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私は人生でほしいものがただ1つあり、そのために生きてきたのですが、本当はそれはほしかったわけではなく、単に生をつなぐ命綱のようなものだったんだと最近わかりました。
そして人生に目的や意味なんてなく無意味なんだな、とつくづく思い、気力がなくなり、自分が固執してきたものや生き方が色あせてみえ、その他にはこれといって何をしたいわけでも、何が欲しいわけでもなかったので、そんな中であと何十年と寿命があるんだ、と思うとその重圧に生きるのが苦痛になってしまいました。
私には目的が必要だったのかもしれません。でもその目的が形骸化してしまった今では何も手に残っていません。特にこれといった趣味もなければ楽しみも取り柄もない人間です。
こういうとき、どうすればいいのでしょう

A 回答 (20件中1~10件)

自分の価値というものは自分で作るものです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
それが見出せず苦悩しているのですが・・・
どっちにしろ自分で解決するほかない問題、なのでしょうね

お礼日時:2008/12/28 00:54

>自分が無価値だと自覚したら生きることが受身になりました


だとしたら、多分おそらく、「自分が無価値」という考えが間違っているのでしょう。

誰が、貴方が無価値であると教えたのでしょうか? どこかで「自分は無価値である」と学んだはずですよね?
私には答えはわかりません。が、そこらへんを直視しないといけないような気がします。
>何も手に残っていません。特にこれといった趣味もなければ楽しみも取り柄もない人間です。
存在するだけで貴方は価値があるはずです。むしろ、まったく何も持っていないというのは、もしかしたら素晴らしいことかもしれませんよ? まったく取り柄のない人間なんているんでしょうか? 私には、杞憂に見えますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かにそうかもしれません。意味がないことで楽に生きれるかと思ったのですが、意味がないことに絶望しているという矛盾です。
はい、モームにかぶれてこうなってしまいました。。
どうしていいのかわかりませんが、もう少し耐えてみます。

お礼日時:2008/12/28 01:04

生物は生きるためには水や食物のほか適当な環境を必要としています。

体のつくりもそれに応じたものになっています。ところが人間はなぜか頭が異常に大きくなって体が生きていくのに必要な知恵以外のことをいろいろ考えてしまいます。だから体が生きていく以外には目的はない時頭は困ってしまいます。そこで趣味などで自分の目的を新たに作り出そうとするのではないでしょうか。特別そういうものを作り出さないならば体の寿命だけ生きていれば満足満足というように考えるほうがりくつにあっているのではないかと思います。
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 私(72男性)みたいな、勝手な人間でも、時にそういうようなことも考えることがありました。

位相や内容は多分違うでしょうが。
 
 1. やはり、自分の発達と改善に目指すことはどんな場合にも必要で、自分が無価値ということとは関係ないですね。
 2. 誰かのための、社会や歴史のための、責任を外れることは出来ませんね。空気を吸い、吐き。日光に当たり、地上を歩き。肩には着物をつけ。なんぴとといえども、こういうことからの責任を外れらないでしょう。

 無価値と自覚し、そして受身になることはいいけれども、以上のことは自分でやらなければならないことでしょう。
 受身という受容性はいいことでしょう。中途で思索をやめないでください。
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自分が「これだ」と思い、没頭してきたことに、価値がなかったと思った途端、「自分の今までの人生はなんだったのか」「無駄だったし、これからの人生も期待できない」って思ったってことですよね。




これは、心理学のカテの方が、もっとわかりやすく説明してくれる人がいると思うのですが、、、

同じような質問を2度しちゃいけないってルールがあるし ねぇ・・・


えっとですね。
あなたの心を、あなたは第三者として客観視してみましょう。

エリクソンって心理学者の研究成果。
http://rzt.sakura.ne.jp/shinri/2006/01/post_1.html

例えば、<乳児期>

自分を抱いてくれて、空腹で不快な状態を解消してくれる相手に対して、信頼という感情を発達させる。
お母さんなんて、一番最初の他人です。
良好な関係であれば、成功し、自分以外の人に信頼を置くようになる。

おなかがすいて不快なのに、さびしいのに、ほったらかされてしまうと、信頼するという神経が育たない。

育たなかった子供が、公園デビューしたとしても、他人に親しみを感じない。

まだまだ 何度も他者を信頼するという機会はやってくるが、最初の段階で、けつまずいているので、他の子供はスムーズに親しくなっていく中、お母さんとの信頼関係を構築するのに失敗した子供だと、難易度が高くなる。
が、まあ いろいろあれば、一気に他人を信頼できるようになり、あることが起こって不信になっても、でも きっと と基本の信頼を強く獲得していれば、裏切られたときも、この人は裏切ったけど、他の人に対しては、今まで通り信頼して接しよう と完全なる人間不信にはならないと思うんですね。
お母さんとの基本の信頼を獲得していると、何度裏切られても、完全に人間不信にはなりにくいんじゃないか と。

