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よく、「検察官は起訴するかどうかを裁量で決められる」ということを聞きますが、その意味がよくわかりません。

刑事訴訟法248条は「公訴を提起『しない』ことができる」としています。これは、通常であれば起訴「される」件について起訴しないという決定を下す裁量があることを意味していると考えられます。通常であれば起訴される件に限っては、起訴するか起訴しないか検察官の裁量で決められると言えます。

しかしながら、通常であれば起訴「されない」件を起訴する裁量は検察官にあるのでしょうか? 私は、素直に248条を読めば、このような裁量権はないと結論付けるのが妥当だと考えています。

「通常」が何を意味するのかを考える必要があります。類似の件(例えば粉飾決算)が捜査、検挙、起訴されていないにもかかわらず特定の件のみを起訴するような場合、「通常であれば起訴されない件が起訴された」ということができると思います。

多くの人(検察官を含む)は、検察がこのような裁量権を有していると誤解しているように感じます。国策捜査は、検察が、通常であれば起訴されない件を起訴する裁量を有していると誤解しているから実施されているのでないのでしょうか。

以上、教えてください。参考文献も教えていただければ幸いです。

A 回答 (10件)

>「本来は、検察官は起訴・不起訴の例に縛られるべき」という議論を行うことは可能でしょうか。



 そのような議論はおかしいことではありません。検察官に広範囲な裁量を認めるとしても、直ちにそれが無限定であることを意味しないからです。私は検察官でも何でもないので、実務の内情はよく分かりませんが、検察官独立の原則といっても、実際には起訴不起訴処分にあたっては検事正や次席検事の決済を得ているようです。そうだとすれば、少なくても検事正等は、決済をするに際して何からの基準に依拠しているはずです。その基準は、長年検察官としての経験に裏付けられたものかもしれませんし、過去の起訴・不起訴例かもしれません。問題は、基準を過去の起訴・不起訴例にするとしても、判例の拘束力(それ自体も議論がありますが)と同例に考えるべきかは検討する必要があると思います。
 判例の場合ですと、通常判例とは最高裁判所の判決(決定)例を指し、それがなければ高等裁判所の、それもなければ大審院の判決(決定)例というように序列といいますか、先例としての重要性に軽重があります。しかし、起訴するか否かの判断は、同じ地方検察庁(区検察庁もありますが)の検察官が行いますから、そのような序列というものがありませんから、どれに依拠すべきか問題になります。また、判例が社会の実情にそぐわなくなってきた場合、最終的には最高裁判所により判例変更が行われますが、起訴・不起訴例の場合は誰が変更するのかという問題などが考えられます。

>また、日興證券等よりわるいことをしていた企業がすべて見逃されているのに、堀江氏だけが立件され有罪実刑という不平等は許されるのでしょうか。

 残念ながら、私には、そうであると判断できる材料を持ち合わせていません。日興證券に対する捜査がどのように行われて、どのような証拠が得られたのか分かりませんし、堀江氏の裁判も訴訟記録を読んだことがないからです。なお、新聞などのマスコミの報道されたことをもって判断することは危険だと思います。
 日興證券事件あるいはカネボウの事件が堀江氏の事件より悪質なのかも知れません。しかし、事件の悪質性とそれを証明する証拠の量や質は比例するとは限りません。

