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現在保育士の資格取得のために社会福祉を学んでおります。

他者を助けようとする意図についてふと疑問が浮かびましたので教えてください。

世界の歴史を振り返ると、弱者への救済には政治的な意図(自分の権力を定着させるため)や、宗教的な意図(キリスト教的には、自分の罪滅ぼしや、死後救われるための善行目的も含む)があったとのことです。

また、国内においては江戸時代に、儒教の朱子学に基づく救済論が説かれたそうです。(ウィキぺディアで調べましたら、儒教は宗教ではないという捉え方が一般的だそうです。)

私は長らく宗教的な動機で他人に親切にしてきたのですが(周りが皆そうだったこともあり、動機が定着すればあとは惰性でできるというか、それが当たり前というか自然に行動指針となっている感じでした)、現在は無宗教のため、特に理由はないけれど人当たりは悪くないほうだと思います。

親しみを感じる人には仲間意識と言うか一体感がありますので、相手が喜ぶと自分も嬉しくなるので優しくしたいと思って優しくできます。

でも、(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。

駅等での共同募金の呼びかけ等にも、素通りできるくらいになってしまいました。ニュースを見ても、困っている人が世の中にいるという現実にも心が痛まなくなってしまいました。
社会問題に対する自分の無力さを知ったことも一因だとは思いますが、主な原因としては他人に無関心になったように思います。


そこで皆様に質問です。
<他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。>

※ただ、人に親切にすると気持ちがいいから、という理由では不足な気がします。皆がそうであるわけではありませんから。身内への情誼でさえ「面倒臭い」という人もいます。


この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。
儒教的思想だとそうでもないような気がしますが…(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。)

また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。

もちろん、身内に十分に親切にするだけでも、大変というか大切なことです。家族を疎かにしてしまうことだって珍しくないと思います。

だとすると、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?>

「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」
これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。

でも、年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。
それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ、(遠距離だった相手と1年半前に結婚しました)家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。

<宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。>


自己弁護というか自問自答な部分もありますがご容赦ください。

<>内の疑問に関する皆様のご意見や経験を教えてください。すみませんがよろしくお願いします。

A 回答 (19件中1~10件)

失礼な言い方かもしれません。


お気に触ったらごめんなさい。
あなたは人生で本当の壁に突き当たったことがないような気がします。
本当の壁に突き当たったら、救いは他人に求めますし、他人に求めても得られることはないと悟ると、人には親切にするべきことがわかります。このことでこれから生きていけるのです。前向きになるから生きていけるのです。
もし私が人を恨む選択をしていたら、わたしはこの世にいないだろうし、この回答をすることもなかったと思います。
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はじめまして。


ずっと自分と向きあっていましたが
久しぶりにネットを見たら連日のように叩かれていて
「他者」というものを考えてみたりしました。

といってもこの数ヶ月、精神的に相当きつかったので
本もろくに読めず、まともに思考していないので
どうなるか自分でも不安です。

私は仏教についてもまじめに調べていた時期があるんですね。
その頃は、全ての宗教には共通した真理があるかも
と考えていましたし、一つの宗教だけではなく多くの宗教を
学んで偏らないようにしようと頑張っていました。
私の場合、初めの教会が問題あったから
それがずっと尾を引いて悩んでいましたけど
でも結局、病んで、気が狂っているとかなんとか。
どうなんでしょう。

そんな時、キルケゴールの哲学を知って単独者という概念
を知ったんですね。神の前に唯一人で向き合うこと。
この人は教会も弾劾した人でした。

もう難しいことは記憶のかなたですが確か、
美的→倫理的→宗教的と実存の三段階というものがあり
さらに宗教的実存にはAとBがあり、
Aは自己の宗教が絶対でBは全てを神の意志にゆだねるという
ものみたいです。
救われても救われなくてもいい全てを神にゆだねる・・・のかな?
でもこれって、することがなくなりますよね。
救われるか救われないかわからない不安の中を生きる
という確かなものなど無い現代の思想の先駆けらしいですけど。

