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以前、仏教についての書籍を色々紹介して頂いたのですが
http://okwave.jp/qa4422313.html

つまるところ、仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。
ということでよろしいのでしょうか?
ようするに、この世における執着(未練)を断つこと。
その為に悟らねばばらない。
つまり、この世とは修行である、と…。

その為に、あらゆる煩悩を絶ち、禁欲にならねばならない(修行に専念?)
正直、思った以上に複雑というか結構歴史が古く(書いてあること自体は単純…のはずなのだが;)、色々な解釈(?)がありかなり混乱しています…;
個人的には原典であるパーリ語の仏典を読むべきなのでしょうが、パーリ語はまだ習得していないので今はちょっと厳しいです;(ただ、仮に読めたとしても私に理解できるのだろうか…)

正直、原典すら挫折しそうです…orz
自分自身正しく理解してるのかどうか不安というか…調べていてだんだん混乱してきました…;

A 回答 (17件中1~10件)

欲望から離れる。

そんな日常性のない絵空事は宗教でもなんでもない。

>>つまるところ、仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。
ということでよろしいのでしょうか?
ようするに、この世における執着(未練)を断つこと。
その為に悟らねばばらない。

ここの文章を要約すれば、自殺すればいいだけではないの?

死んだら仏になるという教えもありますが、それを信仰している人間で自殺した者を
見た事がありません。ツッコミどころ満載です。

欲望=悪と考えるのは低次元です。食欲、睡眠欲、性欲・・・。全て必要ですね。
いちど、学ぶべき教典を見直した方がいいと思います。

>>つまり、この世とは修行である、と…。
そんなもん、子供にでも分かるわw 悟ってそれだけだとすると不毛ですな。
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仏教では、この世界を仮の世界、諸行無常の虚像界と教えます。

不調和世界の脳と、調和世界の自然が、出会うためのシュミレーションの世界です。だから脳が思考してる時は、心がストレスになります。脳が休むと、人の心と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。だから人の心は、脳の自我と、自然の仏の心の無我が、合体して出来ています。だから脳を休ませると、仏の心になる事ができます。脳の教えや修行の必要はありません。脳を休ませる要領を習得するだけで、仏と交流する事が出来ます。実践方法は、仏教の座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを追求しています。茶道、能、日舞、浮世絵、日本画、雅楽、演歌、などたくさんあります。
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こんにちは、私は仏教を追及している者です。

私も、まだまだなので、間違いも多いと思いますので、そのつもりで読んで下さい。

質問について、思うに、簡単にいえば、苦しみを無くす事でしょう。

例えば、他人に怒って後悔する事はあります。そういった事は誰もが無くしたいと思う筈です。

又、大金持ちや、人気のある芸能人や、スポーツ界のスター選手等のような、人に羨まれる人であっても、結局、そういった悩みは尽きません。逆にいえば、苦しみを無くす為ならば、その地位を捨てても構わないとさえ言う人もあるでしょう。

つまり、人は誰であれ、苦しみから逃れたいと思っているのです。

そこで、そのために全てをかけて、出家し、托鉢し、遍歴をするという生活を選ぶわけです。

苦しみの原因は様々で、欲望であったり、感情であったり、執着であったりする訳ですが、何とかそれらを抑えられれば、あるがままの真理が見えると仏典に書いてあります。

何故ならば、執着などによって、正しい物が見えなくなっているからです。

これらの流れを簡単にいえば、まず、理法を知って、次にそれらを守り、その成果が出て、怒りや妄想などが無くなるにつれて、あるがままを見る事が出来るようになってゆき、同時にそれは、知識としてあった理法を自分で見る事になり、苦しみを全て無くす事が出来れば、完全な、何物にも邪魔されない平安を得て、全ての理法を知るに至る、という事ではないかと、考えて居ます。
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仏教の根本は、分からないうちは難しいです。

分かってしまえば簡単です。それは人間の脳の機能に関係してきます。死にたくないという事は、自我意識の願いです。或いは祈りです。ですが是は叶わない祈りです。

ですが人間はこの事に苦しみを感じます、人間の苦しみとは心の矛盾の又の名です。人間は永遠の命を望んでいます。その命を強く望んでいる人が宗教家になってきました。

従ってお釈迦様は、心の苦しみが深かった人と言えます。心の矛盾が開き過ぎていたからです。ですが矛盾という事から想像できます、心に永遠のものが存在しているという事を示唆しているからです。

禅問答が在ります、是は自我意識では解く事は出来ません。何故ならば禅問答は自我意識では解く事が出来ないように仕組まれているからです。人間の自我意識で解けないという事は、脳の機能から言えば説明する事が出来ます。

自我意識は左脳に在る意識です。その能力は分別する事です。分別するという事は、論理的に、計算が成り立つ問題という事になります。つまり、割り切れる問題は自我意識は得意という事になります。

という事は、割り切れない問題は解く事が出来ないという事になります。この割り切れない問題が、すなわち「禅問答」という事になります。人間の悩み、苦しみとは、自我意識には解く事の出来ない問題が左脳に割り込んできたことという事も出来ます。