 最後に私見ですが、違法性の問題と妥当性(不当性)の問題を分けて考えるべきだと思います。御相談者のあげた「検察官の裁量の幅は本来狭く、裁量があると誤解しているため平等性に欠ける問題ある判断も多いが、明らかに不当なもの以外を裁判所がストップをすることはできない。」という裁判官の発言も、法的(刑事訴訟法の解釈論として)には検察官の訴追裁量権が広いことを認めざるを得ないことを前提にしていると思います。なぜなら、法的に裁量権が狭いもの(難しい言葉で言えば、覊束裁量)であれば、「明らかに不当なもの」でなくても、裁量権の逸脱として裁判所は、その公訴の違法性を指摘して公訴棄却判決をすべきだからです。
 しかし、仮に「平等性に欠ける問題ある判断」でも、「明らかに不当なもの以外を裁判所がストップをすることはできない。」というのは、そのような判断は裁量権の範囲内であり、言い換えれば違法性はなく、単なる「当・不当の問題」だから裁判所は口出しできないのです。
 「当・不当の問題」は、自主的に運用が改善されれば、それに越したことはありませんが、それに期待できなければ、立法措置によって何らかの制度を設けることが必要だと思います。
 このことを痛感したのが裁判員制度が導入です。この制度の問題点は別にして、刑事裁判実務に与える影響は大きいと思います。あれほど検察官の手持ち証拠の事前開示や取調べの可視化(録音や録画)に消極的な立場を取っていた検察庁が、裁判員制度の導入により、その方針を転換せざるをえなくなりました。なぜそうなったかというと、一般市民が裁判員になりますから、審理のために長期間、拘束するわけにはいかないので、審理の短期化という長年の課題(根本的に解決するには、弁護士よりは、裁判官と検察官の増員が必要だと思いますが)を解決することが切実になったからです。

この回答への補足

Bottonholeさん、度々ありがとうございます。私に言わせると、検察的な考え方の得意なTOMOさんも(全く皮肉ではありません。そのような考えを公明正大に述べてくれるTOMOさんは極めて貴重です)、コメント等あればお願い致します。

検察官の起訴に裁量がある根拠、検察官の起訴の裁量に限度があることの根拠はそれぞれ何でしょうか? 今までの議論を踏まえて以下に纏めました。それら以外に考慮すべき点はありますでしょうか。両者の比重によって裁量の範囲が変わってくるのだと思います。

検察官の起訴に相当の裁量がある根拠:刑事訴訟法247条で、特段の条件を定めずに検察官は起訴できるとしていること。

検察官の起訴の裁量に限度があることの根拠:第一に、憲法の保証する法の下の平等。第二に、刑事訴訟法248条の基準(これらは、不起訴にしてよい場合の基準であるが、起訴・不起訴には何らかの基準が存在することを示唆している)。第三に、検察庁や東京高検、地検等に公式・非公式の起訴の基準が実際に存在すること。これらに各検察官は完全に縛られるわけではないが、基準の有用性を示唆している。基準は、それからの大幅な逸脱を回避すべきという考えが前提となっている(そうでなければ、基準とはいえない)。

起訴・不起訴の前例は、判例と比較すると、序列がないことおよび、地検ごとに分権的に判断が行われているため、今すぐ、起訴・不起訴の前例を判例のような拘束力をもたせることはできない。しかしこのことは、正に、起訴されるべきでないものが起訴されていることを意味する(地域により規範に違いがある可能性。だたし、検察は全国一律の量刑の主導者であることに留意)。

ある程度、検察官が縛られるべき基準が必要だと考えると、検察庁がそれを積極的に確立してゆく努力が必要である。しかしながら、検察庁はある程度の基準は出すが、熱心ではない。当・不当の問題について、検察庁が取り組まないのであれば、立法措置で解決することが有益。しかし、そもそも検察が基準を確立し、積極的に公表していくということを行わないのは、検察が立法権を侵害することが一因かもしれない。

私は以下のように考えます。法務省がこのような立法をするとは思えないので、議員立法できないか、勉強してみます。

補足日時:2008/08/23 20:10
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だんだんと質問者様がどのような答えを期待しておられるのか分からなくなってきた部分もあるのですが…。



>裁判官は、相当程度判例に縛られます。
そうですね、裁判官の判決は、過去の判例に縛られます。裁判官によって異なった判決が下されるのは著しく公平性に欠けるという考え方です。で、あたりまえの事ですが、検察官も、もちろん判例には縛られます。ですから、証拠上十分であっても判例違反となるような起訴は絶対にしません。少し古い例で、現在は削除された条文ですが刑法200条に規定されていた尊属殺が典型例です。最高裁の違憲判決の後、刑法が改正されるまでの間、条文上は尊属殺という刑が残っていましたが、違憲判決の後は尊属殺で起訴することがなくなりました。ですから、検察官が明らかな違憲や判例違反となるような起訴をすることはありません。

