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キリスト教徒と自認するものです。

なぜ、神様は私たちを愛しているはずなのに、私たちが苦しんでいるのをそのままにしておくのですか?
愛しているなら、苦しみを取り除いてくれてもよいのではないですか?

旧約聖書をみても、ダビデなどが苦境に立たされたり、苦しんでいる様子が描かれています。
神様とは、「そのような存在」なのでしょうか?

どなたか、納得のいく説明をお願いします。

A 回答 (8件)

ヨブの嘆きのような質問ですね。


いいときは神に感謝し悪いときは神に「何故・どうして」と不満をいう。
喜びのときも苦しいときも悲しいときもいつでも神に感謝することが本来の信仰の姿ですね。
なぜかといえば「水の試練も火の試練も与えよう、しかして限りなく強くなれ、我のようになれ!」と神がいわれて人間を作られたからなんですね。ヨブの嘆きにはこれが神の答えでしょう。
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旧約のことをおっしゃっているので、旧約について補足します。



「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。
 あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。」 
(エゼキエル 34.31)

このことばが神と人間のすべてを物語っているといいっても
よいでしょう。あなたはただ、神の牧場にいながら不満を
のべいるのです。あえて言えば、ゆだねるほどの信仰が欠如
しているのではないですか。イエスはそのことについて何度も
弟子に語っています。


なお、この引用は著作権侵害の恐れがあります。
日本聖書刊行会の承諾なしに無断引用しています。
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以前、マザー・テレサが日本を訪れた時、


路地裏で酔っ払いがヘタレこんでいるのを見て、
「なぜ、日本人は苦しんでいる彼に救いの手を差し伸べないのか」
と憤慨したという笑い話がありますが、

我々は、往々にしてこのマザー・テレサと同じような高所から世の中を見がちです。
神が作りしこの世界を我々が見つめるとしたら、そこに苦や不正を探そうとするのでなく、
すべての現象をあるがままに、「幼き子」のごとく受け入れるのが正しい方法ではないでしょうか。

あなたは、旧約聖書ウンヌンと言われていますが、
ユダヤ教徒ならまだしも、
キリスト教徒なら新約聖書のキリストの言葉に自らの回答を見つけるべきでしょう。
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それはあなただけでなく、マザー・テレサをも悩ませた


問題でした。マザー・テレサはそのような状況に対して
彼女なりの納得をしました。それは彼女の書いたものの
中に書いてあります。ここで物知り顔で十数行書いて伝
わることではありません。
本当にその問いがあなたにとって神に対する真剣な疑問
であるなら、マザー・テレサを徹底的に読破してくださ
い。あなたを納得させるとすれば、現在その書以上のも
のはないでしょう。
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 私たちは神の意識の中の存在ですから、神は共に苦しんでいます。


 しかし神はその苦しみは、ご意識の全体ではありません。
 そして神は創造で最上層から最下層までそうぞうしました。そういう全体が創造です。
 そして下降した神は、創造し、続けながら、一定の仕方で、同時に解脱、最上層をも超越しました。
 ですから、神の苦しみ、そして人間の苦しみは神にとっては一部であり物語である。ということであり、人間もそうなりなさい、と指導し、呼びかけています。それが祈りとなって現れている。聖典の内容とうあそういうものです。
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私はキリスト教徒ではありませんが、


これまで聖書を精読してきた結果、神の愛と我々の苦しみという点については、
次のように理解しています。

確か、マタイの福音書6章8節に、
「あなた方の父なる神は、あなた方がお願いする先に、あなた方に必要なものを知っておられる」
という言葉があります。

我々は今苦しいから、その苦しみを取り除いて欲しいと神に願う。
しかし、神は、我々がその願いをクチにする前に、
その苦しみが我々にとって必要なもの、我々は心底ではその苦しみを求めているのである、
ということを知っておられるということではないでしょうか。

我々は、自分の願いの内容を、自分が吐く言葉によって認識しようとしますが、
その方法は、往々にして我々の真の願いを誤解さすものになりがちです。

たとえば、母親とケンカして、
「死んでしまえ、このクソばばあ」という言葉がクチに出たとしても、
我々の本心は、母親が死んでしまうことを願ってはいません。

現在の苦しみに耐えて乗り切っていくことは、
その後に自分という存在を大きく飛躍さすことになるのはハッキリしています。

我々の心の奥底で真に求めていることは、単に現在の苦しみを神に取り除いてもらうことではなく、
この苦しみを耐え乗り越えて、
自分というものを少しでも神のような存在に近づけたいという所にあるのではないでしょうか。
なぜなら、神は我々への愛のために、その一身にはあらゆる苦しみを負うておられる方ですから。



 
 
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神は私達を愛しているとは、恐らくどこにも書かれていないでしょう。


神はただ私達を赦してくれる存在です。
私達は、神から赦してもらうために、神との契約を守るのです。

だから、苦しんでいようが、のた打ち回っていようが、それは私達の責任であり、
そこから開放されるのも、私たち自身で行わなければならないんです。
神は、私達に何をするものでもありません。
ただ、私達が神との契約を守りきることで、神から赦されるというだけです。

神に愛されたいというのであれば、神が愛し、救ってくれるという宗教を探して宗旨替えしましょう。
しかし、本来宗教は、現世利益を求めるものではなく、来世や、死んだ後救ってくれるというものが多いんですが。
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 もともと 人には 自由意志があり わたしたちは これによって生きています。


 
 アブラハムに なぞが訪れたとき 自由意志が祝福されました。

 その後 一たん このなぞ もしくは 自由意志の祝福が モーセにあって 言葉による規範となりました。

 あらためて 規範を超えて生きるかたちが示されたとき  自由意志の祝福が 祝福をも超えて わたしたち自身の みづからの手による共生の実現というかたちが方向づけられました。

 その後 あたかも二日が 経ちました。そういう情況と時代にあると考えます。
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