人生における悩み苦しみとは、全てが割り切れない問題と言えます。この問題を分別脳で解決してゆこうとする事が、つまずく事の原因となっている事を教えています。

仏教の根本は人間が自分自身の脳の機能が分かっていないという事を説いています、自分自身の悩みを解け無い方の脳で解こうとして苦しんでいる姿を「無明」と言っています。

左脳の自我意識を苦しめているのは、その無明のせいであると説いています。自分を苦しめているのは「右脳の意識=無意識の意識=仏性」という事を説いています。

この苦しみから救われることが、自分自身を知る、見性、つまり悟りを開く事であると説いています。自我意識が苦しんでいるのを見て助けたいと「仏性は」思います。自我意識は、無明のためにその手を遮っています。是が心の矛盾です、苦しみです。

禅問答は、この心の働きを助けてくれます。つまり自我意識では出来ないと、諦めるのです。自分ではこの問題は解く事は出来ないと判るのです。是が悟りです。左脳の分別脳の能力では解く事が出来ない。と認めた時に右脳の意識=仏性が出てきます。是が悟りです。

それは、救いのない人生に救いを求めているのが、迷いであって、救いのない人生に救いは無かったと分かる事が、救いです。言い方を替えたなら、自我意識が自我意識の中で救いを模索しているのが迷いです。

自我意識が自分の計らいを捨てて、我を捨てて、仏性の申し出を受け取る時に救いは成就します。仏性は永遠という事を身をもって示しています。その影響が自我意識に変化をもたらします。『自分の肉体は、朽ちて行くけれども、自分自身は永遠そのものだった』という事を体感します。

この体感というものが仏教そのものです。脳の中、それも自我意識ではない方の脳、なかなか感じる事が出来ない「心」の事です。これ以後人間には悩み苦しみが無くなってしまいます。それはどんな事も肯定出来るようになるからです。

良い事も悪い事も分別を捨てて受け取る事が出来るようになるからです。絶対肯定という事になります。是は「絶対の安心」と言っても良いものです。なぜならば「神の御心のままに」という事が体得できたからです。是が涅槃という事になります。

お釈迦の教えは「最大の精神疾患の治療方法」と言えます。寛快という言い方はふさわしく無いと思います。是は精神疾患、神経症、自律神経失調症等の完治という言い方になってしまうと思います。完璧な治療方法と言えます。

ただ残念な事に、お釈迦の弟子は、黙って口をすぼめている事が多いので、世間では誰も分かっていないように見えます。
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無我を教えて、人を救うのが仏教です。

しかしこれを言葉や文字で、説明するから、混乱し迷います。諸悪の根源は、脳の思考です。自我とは、脳の事です。無我とは、大自然の心つまり仏になります。人の心の中に、自我と無我があり、対立しています。現代人は、自我の方が強いです。一万年前のアトランチス文明は、自我と無我が調和していました。また日本語は、母音を強く発音するので、母音の無我と、子音の自我が調和しています。宗教では、人は神の世界にいました。蛇に騙されて、知恵の実を食べて、脳の世界へ入って、迷い苦しんでいます。しかし2012年、いよいよ人は脳を分離して、神の世界へもどります。結論をいうと、脳の思考が、ストレスで、思考を休んだ時が、癒しです。脳の思考を休めば、無我になれます。日本の和風文化は、脳を休ませて、心を癒す事が目的です。座禅、茶道、能、日舞、落語、演歌、太極拳、編み物書道、墨絵、すると無我になれます
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>仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。



まったくオーソドックスな仏教の解釈で、小学館「万有百科事典」の仏教の項にも、無我=悟り=涅槃、これが目ざす最高の境地、とされています。
そこに至るため、時代・社会の変遷の中、それぞれの仏法が説かれたのだと思います。

>この世における執着(未練)を断つこと。
>その為に悟らねばばらない。
>つまり、この世とは修行である、と…。

これは私の考えですが、修行→自我への執着を断つ→悟り→喜び→涅槃、というプロセスだと思います。
唯識論からすると、第7識・末那識(=自我に執着する欲望)を突きぬけて、第8識・阿頼耶識を直観したとき、
『一即一切、一切即一』(一つは全て、全ては一つ)、『自利即利他』(自らの利は、他者を利することだ)を感受できて、
他人の喜びが、そのまま自らの喜びとなるのだ。と思います。

だが人間が生きる限り、欲望が必ずつきまとい、また欲望があってこそ、生命を維持でき、利他行も、できます。
唯識論では、阿頼耶識を直観するために、師について瞑想をします。
禅をくみ、利他行をし、また禅をくみ、、、と修行して、人格を向上させて、涅槃をめざすのです。
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生身の人間が煩悩など断てません  彼方が思っているような崇高な悟など有りません。