それで、キルケゴールの場合は「他者」が出てこないんですね。
神もキルケゴールの神は抽象的で語りかけてこない神。
孤独だったキルケゴールには限界があった。

でも旧約聖書を読むと神はやたらと語りかけてくる。
出エジプト記などではひたすら神がエジプトから救ったと
自己主張します。ちなみにこの神の名前が「わたしはある」
なんです。

つまり、神を信じるは、「私はある」を信じる。

「全てを疑って、私はある」といった人がいましたが
「私はあることを信じる」いった人もいるみたいです。

だから私があるというのは、かなり重要な問題です。
単純に無我とかでは済まない話です。非我という説もありますし。

それで、他者についてなんですが最大の他者というのは
やはり、神なんですね。
神という他者と向き合って私がある。

でも一人でただ神と向き合っていては
結局世界に一人きり。

これだと社会生活が成り立たないから問題ありということになる
そこで私とあなたとの間にこそ神がいる。関係こそが神である
なぜなら神は愛だから。人間と人間とが愛しあってこそ
神は愛となる。という思想が世の中にあるらしいです。
もし私と他者が憎みあえば神も憎しみになってしまうかもしれない。
そうなると、やはり、まずいですね。

というわけで人間と人間が愛し合うこと。それそこそが神を
愛にする…らしいです。

さて思い切り宗教の思想でしたが、
わたしもあなたも世界の一部であるから、わたしはあなたで
あなたはわたしなわけです。

万物は一なわけで、一は万物です。
どの人がどんな宗教だろうと、無宗教だろうと
敵だろうと仲間だろうと身内だろうと
良い関係を築きましょう。

きっと良い世界になりますよ。絶望ではなくて希望ですね。
今は世界も大変なことになってきました。

世の中が大変なときこそ
お互い親切にしましょう。やっぱり最後は愛なんですね。
もちろん、それは慈悲でもありますよ。
細かいことはもういいでしょう。
私とあなたがいて共同体となる。

攻撃されたからって攻撃していいわけではないですよね。
みなさんごめんなさい。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の
真理である」ダンマパダ。

「何事にも時があり。
愛するとき、憎むとき
戦いのとき、平和のとき。」

今は平和が一番です。
ここまで書いてきて質問者様のご期待とずれているかも
と感じましたが、せっかくなので投稿させてください。
少しでも参考になったら嬉しいです。
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親切を心掛けてはいないのですが、喜んで貰えること、喜びを分かち合える人との出会いはいいものです。

本心から言ってると思ってます。

サービス精神とホスピタリティ、そしてボランティア精神は全く別なものです。

サービスは従事者が主人に対価を求めて行います。
ホスピタリティは主人が相手の個性と互いに感動し合うことを求めて行います。

ボランティア精神とは自立支援です。つまり手を貸さずとも困っている人が自由に生きられる社会を目指し対等な関係を作ることです。
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  問題は解決したようにも感じますが。



 そこで、気になった点だけ。ご主人も含めて、実家なども同じ宗教のようですね。今もそうでしょうか?そして、ご自身は、現在無宗教・・・。
 現在のご家族の状況が判らないのですが、ご自身だけが止めたのであれば、心苦しい状況とも取れますし、止めた理由が同じ信仰者であれば、人間関係にシコリが残るのは当然と思われます。

 さて、私は保育士や社会福祉は余り詳しくありませんが、宗教から分離する傾向にあると思っています。高齢者のケアにしても、宗教関係している場合は歴史が深くかかわっていると思います。宗教だけでは、精神科の治療が出来ない事と同じように、接点はあっても行為としては分離されるでしょう。保育士さんが個人的に信じるのは自由でも、職員にも特定の宗教に拘るのは、実際はあったとしても可笑しなことです。法的にも教育法人とかの違った枠組みがあるでしょうから。個人の経営者が、特定の宗教を取り入れる事はあるでしょう。
 