>「本来は、検察官は起訴・不起訴の例に縛られるべき」という議論を行うことは可能でしょうか。
不可能だと思います。検察官は、過去の起訴・不起訴の例を"参考"にはしますが、それに縛られたりはしません。極端な例ですが、起訴すれば有罪を得られる同じような事件であっても、関東のA地検では起訴、関西のB地検では不起訴(起訴猶予)ということが多々あります。まあ、検察には全国で統一的な起訴・不起訴の処理基準がなく、個々の地検単位である程度の基準を定めている程度ですので、当然と言えば当然ですね。個々の検察官の判断に委ねられます。ここで問題となっている検察官の裁量権ではなく、それこそ検察官の裁量です。

>今後検察官が「面子」にこだわり、医療事件をどんどん刑事事件化したりするようなことは許されるのでしょうか
これは少し言葉が良くないと思います。
面子にこだわるのではなく、「胎盤を剥離すれば大量出血することは予見できたが、剥離を継続することが標準的な医療措置である。」という今回の判決で、まだ地裁レベルで先例に過ぎませんが、「○○をすれば患者が△△して死亡する危険性が予見でき、その手法・手技が標準的な医療措置でない場合は医師の過失を認めることができる。」ということが明確になった部分もありますので、それを今後の医療過誤事件の捜査に生かすと思います。
>罪を疑われた医者には多大な被害があります
これは私見ですが、標準的な手法・手術であっても、そのレベルに達していない医師による手術によって死亡した患者は山程います。
死亡した患者やその遺族の被害の方が医師の被害なんかよりずっと大きいと思います。ですので、面子で事件化するとい言うべきでなく、今回の判決を教訓とし、これまで殆ど立ち入ることのできなかった医療過誤の分野へ、検察が積極的にメスを入れ、これまで見過ごされてきた被害者・遺族を救済すると言うべきだと思います。

○○が見逃されているのに△△だけが起訴され、有罪となるのは不平等だという議論は不毛です。
身近な例として、交通違反を例にとっても、警察・検察は全ての交通違反を検挙し、検察は、反則行為でないものは全て起訴したいと思っています。でも、24時間・日本中の全ての道路で取り締まりをすることは物理的に不可能です。ですから、より悪質なものの方を取り締まらざるを得ないのです。警ら中のパトカーが1台で、赤信号無視をした車が連続して2台あった場合、パトカーはより悪質な後ろの車の方を検挙します。赤信号になってから進入した時間の遅い方がより危険で悪質だからです。これは不平等でしょうか?そうではないと思います。

この回答への補足

あなたの意見は、多くの検察官がするものと類似しています。残念ながら、幾つかの点に賛成しかねます。Bottonholeさん等他の方々はどのように考えますか。

検察官は、過去の不起訴の例にとらわれなくていいと思っているから問題なのです。実態として、過去の例を「参考にする」が「縛られない」というのは、検察官が検察官的に刑事訴訟法を解釈しているからであり、それが唯一の解釈ではありません。過去の不起訴の例に縛られる「べき」という議論を説得的に組み立てることが不可能なわけがありません。私がやりますし、多くの先人が行っています。実際がそうでないのは自明です。

これは運用の問題です。法の下の平等を適切に考慮すれば広い裁量権が狭くなります。挑発的な言い方をすれば、検察官がもっとしっかり起訴・不起訴の前例を勉強し、ちゃんとした前例を積み重ねていくことで解決します。なぜ起訴するのかという点について、似た件で不起訴となったものとの違いを説明できるほど勉強している検察官はまれです。自分が判断していいことだ、とふんぞり返っているのが私の知っている多くの検察官です。

良心のみに基づいて判断していい裁判官でさえ、前例に縛られるのに、検察官が野放しではいけません。検察官は、過去の判例だけでなく、過去の検察が下した不起訴例に縛られるべきです。前者は多くの検察官が賛成しますが(これすら反対する人もいます。裁判所の判断は絶対ではないと)、後者は頭ごなしに否定します。ある裁判官は、検察官の裁量の幅は本来狭く、裁量があると誤解しているため平等性に欠ける問題ある判断も多いが、明らかに不当なもの以外を裁判所がストップをすることはできない。検察庁にこの問題を運用で解決する努力をしてもらうほかないが実際は野放しだ、といっていました。