ないものを分別するから混乱(煩悩)するのは当たり前です。

右の拍手を聞いて来いと考案

両手を叩くと音がしますね、片手の音を聞けと老師は迫るのです。

雲水は混乱します今の彼方のように分別で煩悩は解けないと悟らすのです。


つまり釈迦は6年、苦しみの問題に取り組んで自分の愚かさに気づいたのです人間から煩悩は取れないと人間の業で有ると大悟したのです。

親鸞は20年   達磨9年  多々聖人

彼方は何年で無条件降伏しますかな。

たぶん彼方は悟がそんなもの訳ないと思っているでしょう、どうぞお探しください。

真宗(他力宗)の話など聴きに行かれた良いと思います

鈴木大拙(自力宗・禅)も良いと思います。
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この回答へのお礼

何というかまさに今の私の状況を見透かしたようなお言葉…。
ただ者ではないとお見受けしました。

>彼方は何年で無条件降伏しますかな
この道(哲学)に入り現在まで20年…。
仏教はまだ数週間といった所ですが、早くも停止の気配があります。
もっとも、仰るとおり「必ず何かあるはずだ」と思い込んでますので、当分(少なくともあと10年?)はかかるでしょう。
「必ず見つけてみせる」という欲求(煩悩?)はまだ消えてません。

お礼日時:2008/11/12 04:46

[つまるところ、仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。


ということでよろしいのでしょうか?」
ようするに、この世における執着(未練)を断つこと。]

涅槃(煩悩を吹き消す)にはいるということですからこの世における執着(未練)を断つことで間違いはないですね。でも生きてるんですから煩悩を吹き消すことはできないですね。なにか変でしょ。そんなことお釈迦様は100も承知で言ってるんですね。つまり煩悩を切り捨てた後に残るものが悟りといってるんですね。煩悩を消せといってるんではないんですね。二重否定論法を使っているんですが哲学としても高度すぎて理解する人すくないですね。二重否定論法を考慮して仏教勉強するといいですよ。簡単に仏教といえば、第一の悟りは、涅槃を通じて人間は本来霊的存在であるといいたいのですね。それを得れば、逆に霊的視点から肉体を持って生きることが新たに肯定され、「霊肉不二」ですね。更に生きながら何をなすべきかが明らかになるという道筋ですね。他の回答にもある地上仏国土論に行き着くわけです。ここまで勉強して理解できると仏教の全体像が見えて来るはずですね。 がんばってください。
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この回答へのお礼

お礼が遅くってすみません;
PC不調でせっかく書いたお礼が吹っ飛んだりと踏んだり蹴ったりです…:

>二重否定論法を使っているんですが哲学としても高度すぎて理解する人すくないですね
やられました…;
正直、目から鱗とはこの事ですね。
御指摘頂いて助かりました;
正直、御指摘頂けなかったらひょっとしたら永遠に気づかなかったかもしれません。

どうも仏教は心との対話のようで難しい(雑念が多いので)ですね…;

お礼日時:2008/11/12 05:02

対してえらいお坊さんでもありませんが昔聴いたお坊さんの話だと滝に打たれたり経を唱えたりするのが修行ではないといっていました。



日常を繰り返しながらその真実の意味に気が付くことも修行でしょう。
哲学的に仏教を取り扱うと「我は在るか無しか」に行き着きます。
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この回答へのお礼

>日常を繰り返しながらその真実の意味に気が付くことも修行でしょう
おっしゃるとおりだと思います。

>哲学的に仏教を取り扱うと「我は在るか無しか」に行き着きます
仏教というか、あらゆるものがそこに行き着く感じがしますね。

お礼日時:2008/11/12 05:04

 本来、仏教とは、


 人間は仏性を有した仏子であり、
 本来は仏と同様になる性質(素質)を有しているから、
 修行して行くことで仏へと向かって人格を成熟させて行くことができ、
 その成熟の過程そのものに幸福を感じていくことができる、
 ということで、
 仏へと向かって成熟していくための方法を説いた教えであると言っていいと思います。

 その成熟過程として、
 自分づくりをある程度達成できた段階を「阿羅漢」といい、
 その上で利他行をメインとする「菩薩」の段階があり、
 更に1対1の利他行というよりは、太陽のように多者に慈悲を照射するが如き「如来」の段階があり、
 更に宇宙即我という境地の「仏」の段階がある、
 と、簡単に言うとそのような感じだそうです。

 そして、その成熟して行くための方法論としまして、
 「八正道」(とりわけ阿羅漢の境地に至るためには重要な方法)
       (正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)
 「六波羅蜜多」(更にとりわけ菩薩の境地に至るためには重要な方法)
          (布施、持戒、せん提、精進、禅定、般若)
 等があるわけです。

 そして、この他にも、悟りの境地を深めて行くための様々な御教えがあり、それを体得して行きつつ、自らが修めた御教えを、他の人々にも伝えて幸福感を深めて行って頂き、仏国土(ユートピア)社会を実現して行きましょう、という教えが仏教だと言っていいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

分かり易いご解説ありがとう御座います。
色々な宗派が仏教にもあるようで、意外と複雑ですよね。
原始である釈迦の仏教ですら、険しい道のりです。

お礼日時:2008/11/12 14:42

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