その基本中の基本のお母さんとコミュニケーションで、うまくいかないと、人間や社会に対して、基本的に不信になりやすく、何度も信頼を構築する機会があっても、基本が不信なので、おっかなびっくりに人に接するようになる。

   発達に成功すれば信頼、 失敗すれば不信。

ってな感じで、私はこの発達段階を読んでいったんですね。



で、赤ん坊の時から発達のシャンスが何度も訪れ、やりとりを通して、自分と自分の周りとの関係(社会も含む)を構築していくわけです。
(信頼の獲得には臨界期((ある地点以降獲得しようとしても もう発達しない))があるのかもしれないが)


全部成功したって人は、稀じゃないかと。
これはレベル5だが、こっちはレベル3、これなんてレベル2.5とか。
ただ、固定じゃなくて、経験により数値は変化し続け、2.5だったものが4になったり、5になり、また3になったりする。

バラバラだが、補うってこともするわけで、これで失敗したから終わりってことは無い。



で、今回の心理は、4の勤勉さの獲得に成功し、自分も社会も信頼してきたわけで、7で生殖性とありますが、生産が楽しいと思ってきたんじゃないかと。
努力すれば、手に入った。

ところが、没頭してしまい、ゲームでいうなら、クリアーできなければ、駄目人間という枠組みで自分を捉えたため、失敗したとき、今回のことだけじゃ今までのことすべてが、無駄だったと感じたんじゃないかなぁ~ と推測します。


自分に対する信頼と、不信を交互に繰り返し、8の段階にきたとき、失敗も含めた自分の人生を受容すると、自己確立という成功を得られる。

失敗すると、<自分の長い人生はすべて無駄、価値が無かった、これからも価値に無い人生になる> と望みを失う絶望に至る。
望みを絶つことを絶望って言うわけでしょ?
自分で未来に望みは無いと、望みを絶つから、絶望はやってくるわけでしょ?


しかし、人間はファジーなので、揺らぎならが生きており、今の価値観が死ぬまで絶対というわけじゃない。
今はそう終えても、残念ながら変化する性質を人間は持っているので、絶対なんて無い。

今価値のある未来などやってこない と思っていても、また 立ち上がって自分の畑(人生)を耕さずにはおられないんですね。


人生ってのは、その右往左往しているという中間地点にある。
最終地点に人生は無い。


で、、、気休めかもしれませんが、、、私が好きな詩を紹介します。
私も結構 いや かなり ニヒリストなので、この作者に共感を持つわけですが、、、

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/28kohereto …

<やったところで それが何になろう。
手に入れたと思ったものも幻でしかない どんなに汗水流したところで、幻でしかない。
何のためにやるのか 最終的に何の益も無いじゃないか。
なんと人生は空しいのだろう>

みたいに ずーーっと これは?→虚無、じゃあこれは→それも虚無にひっさらわれる と思考をしていくんですね。


で、この作者どんなにがんばっても不幸が訪れるのは、時が関係しているんじゃないか と推測するに至るわけです。

<タイミングが悪かったか>と人はたまに言いますが、まあ 時が合っていないため失敗したってことはありえると思う。

で、この人はおおよやれることはぜーーんぶやって検証した結果、神に私が許された唯一のことを発見した。
<自分のやった労苦に満足すること。これだけは 神とて奪えない>


労苦? 苦労? イヤだ?
いやいや~。 面白いじゃないですか。

成功したことに満足するだけじゃなくて、失敗したけど、がんばっちゃった労苦に対して、満足する、

辛かった時期を通過してこの地点まで生き延びた自分に満足する。
なんとかならないかと、やって結局 なにもうまくいかなかったけど、なんとかならないかとやった自分の行為に満足する。

努力じゃなくて 生存本能で すったもんだやったのかもしれないが、それでも すったもんだやったことをよしとする。



この作者はユダヤ教徒なので、神を恐れ敬い、せいぜいおいしいものを食べて酒を飲んで楽しもうぜ と結んだために、この詩は聖書に入ったんですね。

(私がキリスト教に関心を持つことになった理由は、この詩だったんですが、、ちなみに私はアンチですけど、この詩は共感できる。)
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[私は人生でほしいものがただ1つあり、そのために生きてきたのですが、本当はそれはほしかったわけではなく、単に生をつなぐ命綱のようなものだったんだと最近わかりました。