「個々の地域である程度の基準を定めている」のなら、少なくともその基準に検察官は縛られているのです。ただ、大陸法的に定めた基準だけに縛られるのでなく、英米法的に過去の例に縛られるという側面も忘れてはいけません。

検察官は、謝らないので、面子といいました。医者だって無罪にもかかわらず、被害者に遺憾の意を表明しているのです。どうして、検察官は遺憾の意を表せず、尊大に裁判所に主張が受け入れられなかったことだけを遺憾というのでしょうか。許されません。被害者の救済も必要ですが、医者に対する配慮も少なくとも無罪になってからはすべきです。両者は二者択一ではありません。Tomoさんがまさしく言うように、検察が入れるメスが間違っていれば、医者同様謝る必要があります。

より悪質なものから検察は手をつけているとはいえません。私は堀江の味方でもなんでもありませんが、堀江と鐘紡、どちらが悪質な粉飾決算したでしょうか。答えは明白です。より悪質でないものから手をつけるから検察はダメなんです。これが多くの人間が検察を正義ぶっていると考える元凶です。

私は別にTomoさんに反論しているわけではありません。いろいろ教えていただいて感謝しています。著しく公平性に欠ける起訴が行われ続けていることはどう考えてもおかしい、それが続いているのは検察的な刑事訴訟法の運用がまかりとおっているからだ、という素朴な発想からです。

補足日時:2008/08/21 19:16
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>網の目が5ミリなら、5ミリ以上の石ころしかふるいに残りませんが、その石ころを落としてもいいが、3ミリのを起訴しちゃいけないということです。



 検察官が不起訴にする理由として次のようなものがあります。(訴訟条件「例えば、親告罪における被害者の告訴」が具備していないというのもありますが、それは考慮しないとします。)
1.嫌疑なし(犯罪事実がないことが明らか)
2.嫌疑不十分(犯罪事実を証明するに足りる証拠がない)
3.起訴猶予(嫌疑は十分にあるが、情状等を考慮して起訴しないこと)
 御相談者の言う「網の目が5ミリのふるい」は、上のどれをふるい落とす物なのでしょうか。

>学説として、公訴権濫用論を唱える場合、その強い主張者は「検察官の裁量の範囲は小さいべき」、弱い主張者は「検察官の裁量はある程度ある」となり、公訴権濫用論反対者は「検察官にはきわめて広い裁量の余地がある」となるのでしょうか?

 公訴権濫用論を肯定する論者も、検察官に広い裁量権があること自体は否定していないと思います。「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは」というように考慮すべき事情をある程度、例示をしていますが、その具体的な基準は何ら定めていませんし、あくまで「公訴を提起しないことができる。」のであって「公訴を提起してはならない。」とはなっていないからです。 刑事訴訟法における公訴権濫用論が可否が先鋭化するのは、先に述べた3のケースです。(違法捜査に基づく起訴も問題になりますが、話が広がりすぎるので考慮しないのとします。)もちろん、1.2.の場合にも問題になりえますが、刑事訴訟法上の被告人の救済手段としては無罪判決があります。ところが、3.のケースは、刑事訴訟法上の被告人の救済手段として無罪判決を言い渡すことができませんから、被告人が有罪か無罪かという実体的な審理、判断をしないで、公訴棄却判決という審理打ち切り判決をすることによって被告人を救済すべきでないかというのが公訴権濫用論のねらいです。
 しかし、公訴権濫用論というのは、劇薬です。検察官が、刑事訴訟法の手続きに従って起訴したにもかかわらず、公訴棄却判決をするというのは、重要な検察官の訴追権、別の言い方をすれば、検察官の裁判を受ける権利を奪うことになりますから、(あくまで比喩的な表現であって、憲法が被告人に保障している裁判を受ける権利と同列に扱えという意味ではありません。)きわめて例外的な救済手段であることは、どの論者も否定していないと思います。

