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カントの図式を修正した形で論理実証主義者も同様の区別を設けたようですが、命題において両者の明瞭な差はありますか?また上記の対概念が消去できるとすればどのようなことが考えられますか?

A 回答 (3件)

>クワインはこう言っています。


「分析的な言明と総合的な言明ののあいだの境界は、まだ引かれていない。そもそもこうした区別が必要だということそのものが、経験主義者の非経験的なドグマであり、形而上学的な信条なのである。」

何か、自分より詳しい人に向かって講釈しているようなイヤな予感に襲われます(笑)。
だけどそのぶん話が通じやすいということで、物事は明るい方を見ることにしよう。かみ合わない議論を延々と続けることほど不毛なものはありませんからね。

さてこれはクワイン先生の論理実証主義に対する「二つのドグマ批判」ですね。
相手の旗印をつかまえて、いきなりドグマ呼ばわりしちゃうんですからすごい話です。わたしのように「気の弱い」∧「平和主義的な」∧「穏やかな」人間には逆立ちしてもできないことです(似たような形容詞を三つ重ねると嘘くさく聞こえるというのは、語のいかなる働きによるものでしょうか)。

さて、クワインがドグマと呼んだのは
その1.分析的な真と総合的な真、このふたつのあいだに根元的な断絶があるという信念
その2.還元主義、つまり有意味な文であるならば、どんな文でも直接的経験を指示する話をもとに論理的に構成された文と同値になるという信念
のふたつでした。

クワインの分析性批判っておもしろいんです。
言明の分析性を規定することは、同義性を必要とする。この同義性がまた分析性を基準としてもつ。結局のところ、分析性を規定することはできないし、分析的と総合的の間に境界線を引くことはできない、って言ったんですね。わたしなんて即座に説得されてしまいます(笑)。

ただ、論理実証主義者にとって、分析的命題と総合的命題の区別というのは、死活的に重要なことだったんです。

「論理実証主義は、まさしく「思弁的形而上学と自然科学との間」に「境界」を引こうとしつづけてきたのであります。…のみならず、論理実証主義が「境界画定」を追求したのは、まさしく彼らが“認識の如何をも超越して決まった在り方をしている実在”を想定していたからであり、だからこそ、彼らは、“その「実在と対応」する文のみが真な文である”とする「真についての対応説」を露だに疑わなかったのであります」(大庭健『はじめての分析哲学』p.109-110)

おっと、話が先走りました。「疑わなかったのであります」ではあっても、この「分析的/総合」という区別が論理実証主義、というかカルナップのなかでも徐々に揺らいでいった、その筋道をあらっぽくたどっていこうというのが、今日のわたしのもくろみでございます。今日の典拠はそういうことで大庭さんの本です。

大庭さんは
・世界の実在と対応しているがゆえに真な「総合的」な文
・語の意味ゆえに真である「分析的」な文
というふうにまとめています。

論理実証主義者が最初にやろうとしたことは、語の意味の明確化ということです。
言葉の意味は、明示的定義によって定めることができる。つまり、意味のすでに与えられている他の言葉によって書き換えて、言葉の意味を定めることができる。この書き換えは、やがて書き換えられない、基礎概念に到達する。

基礎概念の意味を定めるには、実際の使用によって言語を習得する方法しかありえない。「青い」とか「熱い」ばかりではない。たとえばアインシュタインは「遠隔地で同時的」がなにを意味するかを定め、この同時性を決定するための実験的方法を提示したが、その言葉が「どういう状況で使われるか」を示してやればよい。

さて、命題の意味は、それが検証される方法によって決められる。
ここで注意しておかなければならないのは、言明の検証はあくまでも可能性が問題であって、それが実際に検証されることは問題ではないのです。
というのも、その命題に意味があるかどうかは命題が検証されたのちの生じるものではないからです。というのも、検証が実行できるためには、どういう状況でその命題が真となるかをあらかじめ知っていなくてはならないからです。
だから、問題になるのは、命題の「検証可能性」ということです。