]

要は、失恋から落胆した状態ですね。モームは青い鳥を探して最後まで見つけることができずに落胆、絶望に至ったのでしょうね。山の向こうに「青い鳥」などいないのに何故、人々は追い求めるのでしょうかね。「青い鳥」がいるのは「自身の心の内」だけなんですよね。あなたは今落胆から絶望の淵をさまよってるようですが、それもあなたの心の内でしょ。心の中には落胆や絶望もありますが希望や愛、美、創造、繁栄などあらゆる良きこともあるのですね。絶望の淵にいることは逆に心の向きを変えれば良きことばかりでしょう。残念ながらモームや山頭火などはそれに気づかなかっただけですね。この回答でお気づきのはずだから日々心が弾むようになるはずですね。心の向きを変えるだけで全ての世界が違って見えますよ。生き生きとしたすばらしい世界が目の前に広がりますよ。
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 たいへんですね。

たしかに 命綱が切れれば だめですよね。
 でも しばらく休もうとは思わないのですか。
 休んでも 同じですか。
 ★ こういうとき、どうすればいいのでしょう
 ☆ 相談しても 答えは 決まっていますよ。自分で考えろです。回答者たちも そうしているからです。
 なんとか 突き放したいのですが あと うまく 締めの言葉が 出て来ない。
 この回答への応答を待ちます。
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No.1です。



自分の価値を今の時点で見出だすのではなく、これから作っていくのです。
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欲しいものというのは「所有」出来るようなものですか?


所有すること自体が「隷属関係」を意味します。
つまり、自分のものになれば維持管理、処分するまでの責任が付随します。
何のために所有したいかというと自慢することが出来るぐらいで、他にもっともな理由があるなら、そもそも自分の価値を示すことから離れているものなのだから、矛盾になってしまう。

趣味に意味や目的は必要ないもの。
良いとされることなら尚更意味は必要ではない。
悪いことするのに意味が必要となります。

なので手にする努力をし振り回されることを選ぶよりも、他人が努力して手に入れ管理する様を、好き勝手に眺めて満足するのが気楽と思います。
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モームというのは、サマセット・モームのことですか?



私はかなり無学な者ですが 高校生の時にサマセット・モームの「月と6ペンス」でしたか、ゴーギャンの生涯についてかいた小説は読みましたよ。

しかし、その文学者(モーム)の語るゴーギャンという画家と、私の見たゴーギャンの絵から受けた感じとは 一致しませんでした。

モームについては それ以外には何も知りません。

しかし、いくら言葉で飾っても絵それ自体の感性の世界は追いつけないのに 彼は言葉で飾りすぎです。 かえってゴーギャンの絵そのものからは離れていっているように感じました。

もし、そちらが、その地点への気づきの世界を、そちら人生にて気がついたということならば、 今の今はたしかに苦しいのでしょうね。

逆に言えば 分岐点の苦しみとも言えますし、 ここを乗り越えれば、 偉い画家とか 偉い文学者とかいう 世の中の評価とかを超えた 人間の裸のままの価値の世界が見えてきたりする たぶん 正念場に来ているのかもしれません。

ありのままで、価値がある、ありのままでいいんだよ。 というのが回答番号No9の方が 男から捨てられ孤独の中にお母さんとなったときに子供から受けた心の光だったそうです。 (以前 このカテでの質問と回答の中で、その時に書いた詩を紹介してくださったことがあるんです。 感動しました。)

私には詩は書けませんので 直接紹介します。




「子供はみんないい子だよ」

どんな私とでも疑いもなく着いて着て
抱きしめてくれる
もうそれだけでいい

そのままのあなたを
変える必要が見当たらないよ

子供はみんないい子だよ
忘れかけてた笑い方や泣き方
愛し方を教えてくれる


というものですが、孤独を愛しどうってことなく生きててそんな時に生まれた子
で、孤独以外にも苦悩もあって自由もあるって知らなかったんです。それぐらい
私は常識とかからズレてたんです。
比較するものもなく当たり前のように、苦悩が当たり前のように、そして仲直り
だって許しだって自然にしてくれた。
いつか、すぐに自然に帰ってしまいそうな、軽くて小さい、柔らかくて温かい命
に教わったからこそ少しは自然な気持ちが取り戻せたのだと思います。