この回答への補足

裁量ある、ないの議論は極論なので、表現を変え、議論の組み立てを変えます。

要は私が考えていることは、検察官は前例にどの程度縛られるのか、ということです。前例には、第一に過去の判例、第二に過去の起訴・不起訴の例(不起訴は判例になりません)があります。これら前例に縛られるのであれば、裁量の幅は狭くなります。前例にとらわれないのであれば、裁量の幅は広くなります。前例に縛られないなら、検察官によって判断が異なってきます。縛られるなら、検察官による差は小さくなります。

裁判官は、相当程度判例に縛られます。

実態としては、検察官が起訴・不起訴の例に縛られるべき程度は低いのだと思いますが、それは運用の問題であり、「本来は、検察官は起訴・不起訴の例に縛られるべき」という議論を行うことは可能でしょうか。

例えば、今回の件は仕方ありませんが、今後検察官が「面子」にこだわり、医療事件をどんどん刑事事件化したりするようなことは許されるのでしょうか(罪を疑われた医者には多大な被害があります)。また、日興證券等よりわるいことをしていた企業がすべて見逃されているのに、堀江氏だけが立件され有罪実刑という不平等は許されるのでしょうか。

一般の事件と、特捜部の事案で、上記の裁量に関する議論に違いはありますでしょうか。

補足日時:2008/08/21 03:06
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 検察官の起訴裁量権を考えるためには,民事のいわゆる検察国賠事件の判決も見る必要があります。



 最高裁昭和53年10月20日判決(民集32巻7号1367頁)は,「公訴の提起は検察官が裁判所に対して犯罪の成否,刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから,起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証は,その性質上,判決時における裁判官の心証と異なり,起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが相当である」としていますが,これを裏から読めば,検察官において,合理的な判断過程において有罪と認められる嫌疑がない場合には,訴追権はないということを述べているように見えます。

 また,最高裁平成2年7月20日判決(民集44巻5号938頁)も,再審無罪ケースについて上記の判断を再度示しています。

 このことと刑訴248条の条文を組み合わせると,訴追時に検察官において,合理的な判断過程において有罪と認められる嫌疑がない場合には,それをあえて起訴するという裁量権はない,ということになります。

 質問の,「通常であれば起訴されない事件」が,訴追時に検察官において有罪の心証をとるだけの嫌疑がない事件という意味であれば,それを検察官の裁量で起訴する権限はないということになります。

 質問の,「通常であれば起訴されない事件」の意味が,上記のような場合は,このような結論になります。というのが,オーソドックスな議論です。

 しかし,現在の被害者主権の時代を考えると,あるいは,被訴追者の自己決定権ということを考えると,被害者の納得のため,逆に,被訴追者が自分が潔白であることを確定させるため(被疑者が,自分は無罪なのに,有罪を推定させる起訴猶予とされたことに不満を持つことは十分考えられます。),検察官に起訴を求め,検察官がこれに応じるということの,法律的な可能性は,当然議論されてもしかるべきではないかと思われます。

 いまのところ,検察官が,無罪となる可能性を予測しながら,あえて起訴した事件があるとは思えませんが,いずれそのような事件が出てくる可能性はないとはいえないと感じられます。学説的に,そのような議論が出ているのかどうかも,私には判然としませんが,あってもおかしくないと思っています。

 この点に関しては,随分以前ですが,有罪率の高さが批判されたことに関連して,かつて,某教授(名前を忘れました。)が,「もっとあっさり起訴することができてもよいのではないか」という趣旨の発言をされたことがあると記憶しています。このような議論は,無罪予測事案についての検察官の裁量権を考えさせる一つのきっかけになるようにも思えます。