ここから「文Sが「経験的に有意味」であるのは、Sを言語L0の文に還元して、その真偽を「検証する可能性があるとき、そのときに限る」という、論理実証主義の旗印になったのでした。

それが前の回答でもごしゃごしゃと書いたようなおぼろげな記憶があるんですが、ともかくその明示的な定義」も「検証可能性」さまざまな批判にさらされて立ち行かなくなってしまう。

そこでカルナップがやったことは「検証可能性」を「確証可能性」にまでゆるめてやることでした。

言明が確証可能であるのは、その言明が真となる状態を述べることができる場合である、というのです。

「ある言明が他の言明に還元されるとき、その言明は他の言明に還元されるとき、その言明は他の言明を用いて、直接的あるいは間接的に、また完全あるいは不完全に、確証できる。」(クラフト『ウィーン学団』p.122)

ところがその還元文が実験・観察を重ねることによって書き換えられていくとすると、「経験的研究とともに書き換えられていく文が、語の意味のみに依存する《分析的》な文だ、という若干おかしなことになってまいります。…《分析/総合》という区別が、少なくとも思われていたほどには明瞭でないこと」(『はじめての…』p.86)があきらかになっていくわけです。

非常におぼつかない回答ではありますが、なんらかのお役に立てればこれほどうれしいことはありません。

この回答への補足

お忙しいところご回答いただきありがとうございます。

いつもながら感心しますが大筋の流れが非常にわかりやすくすらすらと読めますね。
おかげさまでクワインの連続主義を思い出しました。

その先についての質問を目にされたときは、

何卒宜しくお願い申し上げます。

補足日時:2008/08/29 23:29
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文章作ってる間にすごいのが出ちゃってますが、これ、せっかく書いたんだから削除されることのないように(笑)、お手柔らかにお願いします。


カルナップの方は、もうちょっと待ってください。どう書いたらいいか(ってもたいしたことを知ってるわけじゃないんですが)もう少し頭の中で煮詰めたいので。

まずカントの方をおさらいしておきましょう。ここらへんことは質問者さんはわかっていらっしゃると思うんですが、わたしはこういう書き方しかできないので。

分析判断:主語の概念のなかに述語の概念がすでに含まれている判断
 (例) 琵琶湖は湖である。
 常に真であるがわれわれの認識を拡張させるものではない
総合判断:主語の概念のなかに述語の概念が含まれていない判断
 (例) 琵琶湖は大きい。
 常に真であるとはいえないが、われわれの認識を拡張させるものである。
ここからカントは経験的認識と、経験から独立な先天的認識に分けていったのでした。

この分析判断と総合判断の区別が『純粋理性批判』のなかで重要だったのは、カントが数学の命題、たとえば 7+5=12 というのは総合判断である、とした箇所です。カントはこれをアプリオリな総合判断が人間の認識に可能であることの根拠にしていましたよね。

一方、カント以降の経験論者(J.S.ミルなど)も、数学が総合判断である、というカントの規定は受け継ぎます。ミルは、数学と論理学は経験のもっとも高度な一般化であり、経験を抽象し形式化したものである、したがって両者とも自然法則を含み、帰納的である、それゆえに経験によって反駁できるものであろう、と考えていました。

そこでウィーン学団は数学の命題が「分析判断」であることを示したのです。
7+5=12 というのは、等式の結果、ふたつのグループの単位からひとつのグループの単位へと算術規則に従った変形が行われているにすぎない。そのさい、まったく記述体系の内部にとどまっている。

つまり、数学の命題は総合的ではなく分析的である。数学の命題は、それを構成する概念の定義だけを根拠にしてすでに真と(あるいは偽と)認めることができる、という見方をあきらかにしていったのです。