 同じ経営者が、業務をまたいでいる場合。例えば医療と宗教が混在するケースとして、高齢者の介護施設や末期のがん患者などが考えられます。痛み止めが処方される(マリファナなど国際的な規約)ようです。医療としては医学を、心療法としては宗教的なケアをする場合はあると思います。でも行為としては、資格を持った同じ人が行う場合でも、別な行為でしょう。信仰を持った人が信じて行う行為でも、他の行為と矛盾すべきでないと思います。矛盾する見解の宗教には、NO(宗教行為の自由を)と言いましょう。強要するのは、もはや宗教にあらずと私は思います。
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すみません。

 回答ナンバーNo10ですが、 No7の回答へのそちらの>背景<についての切々としたコメントを読むまえにNo10の回答をしてしまいました。

ワーキングプアーの身で忙しく、かつネット音痴なため(会社のパソコンを使わせていただいていて、メールが届かない形でこちらを利用しているのですが、その設定が自分で出来ない。) ついあせった形となってしまいました。



ここは、私自身の子供の頃のある体験談をまず語らせていただきます。

もともとは並以上に頑丈でもあった私の体は 子供の頃のある時期に、ある大人からのいじめを受け、すっかり衰弱していきました。

小児喘息にかかり、それがやがて気管支炎や重い肺炎にもつながり、わたしは何度も死の床をはいずっています。

その大人は学校の先生だったのですが、 やがて私は その先生と同じような歩き方をしてる大人を通学電車にて見つけるとさっと逃げ出すようにもなっていたのですが、   親はというと、学校の先生がそんなことするはずないということで、 信じてはくれませんでした。

病気で衛星室でひいひい言ってるときにすっ飛んできたその先生に雨の中放り出され、 財布もなぜか持ってなかったようで、その雨の中を電車の線路沿いに家までずぶぬれになって帰った時には、 家につくなり大声で泣いてしまいました。   でもそんなふうに泣いて訴えても 親にはいじめなんてあるはずないとしか思えなかったようなのです。

孤独は 私の心を蝕み始めていました。

そんな時に 私はある信頼できる友達に自分がその先生をどれだけ憎んでいるかを離しました。 生まれて始めて人への憎しみを感じてるということをせつせつと話したのです。

でもその子にしてみれば 当人ではないので後から考えればそれは当然の答えだったのでしょう。 「 どんな時にも人を憎んじゃいけないよ」

もちろん普通ならば それは、わたしもよく理解できたことだったでしょう。

しかし、その時の私の心の内は、 これは言葉にできないのですが。

??????????????????!

でしかなかったのです。   なんで?解かってくれないのだろう??

それから 私の心は本格的に孤独の真っ只中に入ってゆきました。

どうなったと思いますか?

やがて、私は とうとう気が狂う体験をします。

二度ほどです。 詳しくは ここでは略しましょう。

ただ、話のつじつまがあうように 書いておきますが、 そこまでぎりぎりの地獄を見て、 そこまできてやっと、親も何かに気がついてくれたのです。

転校させてくれ、そしてその転校先の学校から 大自然の中のとある虚弱児施設に入ることができ、  その学校のおおらかな明るい先生方や、たのしい友達たちのおかげで私は  あぶなく廃人となって死んでゆく運命から脱出できたのです。

>愛情と憎悪を同一の対象に同時に抱いてしまうなど…<

ここで言いたいことは、このとそちらの文のうちの>憎悪<の部分です。

それは何かの精神的はショックを意味するかと思います。 そしてそういう時には どうしてもそうなってしまう感情になってしまう感情です。

ですので、それはそういうものだとあなたの認識に織り込無済みにしてください。 そうしていいことだと思うのです。

私たちは 弱い生物であり、そこからしか出発できないということなのです。

もう一つ そちらの「背景」については、回答してみたいことがあるのですが、  まずは、

それは そういう状況になればほかの人だって同じようになってしまうかなり人間全般の弱みを関る感情だということ、 けして気落ちしないことをこころかげてください。

病気だなんて思わない。 鬱ぐらい飲み込んでやれ^^。

大丈夫。 あなたなら。 (文章に思索の重みがありますから、文は人なりです。)