 なお,起訴猶予相当事件を起訴したことが裁量権の濫用になるかどうかは,控訴棄却の可否が争われた,いわゆる川本事件の最高裁判決が述べているとおりです。

 この事件は,起訴すれば,実体的に有罪は明らかな事案で,ただ,その事件の経緯からして,起訴猶予とすべきであったとされる事案に関するものです。

 訴追時に有罪心証事案と,無罪心証事案では,最高裁の考えが大きく違っていることが分かると思います。

この回答への補足

Law amateurさん、ありがとうございました。ちなみに、あなたは法曹ですか? 私は法哲学が好きなのですが、実定法は勉強したことがほとんどありません。はじめの6つのパラについては、痒いところに半分指が届いた感じです。ただし、一つ疑問が残ります。

私が問題としているのは、類似の件の類似の扱いです。つまり、仮に有罪と認められる嫌疑があったとしても、類似の件をすべて起訴していないなら、一件だけ起訴するのはいかがなものか、ということです。

本日村上氏の裁判が問題になっていますが、村上氏が有罪になる嫌疑でなく、同様のことをしている人がどのように扱われてきたか、扱われているかを無視して起訴するのはだめだ、と私は考えています。

Law amateurさんの考えでは、十分な嫌疑がない件を起訴する裁量はなくても、嫌疑があれば、類似の件(あるいはそれよりひどい件)がすべて見逃されていても起訴する裁量はある、と考えますか?

つまり、「有罪の嫌疑」の定義が問題です。二つの定義のうち、私は後者だと考えています。
有罪の嫌疑の定義1:当該件を裁判で有罪にできる可能性がある
有罪の嫌疑の定義2:客観的に類似の件がどう扱われているか(類似の件で有罪のものがあるか判例を調べるだけでは不十分です。類似の件が99%起訴されないのであれば、1%の立件されている件との類似性を強調しすぎるのではなく、99%の起訴されないケースに従うべきです)

最後に、私も有罪率を高くするために無駄な労力を検察官が使うのはよくないと思います。不当に起訴されたと思う人も不快ですし、不当に起訴してもらえなかったと思う被害者も深いです。機械的に上げて、裁判所が判断するでいいと思います。検察官は、機械的な仕事をしていると思いたくないがために、結果として人々に不快な思いを与えてしまっているのです。これは、現在の検察が、上記の有罪の嫌疑の定義を1と2の中間においていて中途半端な制度設計になっているからだと思いますがいかがでしょうか。

川本事件の少数意見は検察官出身者でしょうか?

補足日時:2008/08/20 00:59
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 参考URLで、判例(最判昭和55年12月17日刑集第34巻7号672頁)を読むことができます。



参考URL:http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_i …
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>しかしながら、通常であれば起訴「されない」件を起訴する裁量は検察官にあるのでしょうか?



 御相談者の言わんとすることは分かりますが、通常であれば起訴「されない」件を起訴する裁量は検察官はないとしてしまうと、通常であれば起訴「される」件について起訴しないという決定を下す裁量もないとしないと論理が一貫していないように思われます。
 それはさておき、御相談者の疑問は、学説では公訴権濫用理論として論じられています。詳しいことは刑事訴訟法の基本書等を読まれた方がよいと思いますが、「そもそも、公訴権の濫用というものを認めるべきか。認めるとすればどのような場合か。例えば、起訴猶予を認めるべき事情があるにもかかわらず、これを考慮せずに検察官が公訴を提起することは検察官の公訴権の濫用に該当するか。該当するとすれば、裁判所はいかなる判断をすべきか。(刑事訴訟法第338条4号の適用あるいは準用により、裁判所は公訴を棄却する判決をすべきか。)」という形で議論されています。
 しかしながら、最高裁判所は、公訴権の濫用により公訴の提起が無効になる可能性を否定できないとしたものの、例えば、公訴の提起自体が職務犯罪を構成するようなきわめて限定的な場合に限られるとしており、判例は、公訴権濫用論を事実上否定していると評する論者もいます。

刑事訴訟法
第三百三十八条  左の場合には、判決で公訴を棄却しなければならない。
一  被告人に対して裁判権を有しないとき。
二  第三百四十条の規定に違反して公訴が提起されたとき。
三  公訴の提起があつた事件について、更に同一裁判所に公訴が提起されたとき。
四  公訴提起の手続がその規定に違反したため無効であるとき。