その結果、数学・論理学と経験の関係が整理されていきます。

数学は分析的命題なので、アプリオリな(※ここでは「経験から独立した」という以上の意味を与えません)総合判断の妥当根拠をここに求める必要はないし、そのために「純粋理性」も「純粋直観」も、直観や明証性も経験も要求する必要はない。
分析的関係は論理的関係であって、経験的関係ではなく、論理的関係は記述体系内の関係でしかない。

このことは経験論を根本的に変更させるものでした。
経験論は、「すべての認識と学問を経験から導き、経験に基づかせる」というものから、「事実の認識」に制限されたのです。そこからすべての総合判断は経験だけを根拠に妥当することができるし、総合判断の妥当性の根拠はそれ以外にない。それに対して論理学と数学は事実についてなにも言明しないから、たとえアプリオリな妥当性を認めたところで、事実認識の領域での合理論を招来する必要もない。

ここから二種類の言明が導き出されます。
ひとつは、経験から独立して必然的に妥当する命題。
これは、論理学だけを根拠にするもので、事実についてはまったくなにも言明しない「分析命題」です。
そうしてもうひとつが、事実についての言明、すなわち、経験だけを根拠に妥当し、撤回可能な総合命題です。

これは、カントが言ったような「経験/先天的」からなる絶対的な二元論ではありません。理性的認識は、経験的な認識とは別の世界を切り開くものではありません。

>命題において両者の明瞭な差

というのはこういうものとして理解できるのではないかと思います。
要は、ウィーン学団によって論理学が経験論の中に位置づけられたということなんですね。

とりあえずここまででいったん切ります。
後半の
>対概念が消去できるとすれば
ではなくて、論理実証主義の場合、この区別がだんだん曖昧になっちゃったんです。これについてはもうちょっと具体的なことに踏み込まなくちゃならないから、またどういうふうに書くか頭をひねります。
踏み込んでいったらいよいよ怪しくなってくるんですが(笑)。

以上のことは一応V.クラフト『ウィーン学団―論理実証主義の起源』に拠っています。わたしの能力の問題で理解できていなかったりおかしなところがある可能性は十分にありますので、その部分はお含みください。

この回答への補足

ghostbusterさん、わざわざありがとうございます。

どうも日に日に記憶の方が薄らいでいってしまっているようで。
過去の自分の質問を見ると、補足で次のようなことを言っているのですが自分ではこれすらも完全に忘却の彼方で(笑)。

カントの説では、2+3=5と言う判断は理性の先天的形式によるものでしかも新しい知識が加わるので先天的綜合判断であり、論理実証主義の見解によれば、2+3=5という判断の先天的必然性は記号の用法の取り決めと演繹的で同義反復的な性格によるものだということです。
だから論理実証主義の立場では先天的即分析的な判断になり、総合的な命題とは経験によって真偽が決定されるような感覚命題のみということになります。
問題はコンベンショナリズム対論理のリアリズムと言うことだと思います。
クワインはこう言っています。
「分析的な言明と総合的な言明ののあいだの境界は、まだ引かれていない。そもそもこうした区別が必要だということそのものが、経験主義者の非経験的なドグマであり、形而上学的な信条なのである。」

初期ラッセルの方は記憶に残っているのですが、カルナップの方はまったく曖昧で。
宜しくお願いします。

補足日時:2008/08/28 21:51
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貴方の質問は勿論何かの宿題だとは思いませんが、質問の仕方は明らかに宿題の丸投げの範疇に入ります。



ここは哲学欄です。先ず何故両者の命題の間に明瞭な差があるという主張に疑問を持つようになったかの根拠を提示すべきです。次に、対概念が消去出来る可能性があるかもしれないと質問者さんが考えるようになった根拠も提示すべきです。

さもないと、例えば「アインシュタインの E=mc^2 という概念が否定出来るとすれば、それはどのような状況が考えられますか?」と聞かれているようなもので、貴方がそう考えるようになった根拠を示さない限り、どう答えれば良いのか誰も分かりません。
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