みなさん すばらしいアドバイスをくださってます。  あとは自分を信じることだと思います。  信じていいんです。

気が狂ったことがある私が保証します^^。

これは病気なんてモンじゃないですよ。

まったく別な意識の世界に入ってしまうことです。 動物の意識とすらそれは似ています。 それをいちいち覚えてはいるので    はっと気がついた時は 正直言って子供ながら みじめさの極地と思いました。

記憶ははっきりしてるのですから、今自分がどうなってたのかこどもだって解かってしまいますからね。   

もう なにもかもおしまいなんだ。    

でも そんな地獄にも 光はやってきました。

いま、あなたは実際にはとても書きがたいような何かを抱えてもいるのかもしれません。 神ならぬ凡人にそんなことわかりません。

でもどんな時にも 希望が来る時には来ます。

今がその時なのかもしれませんね。 ほんのその兆しかもしれなくてもです。

今回は以上です。

機会があれば、また、続きを書かさせていただきますね。
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 横からですが あえて投稿してみます。



 ○ わたしたちは人を愛しその欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならない。

 ☆ こういう方針で歩んでいれば 親切を心がけるか否か / 実際に親切にするかしないか / 人を助けるのかどうなのか / そうして それらを規定しようとする宗教・道徳等の規範 これらから自由であることが出来ます。いかがですか。
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#11です。

書き足りないことがあったの足しておきます。

そこで書いたことでもお判りのように、悲しいかな私の幸せの基準は私の心の中に在るわけではなく、私が心を尽くした相手の心の中に在るのです。ですから、私の幸せは相手任せで、その方の目を気にしなければ幸せになれないという性を私は負っているようです。したがって私がどんなに幸福を追求したところで、相手がそれを受け入れてくれるかくれないかという全くの運で私が幸福になれるかどうかが決まってしまうのです。

聞く所によると、幸せを自分の心の中に見つけることができる方もいらっしゃるとのことですが、私にはそのようには出来ないことを経験で悟っております。まあ、人事を尽くして天命を俟つ、という所です。でもそのように幸せになるって運任せかと悟ってしまうと、幸せって以外に身近な所に在るような気もしています。相手に喜んでもらえることをするだけでよいのですから。ですから私は自分が幸せになりたい一心で、機会があったら人に親切をしようと心がけ、自分の幸運に感謝できる時がくるチャンスを増やそう努力しているのです。もちろん、気分によってそんな努力が出来ない時の方が圧倒的に多いですが。
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親切にも色々あると思います。


自分は普通のことをして相手が親切だと感じること。
自分のことを親切だと思わせるために相手に親切の押し売りをすること。
他にも思いつくことはあるかもしれません。

自分の出来ることはしたほうがいいでしょう。
ただそれは親切だからするのではなく、いま自分が出来ることだから
するだけのことです。
それを親切か親切でないかは自分の考えることではなく相手が自由に
考えることです。
いま自分がやりたくないことを無理をしてすることは、自分のことを
親切だと思わせたいがためにしているだけのことだと思います。
何もしないで放って置ける親切もあるのではないかと思います。
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私は無宗教団体派ですが、自分の狭い経験から「私は人に親切にすること以外に自分が幸せになるこは出来ない」という、とても偏った意見を持つに至ってしまいました。

自分が心を尽くした方達から「ありがとう」と言われると天にも昇る幸福感を味わえることに気が付いたのです。もちろん美味しいものを食べた時も、前から欲しいと思っていたものが手に入った時も、また、何かの願いが叶った時も、それなりの喜びを感じましたが、その喜びなんて上で述べた喜びと比べれば、そんなもの全てを失っても良いくらいです。私はこの幸福感を味わいたいので、これと決めた方に心を尽くして、自分ではなく相手を喜ばせることに全力を尽くす努力をして居ります。