この回答への補足

ありがとうございます。

論理一貫性については、私は、問題ないと考えています。裁量なしに(あるいは「ほとんど」裁量なしに)起訴すべきかどうかは決まるという「前提」の下、ふるいから落とす裁量はあっても、ふるいに乗っていないものを乗せる裁量はない、というロジックです。網の目が5ミリなら、5ミリ以上の石ころしかふるいに残りませんが、その石ころを落としてもいいが、3ミリのを起訴しちゃいけないということです。

公訴権濫用については、起訴しない濫用の議論は多いものの、起訴する濫用はあまり議論されません。Bottonholeさんの言うとおり、最高裁は公訴権濫用論を相当程度否定しているのかもしれません。

学説として、公訴権濫用論を唱える場合、その強い主張者は「検察官の裁量の範囲は小さいべき」、弱い主張者は「検察官の裁量はある程度ある」となり、公訴権濫用論反対者は「検察官にはきわめて広い裁量の余地がある」となるのでしょうか?

この解釈が妥当なら、話はわかります。実際の現時点での最高裁の運用では検察官の裁量はある程度認められているが、学説によっては(強い公訴権濫用論)検察官の裁量は限定されるという考えもある、というのが答えとなります。

補足日時:2008/08/19 23:52
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質問1について、これは、刑訴法247条の「公訴は、検察官がこれを行う。

」につきると思います。つまり、まず公訴=起訴ありきなのです。まず公訴=起訴ありきだからこそ、検察官の"裁量"で起訴しないことができるのです。公訴=起訴に裁量という言葉を使うこと自体が適切ではありません。不起訴の場合に、初めて検察官の"裁量"が入る余地が産まれるのです。
質問2について、前述のとおりですので、公訴=起訴は検察官の"裁量"という言葉に馴染みません。
質問3について、検察官が行う、検察官としての権限=職務には全て法的な根拠があります。法的な根拠のないことを検察官が検察官として行うことは絶対にあり得ません。
検察官の裁量権は、起訴できない(証拠上有罪を得られない)事件には及ぶ余地がありません。検察官がどのような事件・事案でも起訴できるのは検察官の裁量ではなく、法的な根拠に基づく当然の権限です。
証拠上、起訴できる(有罪を得られる)事件の場合に、初めて検察官が裁量権を発揮して、起訴しない処分(起訴猶予)をすることができるのです。
うまく文章にできない部分もあり、なかなかthinker123さんが求めておられるような回答ができず申し訳ありません。
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No.1です。

若干補足します。
> 私の問題意識は、検察が、あえて起訴を「する」権限を有しているのか、ということです。
有しています。公訴権は検察官が独占しており、また、検察官は独任官庁ですので、どのような事件・事案であっても起訴することは可能です。法律上有効か無効かということだけに絞れば、検察官は、誰がなんと言おうとも起訴することは可能です。
たとえ有罪判決を得られる見込みがなく、無罪となるような事件であって、上司の決裁等を無視しても、起訴は可能です。
通常の場合、各検察官は上司の決裁を経て起訴しますが、例え、決裁官が「この証拠では有罪を得られる見込みがないから不起訴にするように。」と決裁したとしても、これを無視して自身の判断で起訴することは可能ですし、違法ではありません。
ただし、そのようなことをすれば、適格審査会にかけられたり、国家公務員としての懲戒処分の対象となります。
> 通常は見逃すものを、検察官の裁量で起訴することは、あるのでしょうか。あるなら、その根拠は刑事訴訟法何条でしょうか。
これは、刑事訴訟法第247条の「公訴は、検察官がこれを行う。」が大本の根拠です。
求めておられる回答とは違うのかも知れませんが、検察官は、証拠を吟味し、起訴できるか起訴できないかを判断しています。そして、起訴できるもののうち、あえて起訴するまでもないものを起訴猶予としていますので、証拠が十分でなかったり、通常では起訴しない事件を、上司の決裁を無視して起訴するような検察官は検察官として不適格であることをご理解ください。

