまく出せたかどうかの違い。


もう一つ付け加えるならば
モンゴル = ロシア(ソ連)
満州   = 日本
チベット = イギリス
それぞれの支援国が現地にどれだけ軍隊を容易に持って行けるかで
モンゴルは、長いモンゴル=ロシア国境線の任意の場所から支援可能。
満州は、朝鮮=満州国境で渡河作戦が必要。
チベットはインドからヒマラヤを越える必要がある。
と、支援可能性によって
簡単なモンゴルは独立し、難しいチベットは独立できず、そしてその中間の満州は、一時的に独立できたが取り返された。
と、わりと単純に説明できる
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この回答へのお礼

なるほど~。
ありがとうございました。
モンゴルはソビエト崩壊で完全に独立でき、チベットはいまだあの状況、満州は中国に飲み込まれてしまった。。。
少数民族vs漢民族ってすごいですねぇ。
日本はこの先大丈夫かしら。

お礼日時:2008/06/29 06:06

地下資源がチベットにあるので


それを中国側が狙っていたのでしょう。
だから独立できなかった説が一般的です。

この回答への補足

早速ありがとうございます。
質問が言葉足らずでしたが、地下資源の話は最近のことではないでしょうか?
お聞きしたかったのは、清朝が倒れたとき、モンゴル、チベットともに独立宣言したときのことで、中国の袁世凱はもちろん両国ともに認めなかったそうですが、モンゴルはロシアの支援を受けて成功し、チベットはイギリスの支援を受けたものの話し合いが決裂して失敗したと聞きました。
その当時の原因をもしご存知でしたらお願いします。

補足日時:2008/06/28 14:10
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>うまく独立できなかった最大の理由はなんですか?



宗教ですね。

この回答への補足

早速ありがとうございます。
なるほど。具体的には宗教がどう影響したのでしょうか。
もしもう少し詳しくご存知でしたらよろしくお願いします。

補足日時:2008/06/28 14:15
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