ですが、それを果たして不特定な一般の方にまで心を尽くせるかと言われると、自信がないどころか、そんなことは私には不可能でしょう。ですが、私のようなとるに足りない者でも人の役に立つことができることも在るのだという束の間の幸福感を味わいたいので、出来るときには困っている人に手を貸すことも在ります。

若い頃にヒルティの『幸福論』を読んでいたら、「良い行いをするにはそれを自分の習慣にしなければ駄目だ。いちいち良い行いをするのかしないのかをその場の状況で考えながら決めていては良い行いをする機会を失ってしまうことがあるからだ」と言うようなことが書いてあって目から鱗が落ちたような気がしました。今の私は、彼の最後の部分を「幸福感を味わう機会をしなってしまうことがあるからだ」と理解しています。多分質問者さんはヒルティのいう「習慣」を「惰性」と表現しているようです。ヒルティに言わせると「惰性」にすることが本質だと言うことのようです。

ですから、私は自分が幸せになりたいので、やはり人に親切にした方が良いのかなと思っております。
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1、<他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。



宗教では、たしかに昔だけでなくて今の時代まで尾を引いている感じで そちらの言われているような“善いことをすれば天国にいける。 極楽にいける。 あるいは現世でも利益がある。”とかいった子供じみたしつけみたいな感じでの教えとかもあったりします。

にんじんをふらざげて 善というゴールにウマを走らせるみたいで、 これこそちょっと動物レベルのニオイがします^^。

また キリスト教でも 原罪という考えで人間の罪をとらえていますが、これは哲学ではおそらく現代にては否定されてるはずの考えです。

神の知性は すべての因果を知っているのですから神にとってはどんな悪人もそうなってしまった原因をとことん知っていて それこそ「罪を憎んで人を憎まず」の当体のような知性なのですから、  ちゃんと神とはと考えれば、罪など最初から存在しないということがわかります。   

神にとっては、と考えてもいいことです。 人間にとっては生物でもあるのですから 苦しめられればその悪を行うやつへの憎しみは起こってしまいます。 

ただ、神を信じることが出来なくても、 どんな悪人にもその原因があったという知性を働かすことで、私たちは怒りとかを越えて赦す魂をもつかむことは出きるようになっているかと思います。(怒りや苦しみは悲しみの渦中にてはなかなかむずかしいでしょうが。)

そこは修行しだいでしょう。

償いのために善をというのは、 ほんとうは、社会の全員が過去にとらわれないで善の方向へ向かえるような教育体制がそこにあれば、それで済む問題ですから、  むしろ悪人をそのレッテルで見たりしばったりするのはその人間の度量の無さを意味するだけだと思います。

そういった面は 宗教にとらわれる必要は全くないと思います。 むしろ宗教の方が未熟だと思っていいことだと思います。

宗教の有無にかかわらずすこしでもでっかい大きな心をもちま笑。

あと、宗教の作り出す善への進めには 無理やり性とでも言えてしまうようなものがあったりするのも問題です。  道徳、あるいは最高道徳とも言われる愛を至上の価値とするあまり、それを強要しすぎるのです。

ほんとうは、苦しいことや楽しいこと等の積み重なりのうちに、人への愛情は準備されてゆくものと言えます。   ただ、これも経験=愛への階段とうわけではないので、 ここに感動しながら成長してゆく 感性の成長を考える必要があるところなのですが、   ともあれそうした自然な成長を飛び越えて 無理やりに善を強要すると 心の内側にはもともと育った善の心も破壊されてしまうという いわゆる真心と偽善との分裂の問題が起こってしまうのです。

そちらの場合も、この理由から 最初宗教から親切心を学んだせいで 宗教を離れた地点で不自然さがなくなってもいきつつ、 真心は何かむしろ阻害されていたという経過をだどったのかと思います。

文面全体から受ける感じでは、 あなたはステキな保育士に成れる感じを受けます。  がんばってください。     かなり相手に寄り添った保育の出きる方であるかと思いますよ。  

2、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>

人に親切にすると 喜んだ顔が見れるしうれしくなる時もあるし、それがいつもうれしくてしかたのないような人もいると思います。  お返しを暗に求めてる時や、それをいつも腹に隠し持ってる^^ような人もいるでしょう。( わ  わわわたし自身も     こここころあたりがあるるるところでですす。   ハズカシイ!)