この回答への補足

No1さん、論点整理ありがとうございました。

質問1
実際問題として、どのような事件・事案であっても検察官が起訴することが可能であることは承知しています。私は、その法的根拠を知りたいのです。裁量権限を有している、とはじめに書いてしまいましたが、厳密には、実際問題として権限を行使しているかを問題としているのではなく、それは法的根拠のある権限なのかということを問題としています。裁量権限の行使が無効でないということが、裁量権限の行使の積極的な法的根拠になるとは思えません。

質問2
刑事訴訟法247条は、公訴は検察官が行う=検察官以外は公訴を行えない、ということを述べているに過ぎず、どのようなものを起訴すべき/すべきでないという問題や、どのような裁量権限を有しているのかという問題には言及していないと思いますが、違いますでしょうか。裁量については、248条ですが、これは、私は、繰り返しになりますが、起訴しない裁量のみが規定されていると思います。起訴しない裁量が明記されており、起訴する裁量が書かれていないということは、後者の裁量権は存在しないのでないかと考えています。

質問3
Johnsonの「日本の検察制度」等にあるように、日本の検察は強大な権限を有しているというのが通説ですが、私は、法的に権限を与えられているのではなく、根拠のはっきりしない運用でそうなっているのだ、と考えています。法的根拠のはっきりしないことを、実際に行い、それが無効でないためにはびこっている、という議論を展開することは、おかしいでしょうか。

以上、刑訴の実務家からみれば唐突な質問かもしれませんが、非実務家・非日本人からみれば通説はそれほど自明でないことが多いので、教えていただければ幸いです。

補足日時:2008/08/16 18:49
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>よく、「検察官は起訴するかどうかを裁量で決められる」ということを聞きますが、その意味がよくわかりません。



その意味は、当該検察官の自由意思に任せる。
と云うことです。
検察官は、1人1人が独立した機関なのです。
ですから、「誰がどう云おうとも私は起訴する。しない。」と云う権限があります。
これは、裁判官、執行官、公証人も同じです。

この回答への補足

私が問題としているのは、何が裁量で決められるのか、ということです。

私の主張は、検察官は、誰がどういおうと起訴「しない」という権限は有していても、誰がどういおうと起訴「する」権限は有していないのではないか、ということです。

検察官の独任官庁については、起訴「しない」権限を行使する際には上司の決裁が必要なわけであり、検察一体の原則とあわせて考える必要があると思います。また、起訴「しない」権限の歯止めは、検察審議会にもあります。

補足日時:2008/08/16 16:07
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刑訴248条の起訴裁量主義(起訴便宜主義)は、たとえ犯罪の証明が十分であると認められる場合であっても、あえて起訴をしない権限です。


不起訴処分は、証拠が不十分で、起訴しても犯罪の成立を立証出来ず、有罪判決を得られる見込がないために不起訴とする「嫌疑不十分」と、犯罪の成立などに問題はないものの、個々的な事情を考慮して、あえて起訴しない「起訴猶予」とに大別されますが、後者の「起訴猶予」処分が起訴裁量主義(起訴便宜主義)です。
証拠が不十分な場合(起訴しても無罪になる場合)は、そもそも起訴しませんが、これは起訴裁量主義(起訴便宜主義)によるものではありません。

この回答への補足

ありがとうございます。

私の問題意識は、検察が、あえて起訴を「する」権限を有しているのか、ということです。

私は、検察官には、ふるいから落とす権限はあっても、ふるいにあげる権限はないと考えます。証拠はある程度あるものの、通常は見逃すものを、検察官の裁量で起訴することは、あるのでしょうか。あるなら、その根拠は刑事訴訟法何条でしょうか。

例えば、多くの人々が同じようなことをしている状況下で(例えばグレーな決算:黒とも白ともいえないこと)、一部の人のみを裁量的に起訴する権限を検察が有しているのでしょうか。日本の検察はそのように考えているようですが、その法的根拠は曖昧なんじゃないか、と思うのです。

罪を問われている人が検察を不快に思うのは、罪自体を否定しているというよりも、どうして類似の件はすべて見落としているのに自分だけみせしめで罪を問われるのか、ということです。

特に、国策捜査の裁量性を問題視しています。

補足日時:2008/08/16 16:09
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