生きられた瞬間瞬間の命の詩や、 筆のタッチに感性をこめた印象画の世界のうちとくにゴッホやゴーギャンは 散文での説明では語りえない価値を持っているとおもいます。

うまい下手を越えて そういう心の世界を命を描いた人たちなのですから…。

ゴッポの場合などは、生涯誰も認める人がいませんでした。

自殺したのは失意からではないはずです。

最後の母親と子供が農道を歩いている姿の絵は日本では有名では無いようですが、最高に輝いている絵です。 自殺するような失意の人の絵とは言えません。

あくまで 弟夫婦へのこれ以上迷惑をかけたくないが故の自殺だと私は思います。

うまいへたなんて、本当の藝術と絵画とかとは関係ないということです。

それを乗り越えて生きることこそが 本物だということです。

サマセット・モームのその小説にはそういった 本物の庶民の生活は書かれていなかったと思います。  偉い画家としてのみゴーギャンを賛美していたのみだったと思います。

今こそ ありのままのご自分からいきなおす時なのかもしれません。



男女間の愛も、また悩みの対象だったりします。 現代は言葉ゆえにかえって人間の感性や脳まで複雑怪奇ともなってる時代です。 男女間もそれに影響されてしまってたりします。

だから、どの相手が自分と本当に愛称のある相手かとか、 あるいは結婚したりしてから愛称を深めてゆく方法とかがわからなかったりします。 出会いが失意に変わるときもあったりします。

でも、ありのままの自身を大切にしつづけること タフに生き抜くこと、生き抜いてみることで、この男女間の問題は いつ よい相手にまためぐりあえるかわからない世界でもあるということです。

いつか なによりもそしてなにもかも 安心できる男性とめぐりあえるといいですね。

寝息だけでも 無限の幸せを垣間見る感性の何がしかを少しでも感じれば、 すくなくとも理性はその時、 もうくずれることのない希望の光をご自身の中にみつけるでしょう。

konan0404さんが、どのような人か 凡人の私にほんとうのところが解かるはずはありません。  でも  精一杯は そちらの質問文の対応しようと心を尽くし文をつくして書かれている回答者さまがたの人生もまた(私人生だけでなく) これらの回答ですべてわかるようなものじゃないです。

そう考えると 人生 どんな人にも感謝したくなると思いませんか?

どんな回答にも 裏の命は奥深いんです。  そのありのままにてです。

私は そうおもいます。

私は 子供の頃 何度も重い肺炎で死にそうになりました。 そのまま死んでしまったらさて私と言う存在は価値が無かったのでしょうか?

その頃、いじめで さらにひどいことには気が狂ってしまったこともあります。 でもそのまま廃人となって死んでしまったら 私には価値が無かったということですか?

私は、その後 虚弱児施設にて助かりましたが、 さらに青年となってからも なんと五感が全部ほとんど何も感じられず、つまり何もおいしくもなく、何も美しくも無く、どんな音楽も心にとどかず、 どんな香りも虚しく、 すべてが灰色そのものという感じの時がありましたが、 これでは生きる気力どころではない感じだったのですが、そのまま生活も出来ずに死んでしまったら私に価値が無かったと思いますか
( いえ、私はこの永劫の命の連鎖には 捨て猫の命だって 野生のキリンの命だってすべてに価値があると想っています。 命のすべてはつながっていて そのすべてがです。)
そんなにまですべてが灰色で何の感動とかも無かった時、

でも一度だけこんなことがありました。

川原で 心身疲れきって何時間もどてっとね転んでいた時のことです。

何時間かした時に、はじめて私の耳が 川のせせらぎの音が聞こえてくるのを感じました。  それまでは音すら聞こえてなかった?ような感じです。  すると、その音が すこしですが、私の心も癒し始めてることにも気がつきました。

すると、その時になって始めて、 おそらく何年かぶりに、仰向けになった私の目に 青空が青空として目に飛び込んできたんです。 白い雲もです。  すこしです。 その時のことはそれっきゃ憶えていません。

でも そのほんのひとかけらのひと時が、その後の私を徐々に健康な心にしてくれました。

それが心というものだと 今からは思います。

>こういうとき、どいうすればいいのでしょう<

もし、ほんの一筋の光であっても、人間の優しさへの信頼に気が付ければ、 おそらくですが、 わたしは、今のあなたは、他の人も語っておられるように 変わると思います。 変われると思います。  むしろ輝かしい方向にです。 いえ、こんどこそ本当の人生に向かってです。

今が その分岐点なのだろうと思うのです。

みなさん、熱い想いでkonanさんの笑顔を 祈っていると思います。 のりこえてください。 みんな 応援していますよ。
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