私も 昔は、あらゆる恥ずかしい未熟さをいっぱい持ってました。

でも純粋な親切心は、いつしか芽生える時が来ます。

感性さへ磨いて常に心を豊かにしようと努力していればいいんです。

日本人なら季節を肌で感じたり、 雨や風や竹藪の風の音を静かに聴いてみたり 思い返してみたり…。

本物の歌とか音楽を虚心坦懐に聴いてみたり、

川原の草いきれの中で、ドテっと寝転がってみたり、

自転車が好きならば 自転車で旅をしてみたり、

おもいっきり楽しみながら感性を磨いていってみてください。

子供にも けして受験のみ、あるいは道徳のみの押し付けではなく、スポーツや大自然を愛せる心をはぐくんであげ、またそれを育てるような環境をいっしょに楽しむことをこころがけて、 ごいっしょに成長してゆけばいいのだと思います。   いつまでも 心の奥底から愛していられるように…。

3、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?>
4、<宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。>
動物が人間の脳に成長した時に一番大きな変化をしたのは「自他、物事をみつめる目」を得たことです。  ここでは詳しいそのへんの私の考え略しますが、 ともかくその最初には動物のように自分の生存のためにしか仲間をも愛せかなった狭い枠を脱出し、 はじめて人間と人間として「友」として見たのです。    しかも、 星も実は この宇宙で始めて「見る」存在が生まれたのです。  簡単に言いますが、これが感性の始まりです。 無味乾燥な宇宙に意味とか価値が その言葉以前に生まれた瞬間です。 始めて、その生物は星を見上げて 別の生物と目と目を見交わします。 この青い軌跡の星に、その時、そういう脳が生まれたということです。 

人間のみにある「笑い」という希望の微笑みも、その時誕生したわけです。 

赤ちゃんは最初 オギャアアアアアアアアアアと泣いて生まれますよね。

その時には、なんと猿以下の脳しかまだ無いそうです。

でもそれから人間の赤ちゃんはいきなり進化の過程を進みだし猿達の脳をはるかに越えてものすごいスピードで成長します。  

始めて赤ちゃんが笑った時のこと覚えています?

始めて目と目が 微笑み合ったような通じ合えた瞬間、 わたしは、それが本当の誕生日だとさへ思ってしまうのですが、 そのやすらかな目は「希望」でありかつ人間のふるさとでもあるかと思うのです。

人間は 「見つめる」脳によってやがて「言葉」も獲得しますが、それが文明を生んだとはいえ 嘘をつける脳力とかも手に入れてしまいます。 複雑な頭となり 真心の世界を忘れていきます。

が それはすべて、おそらく赤ちゃんや原初の人たちのような弱さを越えたもうゆるぎない新鮮な知能とともにある「ふるさと」をもう一度手に入れる過程なのだと思います。   

《他人への親切心が薄い。 分け隔ての無いおなじ人間へのリスペクトを普段忘れている、あるいは思い出せない。》  これは、

これは あなただけの問題ではなく、 人間が文明が抱え込んだ魂のうずきです。  動物レベルにもどったということではありません。

うずきつつ、やっぱり人間は成長しています。 そこを哲学していってみてください。  あたらしい世代の命たちとともにです。

この回答への補足

arayata333様

重ねてのお返事ありがとうございます。
現在少し落ち着いていますのでゆっくり読ませていただきました。
大変心が安らぎました。安眠できそうです。

>ただ、神を信じることが出来なくても、 どんな悪人にもその原因があったという知性を働かすことで、私たちは怒りとかを越えて赦す魂をもつかむことは出きるようになっているかと思います。(怒りや苦しみは悲しみの渦中にてはなかなかむずかしいでしょうが。)
 
たいへん参考になります。わたしの場合逆恨みというか、運命を呪いたい気分のときに怒りの矛先を間違って主人に向けてしまうみたいです。(そうなっている時の自分は別人のようで、そこから抜け出しているときには、平気です。自分が2人いるような感覚です。) 自分の歪みも原因があるのだから相手にも何らかの体験があったと考えればよいのですね。主人は過去を引きずっていないと自分では言っていて、自分の意志で生きてきたと、言いますがやはり人格的な問題はあると思います。彼の家族の中で一人だけ浮いて性格が突出して攻撃的だったり自制心が弱いのはそのせいだと思います。(彼の家族は全員信者です。)

>ほんとうは、苦しいことや楽しいこと等の積み重なりのうちに、人への愛情は準備されてゆくものと言えます。ただ、これも経験=愛への階段とうわけではないので、 ここに感動しながら成長してゆく感性の成長を考える必要があるところなのですが、ともあれそうした自然な成長を飛び越えて 無理やりに善を強要すると心の内側にはもともと育った善の心も破壊されてしまうという いわゆる真心と偽善との分裂の問題が起こってしまうのです。
 
 わが子にもさまざまな体験をさせてやり、感受性や愛情の芽生えを助けてやりたいと思います。
 自分は教理と経験の両面から育まれましたが、偽善を感じたこと、愛をくれる場所を失ったこと、また離脱は悪人を意味しますので「もう何のため誰のために良い子である必要もない」と自暴自棄になっていたため尚更でした。そんな自分を嫌悪したため友人たちに接する際取り繕うのが苦痛でした。(取り繕えなくなっていましたが…)

>人に親切にすると 喜んだ顔が見れるしうれしくなる時もあるし、それがいつもうれしくてしかたのないような人もいると思います。

笑顔を見ると嬉しくなって…それだけで幸せで。そんな感覚を思い出しました。
>おもいっきり楽しみながら感性を磨いていってみてください。
>子供にも けして受験のみ、あるいは道徳のみの押し付けではなく、スポーツや大自然を愛せる心をはぐくんであげ、またそれを育てるような環境をいっしょに楽しむことをこころがけて、 ごいっしょに成長してゆけばいいのだと思います。   いつまでも 心の奥底から愛していられるように…。

私自身が自信喪失して「自分には最低限食べてゆける能力すらないから生きていくのが大変」と感じていたため、楽しみは自活力をクリアした上で許されるデザート的なものと思い込んでいました。(私って変ですね!)でも子どもにとっては感性を刺激する遊びこそ主菜のようなものですね。大切なこと気付かせてくださり感謝します。

>始めて赤ちゃんが笑った時のこと覚えています?
>始めて目と目が 微笑み合ったような通じ合えた瞬間、 わたしは、それが本当の誕生日だとさへ思ってしまうのですが、 そのやすらかな目は「希望」でありかつ人間のふるさとでもあるかと思うのです。

まさに今朝でした。泣きそうになりました…旦那には笑うのに私には笑ってくれないなぁと思っていたので。(新生児なのでまだ条件反射かもしれませんが、目と目が合いしばらくの間私と一緒に笑っていたんです。感動でした)


>これは あなただけの問題ではなく、 人間が文明が抱え込んだ魂のうずきです。

 自分が異常だと思うと怖くなりますが私だけの問題ではないのですね。
 孤独の病巣ではなく他者と共に考えることのできる材料なのだと思うようにしますね。

arayata333様他にもたくさんの方のコメント本当にありがとうございます。心強く、温かく、皆様のご親切を感じ貴重な体験になっています。
ゆっくりとそれぞれ拝読させていただきます。お返事がすぐできず申し訳ありません。

補足日時:2008/12/05 01:32
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